世界の果てへ 12
刀が抜かれるとすぐに、トコマは獏の背中に腕を回し、右手で左手首をつかむようにしっかりと拘束した。
何が起きたのか全く分からなかった。トコマは両手で獏の顔を持っていた。武器を扱えるはずがない。では一体誰が?
答えはすぐに明らかになる。漠がその場に崩れ落ちると、その向こう側にいた人物が自ずと見えたからだ。
龍之介である。手には飛行機から降りる際にトコマから預かった和傘の仕込み刀を持っていた。
彼は刀を杖がわりにし、膝をついてその場に座り込むと、かすれた声で言った。
「トコマ、これでよかったんだよな?」
「ああ、完璧だ。タイミングも、箇所も、強さも、全てが完璧だ」
「そっかー……。よかった。ほんとに、よかった……」
龍之介の手から刀がこぼれ落ちると、鉄と石畳がぶつかる甲高い音が響いた。それに続き龍之介が地面に倒れ込む重く鈍い音が聞こえる。そしてゆっくりと、彼の目から生気が消えた。
「ごくろうだった。おやすみ」
言うと同時にトコマは口から血を吐き出す。血は白いトコマの口元を、そして胸元を真っ赤に染めた。
俺は一歩、二歩と、ふらふらと足を踏み出し、虚ろな瞳をトコマに向ける。
「ト、トコマ? 一体これはどういうことだよ。何でこんなことになってんだよ」
「敵は自分が勝ったと思った時に、一番気を抜くだろ? そして漠の唯一の盲点は正面、つまり私の背後その物からの攻撃なんだ。決定打はこうだ。弱りきった私が漠の顔を引き寄せ、私の目に意識を集中させる。これだけの条件が揃えば、どんなつわ者だって今回のこの攻撃を避けることは困難なはずだ」
「そうじゃない! どうしてこんな方法なんだよ!! どうしてトコマが犠牲になってんだよ!!」
「だって将陽には、大切なものが、守るものがあるじゃないか。私には何もない。ただそれだけのことだ」
ここでトコマは咳をした。コホコホと、まるで病床に伏した老人が最期にするような、乾いた、重さを感じさせない、そんな空虚を体現したかのような咳をした。
「トコマが死んじまったら、意味がないだろ? どうして皆そうなんだ? 勝手に助けて、勝手にいなくなるなよ」
俺はふらふらとまた一歩近づく。
「私はたくさんの不幸を見てきたから知っている。誰かが助かるには誰かが犠牲にならなければならない。今回その役割に最も適した人物が、私だったというだけの話だ」
「説明になってない。だったら本来死ぬはずだった俺がその役割をするべきだろ」
「いや違う。君が死ねば、悲しむ人がいる。私が死んでも、誰も悲しみはしない。だから私なんだ」
まわりの風景が消えた。小田留が何か俺に話しかけているようであったが、俺の耳には何も入ってこなかった。
「トコマ、お前……」俺は震える声で言う。「自分が死んでも誰も悲しまないと、本当にそう思ってるのか?」
「事実だ」
俺は握りこぶしを作り、歯を噛み締める。そして大声で言った。
「俺は! お前が死んだら悲しいぞ!!」
一瞬トコマは、驚いたような表情を浮かべた。しかしその後すぐに、漠を縛りつける腕にさらに力を込めると、はき捨てるように、最後の力を振り絞るがごとく、叫んだ。
「――は、……早くいけ! 漠はまだ生きている! 深手を負って弱っているだけだ! 私が押さえつけて時間を稼ぐ! 将陽と小田留がエクジットにたどり着くまでぐらいの時間は稼げるはずだ! だから早く、いけ!」
気が付けば、俺は走っていた。塔に向かってではない。その逆、トコマに向かってだ。
目の前には圧倒的脅威である漠がおり、あるいは自分の命が危険にさらされるかもしれないというのは分かっていた。しかしそれ以上にトコマを、その傲慢に見えるがあまりにも優し過ぎる女の子を、助けたいという思いが止まらなかった。
トコマは大きく目を見開き、俺を見つめた。
俺も大きく目を見開き、トコマを見つめた。
そんな中、もうあと数歩というところで、予想外のことが起きた。
そう、漠が消えたのだ。俺から見て左の肩の辺りから順に、まるで体が光の粒子になり大気に拡散するかのように、サラサラと消えたのだ。
支えを失ったトコマは自ずと前方に倒れそうになる。そんな彼女を俺は、前から抱きつくように支えた。
腕の中でトコマは俺を見上げながら言う。
「――どうして? ……どうしてこちらへ? なぜエクジットにいかなかった? どうして?」
「俺はトコマを絶対に裏切らない! そう決めたんだよ! 文句あるか!!」
「馬鹿な……。ありえない……。ありえ………………………………………………」
トコマの両目から大粒の涙が溢れ出す。それから彼女は大きな声をあげて泣いた。




