9.
忽然と消えた馬車の轍はかろうじて追跡することができたが、その先の光景は衝撃的なものだった。
馬車は御者と馬ごと、崖から落ちていた。
ライアスは急いで馬車の中を確認したが、そこにマリーヴェルの姿はなく、2人の乳母が血を流して倒れていた。
息はあるが、意識がなく状況がわからない。2人とも抱き合うようにして背中を激しく怪我していたから、もしかしたら2人でマリーヴェルを抱きしめて守ったのかもしれない。
周辺を捜索すれば、騎士が一人だけ見つかった。
斬り付けられ、重傷だったがこちらは意識はあった。
「——休憩後、出発と同時に御者が、突然・・・進路を変えて」
騎士で追いかけたものの、そのまま崖から・・・。
ライアスは腑に落ちないままに険しい顔をした。
「騎士が10名もいて、止められなかったのか」
それも普通の騎士ではない。魔力を有し扱える騎士らである。一人で兵士数十人を相手しても引けを取らない実力者達だ。
「体が、動かず・・・申し訳・・・」
それは、ただ反応が遅れたという意味ではなかった。
文字通り体が金縛りにあったかのように動けなくなったのだという。
「おそらく、御者も・・・」
操られていた。
まさか、とライアスは背筋が凍った。
人の体を操るのは闇の属性だ。ファンドラグに闇の属性はいない。
光の属性がファンドラグにしかいないのと同じように、闇の属性は隣国・シャーン王国の、それも1人いるかどうかという希少さである。
それが本当に魔術による襲撃だとすると、隣国の仕業と言うことになる。
戦争から7年程度。再び何か仕掛けてきたのか。それとも——。
マリーヴェルが心配で、どうにも考えがまとまらなかった。
「——動ける者から、順に追っております」
騎士の話を整理すると、マリーヴェルは崖を落ちてから攫われたようだった。
闇の魔力も結局は魔力の勝負には変わりない。
訓練を積めば、操られる時間も短くなるし無効化もできる。騎士らは自力で術を解き、順に追跡した。
だから馬の蹄鉄の足跡を追い、道すがら倒れた騎士を見つけながら追った。彼らは息があったりなかったりだった。
そして、森の入り口で足跡は途絶えた。
騎士10名と御者を同時に操るとしたら、相当な闇の使い手である。
これまで1人か2人を操る、というのは聞いたことがあるが。
前代未聞の未知の相手に、捜索隊に緊張が走った。
霧も濃く立ち込めて捜索は難航しそうな予感がした。
そうして、森の中を捜索していた時だった。
その少女は突然現れた。
アイラである。
息を切らし、必死で走っていたようだった。
「——君は・・・」
「公爵様!助けてください!公子様と、公女様が」
「・・・・は、エイダン・・・?」
屋敷にいるはずのエイダンが。訳が分からなかったが、アイラがとにかく急いでここをまっすぐ、と指し示す。
「急いでください。男たちが剣を持って公子様に襲い掛かってる!」
その台詞を聞いた途端、ライアスは馬から降り、地面を蹴って走った。
身体強化して走れば、森では特に、馬よりも早い。とにかく一直線に向かったところ、剣を振り上げる男達をみつけた。
武器を持った2人は勢い余って斬ってしまった。土に埋もれていた一人は厳重に拘束し、連行した。
子供達をこの腕に抱きしめた途端、全身の力が抜けるような安心感と、今まで凍っていた背中がじっとりと汗をかくようだった。
——良かった。
ライアスは二人を抱いたまま馬に乗り、屋敷に帰った。
屋敷に着いたエイダンとマリーヴェルは、シンシアに抱きしめられ大声で泣き続けた。
シンシアも泣きながら二人の傷を治療し、ずっと抱きしめてキスをした。
特にマリーヴェルはなかなか泣き止まず、シンシアから離れなかった。
シンシアはメイドらに手伝ってもらいながらマリーヴェルをお風呂に入れ、着替えさせてまた抱きしめた。
そうしているうちにマリーヴェルはやっと安心して眠ったようだった。
エイダンも入浴後着替えを済ませて、家族4人がリビングルームでほっと一息つく。
「——エイダン、お腹は空いてない?朝から食べてないでしょう」
「うん・・・いらない」
もう夕方だったけど、不思議とお腹は空いていなかった。まだ興奮が冷めていないのか、さっき意識を失って眠ったからか、眠くもない。
シンシアはマリーヴェルを抱いたまま、じっと考え込んでいるようだった。
ライアスも難しい顔をしている。
その二人の雰囲気を察して、エイダンは黙り込んだ。
「アイラは、とりあえず店に送り届けた」
それを聞いてエイダンはほっとした。あの叫び声は作戦の内だったようだ。
ライアスがその時のことを思い浮かべながら話した。
店のシェフでもあるアイラの父は、事情を聞くなりアイラを怒鳴りつけた。
「この、馬鹿娘!!」
そのあまりの剣幕に騎士の方がとりなしたほどだった。
しかし、当のアイラは飄々としたものだった。
「だって、公子様が助けてって言うんだもん。ほっておけないでしょ?」
「この・・・っ」
「——ま、まあまあ。今回、助けて頂いたので」
「そんなこと言わないでください。こいつ、今日だけじゃねえんです。思い立ったらいっつも、ふらふらして・・・!危険なことに首突っ込みやがって!」
そう言って店の中に引きずり込まれていった。
母親の方はそれを見送ってから、ライアスに対してはひとしきり恐縮して頭を下げた。
「子供だけで街を出たなんて、恐ろしい事。公子様に何かあったらと思うと・・・申し訳ありませんでした」
「——あまり叱らないでやってくれ。事情があるのだろうというのは分かっている」
母親はぴくりと肩を揺らした。
「悪いようにはしない。——また、話を聞きに来させてもらう」
「はい・・・」
ライアスの言葉に、母親は少し諦めたような、それでもやはり不安げな表情を浮かべていた。
「エイダン。先に言う事があるなら言いなさい」
ライアスの声は怒りでもなく、静かに尋ねてた。
エイダンは微動だにせず握った拳を見つめていた。
「ない、です」
「ない・・・?本当に?」
ライアスはため息を飲みこんだ。
「では、聞こう。何故一人で屋敷を出て行ったんだ」
それは、アイラに助けを求めたかったから。けれどアイラの能力の事は内緒、と本人から言われている。
エイダンはぎゅっと口を結んだ。
「エイダン?」
「・・・・・言えません」
「では、なぜ葡萄亭へ行った」
葡萄亭、というのはアイラの両親が営んでいる店である。シチューに使うワインにこだわっていることからその名がつけられたらしい。
「・・・・・・・」
「アイラが何らかの能力を持っていて、それを頼みに行ったであろうことは、わかっている。秘密にしてほしいと言われていたのか?」
アイラが話したのだろうか。エイダンは不思議に思ってライアスを見た。
「——エイダン。秘密にしてほしいと言われたから、誰にも言わずに屋敷を出たのだとしたら、それは大きな間違いだ」
ライアスにひたと見据えられると、エイダンは身が竦んだ。
「お前はペンシルニアの公子なんだ。お前ひとりの命で、この国の行く末が危険に晒されることもあり得る」
例えば人質にされたら。この国の要であり最大の剣であるペンシルニアの喉元に刃を当てられているようなものだ。
しかし、それはまだ、エイダンには難しかった。
どうして自分の命で国がどうこうという話になるのか。
エイダンは必死で考えた。何が正解だったのか、結局、ライアスが来なければ死んでいただろうこの命のことを考える。
シンシアがそっとライアスの腕に手をやった。ライアスがそれに気づき、深いため息をつく。
「——母上に言う事はないか」
エイダンはまだ口を結んだまま、シンシアを見た。
シンシアはすっかり赤く腫れた目をしていた。
いつもの優しい母の顔ではなく、ただただ悲しそうにしていた。
「エイダン。貴方を失うかもしれないと思った時、もう・・・」
シンシアはそれ以上言えなかった。考えたくもない。
「ごめんなさい・・・・」
「私達に、言えなかった?命の危険があるって思っても、母上に話すことができなかったの?」
そうではない。ただ、そこまで考えられていなかっただけだ。
マリーヴェルを助けなければ。そのためには、アイラの能力が要る。それしか考えていなかった。
はあ、とシンシアは手で顔を覆った。
「お願い、エイダン。もう二度と黙っていなくなるなんてしないで。約束してちょうだい」
シンシアの声は掠れていた。
こんなに頼りない母を見るのは初めてだった。
エイダンはぐっとこらえて声を絞り出した。
「心配をかけて、ごめんなさい」
そう、心配をかけてしまった、そのことに今ようやく気付く。
後悔がどっと押し寄せてくるが、それを言葉にできるほどエイダンもまだ上手くはなかった。
「——ごめんなさいで済む問題でもない」
ライアスは指を鳴らして人を呼んだ。外に控えていたタンが静かに入ってくる。
「今日から許可するまで部屋から出ることは許さない。訓練もなしだ。何が悪かったのか、どうすべきだったのかタンに教わりながら自分の行動を振り返りなさい」
エイダンは力なく頷いて立ち上がった。シンシアが腕を伸ばしてそっと手を握る。
「無事でよかったわ。本当に・・・良かった」
「・・・・・・うん」
マリーヴェルを抱いているから抱きしめられない代わりに、その手をぐっと額に寄せ、祈るようにシンシアはそう言った。
エイダンは何と言っていいかわからず、喉で言葉がつっかえているようだった。
エイダンが出て行ってから、ライアスはそっとシンシアの肩を抱いた。
「大丈夫ですか。休んだ方が良いのでは」
確かに、疲労は溜まっていた。能力も使って体は限界だった。
それでも妙に神経がとがっていて、休めそうにはない。
マリーヴェルも心配である。
ライアスはそんなシンシアを寝室に連れて行き、マリーヴェルを挟んでベッドに横になった。
マリーヴェルを抱きながら、それでもすっぽりとライアスが包み込むように抱きしめてくれる。
「眠れなくても、休んでください」
ライアスがとんとんとあやすように背中を叩く。
「・・・本当に、ありがとうございます」
事後処理に向かわなくてはいけないのではないだろうか。犯人の一人を捕らえてあると聞いている。
闇の属性の話も。
「——今は、難しいことは考えずに、ただ休みましょう。エイダンもマリーも無事だったのですから」
ゆっくりと頭を撫でられて、シンシアはやっとほっと息を吐いた。
手の中で寝息を立てるマリーヴェルの体温を感じる。
「本当に・・・良かったです」
「はい」
「私はただ、ここで待っているしかできなかった・・・。本当に無力で、自分が嫌になります」
飛び出していって探し回りたかった。光の属性のこの身を呪ったし、そのくせ非力な己を恨んだ。
「そんなことはありません」
ライアスがきっぱりと言い切る。
「貴方が家族の要です。いつも」
ライアスはシンシアの頬にそっと口づけた。熱のこもった目で見つめられ、シンシアの緊張も少しほぐれる。
「私の方こそ、どうしていいかわかりません」
「——え?何がですか」
「エイダンです。どうやって叱ればいいのかわからないのです」
それこそマリーヴェルと同じ2、3歳の頃は、エイダンもやんちゃをしていた。けれど徐々に成長し分別を教わるようになってからは、ずっと優等生でライアスが叱るようなことはしたことがなかった。
せいぜい、約束の時間に遅れたり、おやつを食べすぎたりといった軽いものだったから、その場でシンシアが叱る程度だった。
「私はよく、閉じ込められて食事を抜かれました。しかし成長期に食事を抜くようなことはしたくありませんし」
そうね、それは私も反対だ。
シンシアは同意した。
「鞭で打たれたこともありますが・・・」
「とんでもない」
「ですよね」
悩ましい顔をしているライアスにシンシアはやっと笑みをこぼした。
「ちゃんと叱っていたように思いますけど。そんなことを思っていたんですね」
「はい。——貴方は、どうでしたか」
シンシアは最近の記憶を辿った。
母親を亡くして可哀想な王女、として育てられた自分は、ほとんど叱られた記憶がない。
悪いことをしても、前王太子だった兄が優しく窘めて抱きしめてくれたように思う。
前世では・・・ごくごく普通の一般家庭だから。怒鳴られたり、ひどい時はゴツンと殴られたこともある。
では自分はどうだっただろうか。
娘3人にどう叱っていたか・・・必死すぎてあまり覚えていない。こらー!と怒って、そんなに怒らなくても・・・という夫にまた怒って・・・。
結局、上手に叱るなんて無理なんじゃないだろうか。どうしても感情的になってしまう。
「そうですね・・・難しいですね」
記憶を辿ったせいで無口になったシンシアを、促すでもなく、ライアスはただゆっくりと髪を撫でていた。
「正解は分かりません。愛しているから、必死ですもの」
そう言って色々考えていると、シンシアにもようやく眠気が襲ってきた。
ライアスの温かい腕の中で、シンシアはゆっくりと眠りに落ちた。
んー、難しいです。
何のために叱るのか。何が正解なのか・・・。




