第42話 大坂包囲網
ちょっと体調を崩しておりました。明日の投稿も夕方以降になると思います。申し訳ありません。
今話も全編3人称です。
摂津国 大坂
畿内諸藩に加え、津藩の藤堂監物らが旧幕府軍から離反したことで兵力的にも互角となった6藩は新政府軍として大坂に向かって行軍を開始した。土佐藩・宇和島藩などの藩兵も姫路に到着し、姫路から陸路で東に動きだした。
徳川慶喜は内大臣の退任と所領半減に加え、江戸からの退去などを条件に講和を求めた。しかし幕臣から情勢未だ定まらずとして反対意見が噴出した。実際、幕府海軍によって最新式の訓練が行われた旧幕府陸軍も大坂に到着しており、戦力的にはまだ戦えると言える状況ではあった。ただし、徳川慶喜はこれ以上戦闘が長引けば諸外国に付け入られると判断しており、すでに戦闘を続ける意欲を失っていた。
徳川慶喜は抗戦を訴える諸藩や重臣も、総大将の自分がいなければ戦わなくなると考えた。慶喜は諸藩に対し停戦を命じた上で側近で海軍軍艦奉行の矢田堀景蔵を派遣して停戦交渉を求めた。
一方、神戸を含む大坂湾を掌握していた海軍は盛岡から戻っていた榎本武揚が徹底抗戦を主張し薩摩藩の船を次々と鹵獲・砲撃して周辺の制海権を手に入れており、和歌山封鎖によって紀伊藩から援軍を勝ち取っていた。紀伊藩は在京している家老・安藤直裕を追放して親徳川宗家の立場に立ちつつ、安藤直裕の家族は城内に保護することで万一の時は薩摩ら6藩に恭順も可能なように動いた。
薩摩藩など6藩は自らを『官軍』と称して各藩へ恭順を求めるとともに各国の公使などに「徳川政権からの外交権の継承」を訴えた。当然徳川慶喜は制海権の所在などを理由に継承はされていないと主張しつつ、新しい政府への穏便な継承と新政府への参画を目指した。内大臣の辞任含め慶喜側はこれ以上戦闘せずに全てを収めようと考えていたものの、官軍は徳川慶喜・松平容保・松平定敬・牧野忠訓などの個人とともに、備中松山藩(老中首座)・姫路藩(老中)・伊予松山藩(元老中・親藩)・長岡藩(北越軍の取りまとめ役)なども朝敵として認定した。既に土佐藩などによって姫路藩領は大部分が掌握されており、姫路藩はその数日後に一部大坂に駐屯する藩主率いる藩兵以外が降伏した。
前線で睨み合いが続く中、大坂にて備中松山藩主・老中首座板倉勝静と慶喜は今後の方針を含めて話し合いを続けていた。
「既に姫路藩と我が(備中)松山藩は広島藩主導で諸藩の兵が攻めこみ降伏したとの報が」
「すまぬ」
「構いませぬ。この老骨を切り捨てることで領地が安寧ならば。しかし、御兄弟や北越諸藩を守るならば何とされるか」
「しかし、ここで戦い続ければ諸外国がどう出るかわからぬ」
実際、この時点でフランスは貿易利権を対価に軍事支援をもちかけていた。イギリスやアメリカなどの公使は現在神戸でフランスを交えて会談中だが、彼らの声明は現時点で旧幕府側に伝わっていない。欧米諸国の代理戦争となる危険性がでてきた以上、徳川慶喜という人は戦うという選択肢を失っていた。
「紀伊藩が援軍を送ると申してまいりました。兵数では今も我らが優位にございます」
「紀伊は榎本の脅しに屈しただけであろう。榎本は海を我らが押さえている限り負けないと申しておるが、紀伊藩は決して乗り気ではあるまい」
「しかし、ここ大坂含め摂津・河内で勝てればまだまだ勝機は十分にございますれば」
「長州攻め含め二度も攻め切れなかった以上、戦うなら動乱は続く。これ以上多くの人を、地を、戦禍に巻きこむのは諸外国に付け入る隙しか与えぬ」
慶喜は自らの命と引き換えでもこの戦を終わらせようとしていた。しかし、板倉勝静はこれに反対していた。徳川宗家のためでもあるが、誰かが死罪などの処分を受ければ、他の誰かが死罪などに処される可能性が出るためだった。
「余が大坂を退去すれば戦は止まるだろうか?」
「榎本が船を渡しますまい」
榎本武揚らは大坂湾から神戸一帯を警戒し、幕府所有の船舶を艦隊を組みつつ広範囲に展開していた。そのため、慶喜が海路で逃亡するのは困難な状況となっていた。制海権維持を名目に、榎本は大坂を離れたがる慶喜が逃げるのを防ごうとしていた。
「大和方面も薩摩らに同調した今、海路を失えば交渉さえ困難になる。難しいか」
「何とか本格的に衝突する前に話し合いを終えたいですが、そのためなら勝(海舟)を呼ぶしかないかと」
「確かに、薩摩と話せるのは勝だけか」
こうして慶應三年は終わり、時代は慶應四年に向かっていく。
♢♢♢
山城国 淀
新政府が入城した淀城では仁和寺宮嘉彰親王が本陣を置き、大坂方面の旧幕府軍と対峙していた。攻勢にでているはずの官軍だったが、諸藩の兵が合流しつつあるといっても人数的不利は変わっておらず、薩摩藩などは国許から増援を派遣したもののその到着は姫路周辺になっている。神戸港までを幕府海軍に掌握されている関係で土佐兵や宇和島兵を含む諸藩の兵は姫路から陸路で越水周辺まで移動する形になっていた。また主要6藩と秋田藩は大きな被害を受けていた関係で、最新装備をもち士気も高い部隊が最も損耗している状況となっていた。この部隊が前線に立たなければ旧幕府軍の最精鋭部隊とは戦えないので、薩摩藩などの諸藩は攻勢にでるのを躊躇せざるをえなかった。
総攻撃するに際し、薩摩藩の西郷隆盛は土佐藩や宇和島藩、そして越前藩といった最新武装をもつ藩とともに盛岡藩にも出撃させるべきと判断。有栖川宮熾仁親王が直々に盛岡藩主・南部利剛に令旨を発した。楢山佐渡は薩摩と一部公家の強引なクーデターに批判的だったものの、藩主の南部利剛が最終的に朝命を重視してこれを受諾した。これによって最新武装の部隊が確保できた新政府軍は、慶應四年1月12日から大坂方面への攻撃を開始した。これに先立ち、イギリス政府とフランス政府、そしてアメリカ・ロシア・オランダ政府などに対し、官軍は今回の戦闘への『局外中立』を認めさせることに成功した。諸外国が干渉してこないことが確定したことで官軍は幕府との最終決戦を望み、大坂郊外で大規模な戦闘が繰り広げられることとなった。
「西郷、状況は?」
「は。やはり盛岡藩兵が最も練度が高く優秀でございます」
有栖川宮は陣羽織を着ながら西郷隆盛の計画を聞く。
「今まで御所警護で兵を損じていないからな。日和見な面は多分にあるが、ここで最前線に立つならば問題あるまい」
「しかし、大坂湾を何とか手にせねば幕府の援軍も十分ありえもす」
「ではどうする?」
「大垣藩の家老・小原鉄心が降伏を申し出ておりもす。そして同じ美濃の高富藩は藩主が我らに味方すると申しておりもす。あと加納藩は藩主が江戸在番で不在にございもす。美濃から尾張に攻め込み、尾張をとれば大坂は孤立させられるかと」
「それは誰を向かわせる?」
「加賀藩が徳川からこちらに寝返り、加賀から四千を送ってきておりもす。被害の大きく今前線にいない広島藩兵を軍監として向かわせれば十分かと」
「さすが加賀百万石か。本気で動けば大軍だ」
加賀藩は途中から前線に加わらずに動いていたが、将軍の大坂撤兵と同時に官軍に合流していた。
「越前藩から北越諸藩は船で敦賀から本領に戻ったと連絡がありもした。警戒に当たらせていた丹後と北近江の諸藩も向かわせても宜しいかと」
「ではそのようにいたせ」
西郷は諸外国は今は動かないと判断していた。これは神戸でパークスらが開港を記念して集まっており、神戸で諸外国が局外中立を宣言できた結果だった。旧幕府軍が神戸を包囲される前に陸上拠点を放棄した際、都市に入れ替わって入った宇和島藩は諸外国保護を重視して居留地の警備を受けもった。この行動で諸外国は官軍側に一定の統治能力を認めたのが大きく影響した。薩摩藩は宇和島藩に小松帯刀を派遣して謝意を伝えることとなり、宇和島藩は神戸周辺の治安維持任務をこの後も担うこととなる。
加賀藩は北越戦争で7000を派遣できるだけの力があるのですが、とにかく自藩の生存第一な藩なので形勢不利で新政府軍に乗り換えるのは史実通りです。
盛岡藩もついに戦場で戦い始めました。御所周辺が安全になった段階で薩摩藩が盛岡藩兵を放置するわけもなく、皇族を派遣されると尊皇の南部利剛は断れなかった形です。もし鳥羽・伏見で薩長兵が史実のような勝利をおさめていれば盛岡藩の日和見はその後に悪影響が出るレベルでしたが(このあたりの若干日和見な部分は史実での盛岡藩の動きに多少準じたものです)、結果として少しずつ変わっていきます。
さり気なく神戸事件は回避されました。時期のズレと宇和島藩が最初に神戸に乗りこんだ結果です。




