第36話 倒幕運動は西から、大政奉還は北から (下)
少し遅くなりました。全編3人称になります。
本作にレビューをいただきました。ありがとうございます。
山城国 京
水面下で歴史は動き続けた。盛岡藩は秋田藩と連携しつつ仙台藩と協議を続けていた。仙台藩は佐幕派が主流のため公武合体を推奨すべく関白二条斉敬との連携を重視した。秋田藩は七侯ではないものの江戸に滞在し、親幕府的に見せかけて勤王思想が強い。
宇和島藩・佐賀藩・越前藩の内諾をえた土佐藩士・後藤象二郎の大政奉還に関する献策は『将軍職はそのまま』『朝廷に議事堂を設置』『表高5万石以上の諸藩による最終評議』という形に収まった。近年奥羽越諸藩が5万石の表高を申請することが増えており、これらの票を取りこめると幕府側が認識しやすい、つまり幕府が主導権を握りやすい形式を提案したものだった。これに盛岡藩と薩摩藩も同意した。薩摩藩はそれでも幕府権限に制限をつけられるため、徳川慶喜は承諾しないと判断していた。また、土佐藩は盛岡・宇和島・越前・薩摩の各藩が同意したことを山内容堂に告げることで逃げ場をなくし、ギリギリその中に名を連ねて七侯会議上で提案された。
9月の七侯会議で提案された大政奉還は徳川慶喜預かりとなり、幕府はパリ万博に参加していた幕臣の帰国要請などを行いつつその内容を吟味した。特に慶喜は今年3月に欧米から帰ったばかりの榎本武揚を召集した。
「榎本、仮にこれに応じたとして、朝廷に何ができる?」
「はっ。外交は厳しいかと。欧米と確りとした関係があると言えるのは七侯と佐賀藩のみ。それもどうしても偏りがございますれば、纏めるのは公方様しかありえませぬ」
「財政は朝廷にはどうしようもなく、やはり問題は軍事か」
「一番肝要なところでございます。つくづく長州を成敗できなかったのが痛いかと」
「仕方あるまい。朝廷から休戦せよと言われてはな。勝(海舟)も強気に談判した故に藩主は辞めさせられたのだ」
休戦後の交渉を担当した勝海舟をはじめ、幕府は対外交渉経験のある幕臣を多く抱える。パリ万博にも多くの使節団を派遣しているように、ここまでの外交はほぼ幕府が担当してきた。
「薩摩はどうせ長州とともに軍事で幕府の実権を奪いたいのだろうからな。ならば先んじて動くのは手か」
「越後の村松藩、出羽の本荘藩、上山藩、陸奥の守山藩、磐城平藩、泉藩が表高五万石を申告して下さっております」
「いずれも譜代の大名。必ずや彼らが強い力になるだろう」
こうして徳川慶喜は九月末に大政奉還に応じることを決めた。
♢♢♢
10月15日、薩摩藩はついに討幕の密勅をえた。これは八月十八日の政変で追放された岩倉具視らが七侯会議で復帰を許されており、その支援によるものだった。
しかし、薩摩藩はこの密勅をあくまで広島藩・熊本藩などを味方にするための交渉材料としてしか使用する気がなかった。いざという時は宮中に味方がいることを示すために用意されたもので、ここから薩摩藩は実際の武力蜂起と新政府会議へ向けて工作を進めていくことになる。
一方、徳川慶喜は10月20日に大政奉還の上表を行った。この時点で京には計55藩が藩主または重臣を派遣しており、徳川慶喜は翌日その前でこの歴史的発表を行った。
薩摩藩はこの時点で密勅をもって広島藩などの一部藩を説得しており、大政奉還後の諸侯会議での主導権争いよりその後を見据えた動きを始めていた。一方、徳川慶喜は初期の合議は慶喜含む15大名での合議から始めるという朝廷からの方針に反発し、三条実美らと激論を交わしていた。最初から大量の藩が参加すると議論がまとまらないためという表向きの理由だったが、15藩は幕府含む石高上位15藩とされたため、桑名藩や土佐藩、越前藩でさえその対象から外されていたのである。
「金沢、仙台、薩摩、尾張、紀伊、会津、熊本、福岡、盛岡、広島、佐賀、秋田、水戸、長州。確かに石高ではそうでございますが!」
「公方殿。長州は既に休戦し、幕府もなくなった。隔意があるのは致し方ないといえど、統一された基準こそ肝要ではないかね?」
「しかし!」
「麿は恣意的な選び方には疑問でおじゃる。何より、最終評議は五万石以上と石高を肝としておじゃる。ならば、最初の評議は慣れるまで大藩だけで進めるが宜しかろう」
「くっ」
明確に親幕府的な備前(慶喜弟が藩主)藩や桑名藩が排除され、幕府への敵意が明確になりつつある長州藩・広島藩が加わる状況である。慶喜にとって、明確に親徳川宗家といえるのは金沢・会津・仙台・尾張・紀伊の5藩くらいであり、薩摩・広島・長州は明確に反徳川である。そして勤王第一が盛岡・秋田で、内部の意見がまとまっていないのが熊本・福岡・水戸・佐賀の各藩といった状況だった。つまり、議会の過半数を握る勢力が存在しないのだ。
「追々帝より連絡がおじゃる。暫し二条城で待たれよ」
三条実美はそう告げるとその場を後にした。
慶喜は水戸藩をなんとかしたかったが、天狗党の乱以後混乱の続く水戸藩は一応佐幕ではあるものの何とも言えないため、各藩との対話を密にすべく慶喜は一橋藩主時代からの子飼いの家臣を使って各藩に接触を開始するのだった。
「榎本、盛岡に向かえ」
「盛岡、でございますか?」
「あぁ。盛岡は海軍を整備すべく動いている。手伝う形で、何とか公武合体で共同できるようにしたい」
「畏まりました。では開陽丸で向かいまする」
慶喜は大政奉還を提案した藩のうち、勤王派の盛岡藩を味方につければ奥羽を完全に味方で固められると判断した。東日本に憂いがなければ仮に薩長が挙兵しても負けない。そういう打算から、榎本の派遣が決定するのだった。
討幕の密勅をどう扱うかという話ですが、私は『討幕派公家による薩長への見せ札』だったと考えています。今作でもそういった視点で薩長や広島藩などに『こういう形で朝廷の一部が協力するぞ』という姿勢を見せるために作り上げています。
大政奉還は行われましたが、その提案者は土佐藩ではなくなりました。また日付も大分後ろにずれています。これがそういった影響を与えるかは次話以降で。




