パノプティコン突入作戦 1
俺とトコマは道路内に進入するため、とあるビルの最上階へとエレベーターで向かっていた。
この世界の道路は空中にあるため、車両のない者が道路内に進入する場合は高架を支える橋脚から階段で上るしかない。現実世界で言えば、ちょうど高速道路のそれに近いだろう。ただその橋脚の根元というのがまた厄介な場所にあり、なんと千メートルを越える中層ビルの屋上にあるのである。
最上階である二百階に着くと、エレベーターは静かな電子音と共に扉が開いた。そこには質素で薄暗いエレベーターホールが広がっていた。中央付近には黒の石で作られたであろう立方体の台が設置されており、スポットライトにより幻想的に浮かび上がっている。
近づき確認してみると、それはこのフロアの見取り図であった。屋上へはエレベーター脇にある鉄の扉から行けるみたいだ。
左右の廊下は暗く人の気配はなかったが、俺たちは念のため物音を立てないよう慎重に進む。
鉄の扉を開けるとそこにはさらに質素な空間が広がっていた。近未来的な面影は全くなく、どちらかといえば現代とかにありそうな雑居ビルの階段の一角といった感じだ。
俺たちはそんな普段誰も使わないだろう埃っぽい階段をゆっくりと上った。
扉の前に着くと、俺はドアノブを握り回してみる。
「だめだ、鍵がかかってる」
「ちょっとどくんだ」
トコマは持っていた和傘の銃を構え、引き金を引いた。乾いた銃声が鳴り響くと、扉はゆっくりと向こう側へと開いた。
「ていうか」その光景を見た俺は言う。「それほんとに銃なんだな。しかもマシンガン。改めて見ると凄いな」
「めったに使うことはないんだがな。それだけ今の状態が緊迫しているということだ」
屋上に出ると冷たい風が強く吹いていた。トコマはそのおかっぱの髪を手で押さえ、目を細めている。俺はそんなトコマを気遣うように着ていた制服のブレザーを差し出す。
「寒くないか? これ羽織れよ」
「いや」軽く断る。「私はこれから将陽容疑者の人質になるんだろ? 人質が犯人の上着を着ているなんておかしいに決まっている」
「まあな」
「いいか? 自分を洗脳しろよ。将陽は刑務所を襲撃し、小田留を脱獄させる容疑者だ。私はそんな将陽に捕まった、ただの交渉材料だ。これから君は私に対し厳しく接しなければならない。若干痛ましく見えるほどにだ。私は決して気にしないから、絶対に手を抜くなよ」
俺は首肯で返事をする。自分で提案した作戦とはいえ、心が痛む。
「上着、気持ちだけ受け取っておくよ」トコマは首を傾げるようにこちらを向くと、口元に笑みを浮かべた。「やっぱり君は、お節介だ」
橋脚に設置された非常階段は、何度も何度も折り返しのある骨組みだけの物であった。一応まわりは鉄の柵で覆われてはいるが、その高さの割には瑣末としかいいようがない。
階段入り口の鍵を和傘銃で破壊すると、俺を先頭に上り始める。
「トコマ、大丈夫か? 何て言うか、少し高さがあるんだけど」
「大丈夫だ。これぐらいの高さならなんとか」
階段を上り終えると、高架の下部から潜り込むように道路内へと進入する。上部の扉に関しては鍵がかかっておらず、難なく防護壁の内側へと入ることができた。
道路は広く片側五車線であった。左右に目を向ければ橙色の道路照明がどこまでもどこまでも連なっている。先ほどと比べ風がほとんどなくなったのは、高くそびえる流線型の防護壁のおかげだろうか。
交通量は少ない。大体数十秒に一台程度の割合で、最低でも二十トンはあるのではないだろうかと思われるトラック、あるいはダンプカーが轟音を立てながら眼前を通過してゆく。
俺はこの現状を見て、好都合である、と思った。大型車両を強奪するには、やはり人の目が少ないに越したことはない。
「今は午前二時三十分だ。大体あと三十分ほどで発電所が水没、電力を失ったMコンサードはその機能を停止する。多分停電と共にここの道路照明も落ちるし、それで分かるとは思うけど、念のために俺は非常階段から下界の様子を見張っておくよ」
「分かった。では私は停電と共に、ちょうどこの場所を通りかかった大型車両を強奪する」
俺は先ほどの非常階段に戻り、数段下るとその場に腰を下ろした。冷たい風は高架の影響もあってか、まるで渦を巻くように周囲に吹き荒れている。俺は寒さをしのぐためにも両手をブレザーのポケットに入れ首をすくめた。
街の明かりを確認するためにも、前方へと視線を送る。視界の上半分は高架により隠れているが、下半分には広大な都会の風景が広がっていた。ただもうこの時点では、この世界に初めてきた時に感じたあの衝撃はなかった。言うなれば既に、この光景に意識が適応しつつあるのだろう。当たり前になってしまえば人は鈍感になり、そこから何かを感じ取ることは難しくなる。
――そう、俺にとって小田留がどんな存在であったのか、失うまで気付けなかったように……。
気が付けば俺は涙を流していた。空いた時間があるとどうしても思い出してしまう。小田留に脳死判定が下されたという事実を。
『死』については知っているつもりだった。人が人の死に直面した時、どのように感じ、どのような気持ちになるのか、何となく分かる気がしていた。だがそんなものはただの想像でしかなかった。結局人は、知識として知っていようが、理解した気分になっていようが、それを実際に体験しなければ何も知らないのと変わらないのである。
俺は服の袖で涙を拭うと、鋭い目つきで前方を見た。そして噛み締めた。一筋の光を。希望を。
ゼロではない、ほんの数パーセントでも可能性があるということが、人にとってどれだけの希望になり得るのかを、俺はこの時胸の内に実感した。
その時だ。遥か彼方に変化を見る。闇だ。漆黒の闇が、まるで世界を覆う津波のように押し寄せてきた。一瞬であった。一瞬で辺りは闇に飲まれ、暗黒に染まった。
眼下には小さな光がポツリポツリと浮かんでいる。おそらくは送電に頼らない何らかの光なのだろう。それらはまるで現実世界においての都会の夜空に瞬く、あの少な過ぎる貧相な星の輝きのようにも見えた。
始まった、と思い、俺はその場に立ち上がると、急いで階段を駆け上り道路上に出た。
するとそこには思いもよらぬ光景が広がっていた。




