第40話 鳥羽・伏見・山科追分の戦い(中)
全編3人称です。
いくつか感想でいただいておりますが、初日の幕府軍の動き(行軍状態で薩摩藩と戦闘開始)は史実と同じ動きです。ただし、油断の部分で変わった部分はあります。
このあたりは「事実は小説よりも奇なり」な部分なので、私も説明はできません。
また、旧幕府は史実より1月長州征討を長く戦った分出費が増大し、石見銀山も銀の年間採掘量がドル換算だと2500ドルほどとあまり大きな額ではありません。銅の採掘もありますが石見銀山の有無で作中の描写に影響は与えておりません。長州征討による出費の増加と幕領の『いわてっこ』による増収がほぼ同等として計算し、幕府は特に強化されず長州・広島・福岡藩が弱体化という形で作中は進んでおります。ただ、このあたりを文章で書くと別視点が増えすぎるのである程度割愛しております。ご理解いただければ幸いです。
山城国 京
有栖川宮熾仁親王と三条実美、そして岩倉具視は帝の在する部屋の隣でじっと待っていた。開戦初日は先発部隊の失態もあり、鳥羽街道方面で薩長優勢、伏見方面で薩摩・熊本藩は新選組が被害を受けた後互角に推移して終わった。短期間で幕府が軍勢を動かしたため、仁和寺宮嘉彰親王を征討大将軍に着任させるべく彼らが天皇に働きかけていた。
夜。蝋燭の灯りが灯される中で蔵人の1人が3人を呼びにやってきた。
「天子様より、こちらをと」
「おお、有り難い。これで勝ったでおじゃる!」
三条実美は恭しく端書の記された文を受け取った。端書には「くれぐれも民を巻きこまぬように」という一文が天皇直々に記されていた。しかし、三条実美と岩倉具視は自分たちにお墨付きが与えられたことに喜び、それに気づかなかった。
「急ぎ秋田藩に連絡を。あと、支度しておじゃった御旗を掲げるべく各地へ御旗を運ぶのでおじゃる!」
「麿は山科に向かうでおじゃる。大津の者共に、直ぐこちらに助力するよう伝えねば!」
おおはしゃぎで御所を出る2人に対し、有栖川宮熾仁親王は文書の中身を見つつ呟いた。
「もうすぐだ。もうすぐ、幕府を滅ぼせる」
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山城国 山科追分
薩摩・熊本などの六藩連合軍が大津と京、そして大津と伏見を結ぶ山科追分を封鎖する中、極秘裏に伏見の状況を知った北越諸藩は深夜に協議を行った。その結果、翌朝から北越諸藩は佐賀・福岡藩と交戦を開始。その圧倒的な火力と長州征討での戦闘経験で開始から2時間ほどで2藩を押しこみつつあった。
長岡藩を率いる河井継之助らはここを突破すれば入京できると考え、一気に勝敗を決することができると判断。北越以外の藩兵にも協力を要請した。しかし、この時佐賀藩のもとに錦の御旗が間に合った。旗の意味が最初わからなかった諸藩だったが、岩倉具視が一時的に弾丸が止んだところで諸藩に対し旧幕府軍が朝敵となったことを宣言。勅使として彼らに降伏を呼びかけるに至った。
「既に徳川内府(慶喜)は朝敵であり、それに荷担するならばそなたらも同様となるでおじゃる。速やかに佐賀・福岡に合流し、内府を討て!」
諸藩は一気に動揺。小西新左衛門が率いる彦根藩兵は家老・岡本半介を拘束して隣に布陣した山上藩兵に発砲を開始した。後方が一気に混乱し始めたため、北越諸藩も正面突破は困難と判断した。そのため大津へと撤退を開始し、夕方になる前に戦闘が終了した。北越諸藩は大津に一時留まることとし、膳所藩などに支援を要請した。今も2500近い最新装備の部隊を抱える北越諸藩は、敵が攻勢には出ないと判断して旧幕府軍と情報共有を目指すことにした。
一方、佐賀藩と福岡藩は部隊の半数を失い、彦根藩を迎えてなんとか態勢を立て直した。しかし攻勢に出る余裕はなく、鳥羽と伏見の勝敗が決するまで彼らはこの地を守ることに専念することとなる。
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山城国 伏見
伏見では翌朝の戦闘開始に錦の御旗が間に合わなかったものの、西国街道を敵が攻めてこないことから広島藩兵の一部を南下させ鳥羽街道に奇襲攻撃をしかける作戦が進んでいた。伏見はそれまで何とか耐えることを第一とし、薩摩と熊本の藩兵が必死の防戦を繰り広げていた。会津藩兵は大砲も大量に持ちこんでいたが、市街地を巻きこまぬようあまり有効に使わなかったために互角でいられる部分があった。
そして昼すぎ、征討大将軍である仁和寺宮嘉彰親王が伏見に到着。親王とともに秋田藩兵が戦線に加わった。動揺する旧幕府軍に対し、薩摩藩の砲撃は伏見奉行所に効果的なダメージを与えた。秋田藩兵は攻勢を強めていた会津藩兵の一部を後退させ、その日の戦闘も痛み分けに持ちこむことに成功した。
薩摩藩兵を率いた桐野利秋らはこの日の戦闘終了後、尾張藩や加賀藩に対し朝廷の使者を送って戦闘から離脱するよう交渉を開始した。翌日以降、加賀藩兵は鳥羽街道の戦況を伝え聞いたこともあって後方警戒を理由に戦線から離脱し、旧幕府軍と一定の距離をとりはじめることとなる。
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山城国 鳥羽街道
初日に旧幕府軍を圧倒した薩長軍は2日目も優勢に戦闘を進めた。しかし初日ほどの損害は双方出さず、一定距離から長射程の銃で牽制し合う形だった。一方、西国街道を幕府軍が一切北上してこないのを確認した広島藩は、縦に長く布陣することになった旧幕府軍を物見によって確認した。朝廷からの命令で越前藩と土佐藩の後藤象二郎率いる部隊などが西国街道の守りに合流したため、広島藩は鳥羽街道に布陣する旧幕府軍に横から砲撃を加えはじめた。戦場の後方で突然襲われた部隊は混乱し、最後方の部隊は一旦淀まで撤退を開始した。
この混乱の原因は徳川慶喜側の楽観と、戦略的な目標がありながら作戦計画を一切策定せずに「とにかく京へ向かう」「京に近づけば以前も勝てなかった長州なら戦おうとしないはず」などの考え方しか共有していなかったことが原因だった。徳川慶喜本人は「京に直接入れなかったなら次善策を考えるべく一旦淀へ兵を退く」と考えていた。一方、伏見方面の竹中重固や鳥羽方面の佐久間信久は数の有利と大坂にある弾薬などの兵站面を考えて攻勢を続けるべきと考えていた。佐久間信久らは前線指揮官としてはフランス軍事顧問の薫陶をうけており、優秀な人物だった。しかし旧幕府軍には作戦参謀というべき人材が不足しており、この点は結果として旧幕府軍のちぐはぐな行動をもたらすことになった。
佐久間信久は前線を必死で薩長を相手にしながら立て直したところに、徳川慶喜の後退と広島藩の砲撃を知って驚愕した。このまま2,3日も戦えば薩長は補給がないために弾薬不足で追いこめるという自信があったため、いくら横撃をうけたとはいえ立て直すにせよ淀まで大将が退いたのは驚きの一言であり、前線の士気に影響するものだった。
「互角となった今、このまま戦えば敵はいずれ戦えなくなるというのに」
慶喜についていく形で徐々に前線以外が後退していく中、辛うじて士気を維持しきった佐久間信久は2日目を耐え抜いた。
しかし、この日を境に一部の藩が前線に立つのを拒否するようになり、旧幕府軍は少しずつ崩壊の兆しを見せるようになる。
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山城国 京
三条実美は2日目の夜盛岡藩屋敷を訪ねた。盛岡藩は局外中立を訴え、京周辺の外国人や一部商人・民衆の保護を進めていた。
「南部公、御所の護衛について下さらぬか?」
三条実美は南部利剛にこう告げた。
「薩長の兵は大半が戦に向かっており、御所の周りがやや心許ないでおじゃる。帝のための兵ならば良いのではなかろうか?」
「畏まりました。御所を守るなら名誉にございまする」
南部利剛は御所の防衛ならば問題なしと考えこの要請を受諾。3日目以降御所の防衛を盛岡藩が担うようになった。
三条実美は盛岡藩の対応を不満に思っており、間接的に薩摩藩の負担を軽減して前線の兵を増やすべく動いた。万一旧幕府軍が勝利した時も、薩摩藩兵が撤退した時に御所を警固し続ける兵が必要だった。
岩倉具視・三条実美は史実では開戦前に色々と動いていますが、徳川慶喜が史実より早く動きだしたのもあって朝廷工作が開戦後に形になっています。
また、彦根藩は史実でも家老が旧幕府軍に参加しながら藩内部は途中から尊王論になって新政府に協力した藩なので、このタイミングで尊王論を主導した一部によって寝返っています。




