彼岸 6
「ん?」
小田留の言っていることをうまく理解できない。
「私が、将陽を助けるために、将陽の中にできたドルーフィムーリドに入ったんですよ」
「ん?」
まわりから音が消えた。視界もその大半が虚ろになった。考えなければと自分自身に言い聞かせたが、一体何を考えればいいのかさえよく分からなくなってしまった。俺が正しいのか、小田留が間違っているのか、先ほどまで明確であったはずの答えが、まるでコーヒーに投入されたフレッシュのように、ぐるぐると渦を巻き、そして混ざり合い、判別がつかなくなってしまった。
「あの塔のエレベーターから出て、この世界で目覚めたら、私は手術室にいました」
小田留は自分に起きたことを話し始める。
「私を取り囲む人たちは皆緑色の手術衣を着ていました。ちょうど……私に対して銀色のメスを突き立てるところだったんです。私は叫びました。何が起きているのかさっぱり分からなくて、とにかく叫びました」
小田留は自分自身を抱くと、震えながらその場にうずくまる。
「だって私、もう少し遅かったら……もう少し、もう少し遅かったら……」
突然、手を口に当てると、彼女はその場に嘔吐した。指の隙間から吐瀉物が溢れ出し、ぼたぼたと廊下にこぼれ落ちる。
俺はとっさにかがみ、小田留の背中を優しくさすった。
小田留を気遣いつつも俺は、彼女が実際に見たであろう光景を想像してみた。気分が悪くなった。もしも自分の目の前で起きたならと、そのように考えると、身の毛もよだつものがあった。
「……ごめんなさい」鼻をすすりながら、小田留がか細い声で言った。
俺は小さく首を振ると、手で彼女の顔や髪についた吐瀉物を拭ってやった。
「お願いです。私を、連れていってください」
「どこへ?」
「ここにいたら、多分また私は、病院に連れ戻されてしまいます。だから、そうならないどこかへ」
「分かった。じゃあとりあえずは俺の家にいこう」
今ここで小田留と引き離されてしまっては、次いつ話ができるのか皆目検討がつかない。今は小田留と向かい合い、どこか邪魔の入らない場所で、じっくりと話し合うことが重要だ。なんとかかんとかして小田留の中にある誤解を解くためにも。この世界が現実であると……小田留に理解してもらうためにも。
「おう将陽、ここにいたか」
何者かにより背後から声をかけられた。
俺と小田留はほぼ同時に振り向く。
龍之介だ。彼は両手をズボンのポケットに入れ、かったるそうに首をひねりながらこちらに近づいてきた。
「龍之介、どうしてここに?」
「将陽、お前これから高松さんを連れ出すつもりだろ」
「ああ、今病院に連れ戻されるわけにはいかないんだ」
「俺は応援するぜ」龍之介は口元に笑みを浮かべる。
「は?」
「前々からお前らのことお似合いだと思ってたしよ」
「違うよ。俺と小田留はそういう仲じゃない」俺は真剣な顔で返す。
「偽物じゃ、ないみたいだな」
すると龍之介はポケットから手を出し、ある物を投げてよこした。それは自転車の鍵であった。
「お前ら自転車ないだろ? 俺のやつ借してやるよ。俺の自転車分かるよな? 水色の、ごく普通のママチャリだ」
俺は鍵に視線を落とし、次に龍之介の顔を見る。そして再び鍵に視線を落としてから、再度龍之介の顔を見た。
「龍之介、お前スゲーよ」
「普通そこは、ありがとう、だろ?」
「ありがと。お前ほんと凄いから。まるでヒーローだ」
その後に龍之介は、俺たちに背を向け、片手をポケットに、もう片方を軽くあげ、薄暗い校舎へと消えていった。
俺と小田留は急いで自転車置き場へとゆき、龍之介の自転車を捜した。
「見つけた」俺はサドルに跨りながら言った。「後ろに乗って」
小田留は頷くと荷台に座り、俺の腹に腕を回した。
「しっかりつかまってろよ」
俺は小田留が落っこちないように徐々にスピードを上げると、正門へと向かうべく針路を取った。
正門が目前に迫ったその時である。背後に怒声が響く。俺たちの逃走に気が付いた教師たちが追いかけてきたのだ。
もちろん俺はそれを無視し、躊躇することなく一気に門を通り過ぎた。自転車がなければ確実につかまっていたな、と思い、龍之介に対し感謝の念を覚えた。




