番外編2-2 憧憬
ライアスは、ペンシルニアに生まれた唯一の直系の子供だった。
ペンシルニアの厳格な教育方針は貴族界でも有名だった。物心ついた頃には家庭教師が付き、親よりはその者達との関わりがほとんどだった。赤ん坊の頃も、育てたのは乳母であって母親の記憶はそれほどない。
記憶にある限り両親に抱きしめられたことはない。顔を合わせるのは、カトラリーの音さえしない静寂に包まれた晩餐の時くらいだった。
それも月に数回。
特に父親には、公爵家としての教育と武術全般の進捗状況を報告しては教示を受ける、今思えば上司の様な存在だったと思う。
シンシアが子供達を育てるのを見るまでは、それが普通だと思っていた。
シンシアがそれは愛おしそうにエイダンを抱きしめ、マリーヴェルを抱き上げる姿を見る度に、温かい気持ちになるとともに、それがひどく尊く、手を伸ばすのも躊躇われるような。
——そんなライアスの感情を知ってか知らずか、シンシアはいつも有無を言わさず赤ん坊を抱かせるのだった。
シンシアを初めて見たのは、父に付き添って王宮へ行った時。かなり遠目にではあったが、遠くからでもわかるほど、シンシアの周りが光り輝いていた。
天使がいる、と幼心に息をのんだ。
そして、初めて言葉を交わしたのは忘れもしない、剣術大会での事だった。
「ペンシルニアの後継として、恥じない結果を残せ」
父にそう言われていたし、土の魔力は他に並ぶものもないほどに大きく、実際ペンシルニアの騎士団の中では一番強くなっていた。
剣術大会では、優勝して当然だと言われているのだと思っていた。
だが、いくら力が強くとも、魔力を有していようとも、大人相手にそう簡単にはいかなかった。
いつもの剣術とは違う相手との打ち合いは間合いからして難しく戸惑ったし、参加者は若者たちとはいえ、ライアスよりはよっぽど経験豊富な者たちだった。
技術の差でライアスは負けた。それも、それなりの深手を負って。
負けるだけではなく大きく傷を負って、ライアスは今までで一番の挫折を味わった。
ペンシルニアの後継として、これではいけないのに。
救護室に運ばれる頃にはもう何も考えられなくなって放心状態だった。
そこに来た銀に光り輝くシンシアを見るまでは。
「——まあ、ひどい傷」
シンシアはそう言って、心の底から痛まし気にそっとライアスの胸の傷に触れた。
ドクン、と大きく胸が鳴る。
「うまくできるかわからないけれど、私に治癒術をかけさせてもらえるかしら」
シンシアはまだ小さな手をそっとかざし、あっという間に傷を塞いだ。
ライアスにはそれが、神の御業のように思えた。
「——もう泣かなくても大丈夫。痛くはないでしょう?」
にこりと微笑まれ、そこで初めてライアスは自分が泣いていたのに気づいた。
瞬間、一気に顔に熱が集中する。
負けて涙を見せるだなんて、騎士にあるまじき姿だ。
「シンシア。治癒術を使ったのかい」
遅れて様子を見に来た王太子が少し驚いたように言った。
「いつもは怖がって使わないんだ。ライアス、お前のことが放っておけなかったんだな」
王太子にも涙を見られたのだろうか。
「面目ございません・・・」
それを言うのがやっとだった。
シンシアは優雅に微笑んだ。金の瞳が優しい色合いに揺らめく。
「僕・・・私は、貴方をお守りするためにおります」
気が付いたら膝を突いていた。
「もっと強くなります。その時は、その時こそ、私に、貴方をお守りする栄誉を、お与えいただけますでしょうか」
シンシアは少し不思議そうに首を傾げた。
「えっと・・・?」
「許す、って言っておけばいいんだよ」
シンシアのふわふわの髪を撫でて、王子が苦笑しながら優しく話しかけた。シンシアは少しだけ困ったように、しかしふわりと花開くように笑った。
「許します。よろしくお願いしますね」
この時のことは思い出すだけで恥ずかしいやら情けないやらだが、それでもやはり、ライアスにとってはかけがえのない思い出だ。
それ以降は、王城に行く度つい探してしまう日々だった。
「おい、光の君が中庭にきてるって!」
「マジか!見に行こうぜ」
「俺も!」
「おい、ライアスは!?」
そうして団員仲間達が騒いでいる時も。
ライアスは同じように見に行くことさえできなかった。
騒いで見に行くなんて、恐れ多い・・・。
王太子とよく会うようになったものの、その場にシンシアが来た時には、固まってろくに返事もできなかった。
王太子がシンシアを優しく撫で、シンシアが王太子を嬉しそうに見上げるその光景を、ただ見守るだけで満たされる思いだった。
やはり、恐れ多い。
そう思い何度も断ろうと思った。
だが、重臣らはそれでも足りないという程だった。
「王家に代わって負った負債もそうですが、何より我らは今回の戦争で、多くの同朋を失ったのです。前途ある若者から、歴戦の騎士たちまで。生半可な補償では誰も納得しません」
「公爵閣下。長い歴史を見ても、これまで王家の他に、強い光の魔力が産まれたことはありません。それがこれからは、ペンシルニアにもその系譜が受け継がれるのです」
「これほどの歴史的変化をもってこそ、皆が納得するのではないでしょうか」
ライアスにはまだ、これらを突っぱねるだけの力も経験もなく、思いもなかった。
これまでろくに言葉も交わせなかった第一王女。
愚かにも、あの光り輝く存在と並ぶ自分を想像してしまった。
だから罰が下ったのだろうか。
神にも等しい方に手を伸ばし、我が物にしようとするなどと。
許されるはずがなかった。
結婚後はそれはひどいものだった。
シンシアは王太子の死からまだ立ち直ってはいなかった。その上家族から見捨てられたように嫁がされ、憔悴しきった様子で、食事もろくに食べられない様子だった。
「お前だけ生き残って」
「兄を殺し、更には王家の地位まで狙う悪臣」
「土臭く泥臭い野蛮人」
シンシアの怨嗟の声を、ライアスはただ黙って受け止めるしかなかった。何も言い返せなかった。
後継を成せと言う一族の圧力に押され、結婚からの一連の流れにただ身を任せるように初夜を迎えた。
以後は、シンシアとの関係性は壊滅的だ。
シンシアは部屋から一歩も出てこなくなった。
何かの拍子に顔を合わせるとあらゆる近くにあるものを投げつけられ、屋敷中のものを壊される。
「化け物!」
「今度は私を殺すのね、お前は!」
シンシアの叫びに、ライアスの中で何かが崩れ落ちた。
こんなはずじゃなかった。
どこで間違えたのかが、全くわからない。
自分はただ、命じられたことに従って、慣例に従って生きてきた。それが必要なことで当然だとしか考えず。
——だが、今はどうだ。
ペンシルニアの体裁は守れたのかもしれない。
だが、自分が一番守りたかったのは、こんなものだっただろうか。
幼い見習い騎士だった頃の誓いは、ずっとこの胸にあるはずだった。
あるはずだったのに。
徐々に足は屋敷から遠のいた。
ちょうど騎士団長の職に就き多忙を極めたが、それに加えて、ペンシルニアの公爵たる地位を確固たるものにすべく奔走した。
一族の者たちに貸していた権利を回収し、公爵としてのあらゆる権利を名実ともにこの手にする。
慣れない業務に眠れない日が続いたが、時間が空くよりはずっと良かった。
死に物狂いで地位を築き上げれば、自分で考えて決められる。
やがてシンシアの長男出産の知らせを受けた。
そして命も危ぶまれている、と。
ライアスは益々仕事に打ち込んだ。
寝食を忘れて、ただ仕事に没頭したかった。
シンシアが死んだら、自分も死のう。
そう思ったら、少しだけ気が楽になった。
やがてシンシアは一命をとりとめ、回復に向かい。
さらにはその子が茶色い瞳と王に報告すれば、どこから聞きつけたのかペンシルニアの重役会議で、一族の者たちは事も無げに言い放った。
「第一王女の回復を待って、すぐにでも第二子を」
「次こそは金の眼のお子様を」
急激にその面々が醜悪なものに見えてきた。
自分はこの者達の言う事に、何も考えずに諾と従っていた。
怒りはほとんど過去の自分の愚かさに向けられたものだった。
何も考えず、この醜い者達の筆頭となって実行したのが、ライアス自身ではないか。
「閣下、次はいつ——」
ライアスは会議室の机を叩いた。机が真っ二つにひび割れてようやく、一族の者たちは口を閉じる。
「私は種馬ではないし、貴方がたの傀儡になるつもりもない」
屋敷への立ち入りを全面的に禁じ、間違ってもこの者達がシンシアと関わることがないように細心の注意を払った。
シンシアの周囲は、彼女を守り傷つけないもので固めた。
ペンシルニアの屋敷は、シンシアのための、シンシアだけの王国に。
シンシアの望むまま、シンシアの好きなものだけで——。
自分は遠くから支えられたらいい。
できるだけ事務的に、必要最低限の関わりだけにして。
子供が大きく育てば、できるだけ早く公爵位を譲ろう。
そうすれば自分はもう、役目を終える。
役目を終えれば、命をもってシンシアに償いをしよう。
その思いを頼りに生き続けていた。
ライアス……
愛されている実感なく育ち、自己肯定感が極端に低いため
成果への確信が持てず、失敗に対しては向き合うより投げ出す方が良いと考えてしまっています。
自分がどうこうするよりいない方が良いような気がしてしまうんですね。




