彼岸 1
勢いよく体を起こした。息が上がっており、全身にはびっしょりと汗をかいていた。
俺はしばらく呆然とした頭で自分の手を見つめ、それから大きく目を見開きまわりの状況を確認した。
どこかの部屋だ。カーテンが閉められているため辺りは薄暗い。ベッド脇のテーブルランプだけが灯されており、その橙色の光が部屋全体を不気味に彩っている。
「現実世界……。ビジネスホテル……」
ここで初めて、先ほどから鳴り響いている電子音を意識する。それは少し離れた所に設置された固定電話からのものであった。
俺はベッドから立ち上がるとその電話台の方へと近づく。
――確かここに、トコマが緑色の炎を置いたんだ。
とっさに、たった今俺が横たわっていたベッドの方を振り返る。
だがそこに、トコマの姿はなかった。姿がないどころか、いたという気配すら消えていた。
この時電話が切れた。室内には、息苦しいほどの静寂さが満ちた。
頭は混乱し、心は不安に渦巻いた。静けさも手伝ってか、俺は胸中に嫌な胸の高鳴りを聞いた。
本当に俺はトコマに出会ったのか?
本当にドルーフィムーリドにいったのか?
あれら全ては本当に起きたことなのか?
小田留はどうなった?
俺はどれぐらい眠っていた?
今は何月何日だ?
今は何時だ?
自ずと俺は制服のズボンから携帯電話を取り出した。しかし電池が切れてしまっているのか、ボタンを押しても画面はつかない。
ふと手首に目をやると、そこにある物を見つけた。疑問と現実とを結びつけるある物を。
――『オーブリンク』だ。
緑色の石があしらわれた例の装飾品が、手首に巻きつけられている。
これを見た俺は確信する。俺はこの現実でトコマと出会い、共にドルーフィムーリドに入ったのだと。
ここで今一度電話が鳴った。
俺はすぐさま受話器を取った。
『もしもし、609号室の稲澤様ですか? もう既にチェックアウトの時間が過ぎておりますが……』
時計を探すため、俺は自然と部屋を見回した。時刻は十時五分であった。
「すいません、今日は七月十八日月曜日でよろしいでしょうか?」
『はい、本日は七月十八日月曜日です。チェックアウトのお時間から三十分を過ぎますと延長料金が発生します。ご了承ください』
その後に俺は直ちにチェックアウトを行う。三日前におろした折り目のないピカピカの一万円札を五枚差し出すと、折り目と手垢と何らかの染みがついた千円札が八枚差し出された。
俺はフロントスタッフに軽く会釈をすると、まだ若干呆然とした頭を引きずったまま外へと出た。
空は相変わらずの分厚い雲に覆われていた。見ているだけで頭が痛くなりそうな重い重い空だ。空気が汚れているのか、大きく息を吸うとムカムカとした気分が腹の底から込み上げてきた。
ふらふらと街中を歩きながら考えた。小田留はどうなったのだろうか? と。トコマはどうなったのだろうか? と。
再び携帯電話を取り出すと、無駄であると分かってはいたが電源ボタンを長押ししてみた。だがやはり、電池が完全に切れてしまっているのか何の反応も見せない。
どうしても確認しなければ気が済まなかった俺は、携帯電話の充電器を購入するため、目に付いたコンビニに飛び込んだ。先ほど受け取った汚い千円札を二枚差し出すと、今度は変色したみすぼらしい硬貨が何枚か手渡された。
店から出ると充電器をすぐに開封、携帯電話に接続した。
しかしここで、俺は誰に連絡を取ればいいのか分からなくなってしまう。
小田留に関しては誰に連絡を取ればいいのだろう?
小田留の親だろうか?
それとも病院に直接だろうか?
トコマは?
トコマに連絡先を聞いていない。連絡が取れない。
とにかくどこかに連絡を取ろうと電話帳を開くが、やはりその先の行動を見つけられない。
手の中で携帯電話が震えたのは、ちょうどこの時であった。
俺はとっさに画面へと視線を落とす。そこには『母』という文字が浮かんでいた。
とりあえずは出てみようと思い、一度咳をしてから電話を取った。
「はい」
『将? あんた今どこにいるの? 金曜から家に帰ってこないし、どれだけ心配したと思ってるの?』
「あー、金曜は学校終わった後そのまま友達の家に泊まってたんだ。で、なに?」
俺は嘘をついた。それ以外に説明ができない。
『あーそうそう。今ね、小田留ちゃんのお母さんから電話があったんだけどね……』
俺は、小田留、という言葉を聞いた瞬間、心臓がドクンと高鳴った。直感的に小田留の生死に関する連絡であると理解したからだ。
「――うん……なに?」
声が震えた。どうしても抑えることはできなかった。
『今日臓器の摘出手術の日だったでしょ?』
「ああ…………」
息を呑む。携帯電話を持つ手が小さく震える。
『なんかね、手術直前になって、目覚めたらしいの』
聞いた瞬間、俺はその場にへたり込んだ。本当にストーンと体から力が抜けた。
「……本当に? ……え、本当に?」馬鹿みたいに同じことを繰り返す。
『本当みたい』
俺は大きな、あまりにも大き過ぎる安堵の溜息をつくと、携帯電話を持っていない方の手で自分の目を覆う。
『ただね、ちょっとあんまりよくないみたいなの……』
「え? あんまりよくないって、一体どういうこと?」
『詳しくは分からないんだけど、ちょっとおかしくなっちゃってるみたいで』
心がざわめく。
「おかしく? なにそれ?」
『錯乱状態っていうか、もしかしたら脳に損傷があって、もう戻らないかもって』
冷たい感情が広がった。腹の底に不安を凝縮したかのような重たい感情が蔓延り、微弱ではあるが吐き気を覚えた。
「そ、れって」俺ははっきりと口にする。「頭がおかしくなっちゃったってこと?」現実を直視するために。
『まあ、平たく言えば、そういうことみたいね』
携帯電話が手からすべり落ちた。地面とぶつかる硬い音が鳴った。
どうすればいいのか分からなかった。もうこれ以上は何もしてあげられないんじゃないかと、そう思った。
そんな俺に対し、通行人の誰かが声をかける。「大丈夫ですか? どこか具合が悪いんですか?」と。しかし俺は何の反応もできない。立ち上がることも、声を出すことも、何もかもが……。
――こんな世界、壊れてしまえばいい。
朦朧とする意識の中で、俺は世界を呪った。
*
それから幾日かの時が流れた。結局俺は、いまだに小田留に会えていない。彼女は精神病院に入ることになり、その重度の症状からも面会謝絶の状態が続いているのだ。
トコマに関しても消息は不明だ。なんとかトコマ、あるいはトコマの関係者に連絡を取ろうと試みたが無駄であった。彼女を知る者はなく、『絵十清水』という組織をネットなどで探してみたが見つからなかった。
何もかもが分からないまま、何もかもが宙ぶらりんのまま、俺は日々の生活をただただ悶々と過ごした。
そして季節は秋へ、学校生活は二学期を迎える。




