第八話:抜け道への到着
「……あれが、帝都……」
ペルモンテを出発して十三日、三人は小高い丘に寄り道しようやくその目で見える距離まで近づいた帝都を眺めていた。
「しかし……」
ロビンが呆然と呟く。意図したわけではないが、その呟きを補完するようにカーミラが驚きに満ちた声でぼそりと言う。
「おっきいわね……」
既に日が傾き始めている。今日は野宿し、後半日は走らなければならない。半日で筋力強化の使い手が走る距離を考えると、ともすれば距離感を錯覚しそうなまでの帝都の大きさは異常とも言えた。
「王都とはぜんぜん違うわね」
「うん……」
この十日間――三人がヘルハウンドと戦ってからずっと――、三人の間には気まずい空気が流れ続けていた。ひとえに、ロビンに「戦いに愉悦を感じて欲しくない」というカーミラの思いからだった。幸い、あれから魔獣と何度も遭遇はしたものの、ロビンが笑いながらそれらを殴り殺すという状態にはならなかった。そのことが、カーミラの心を少しだけ安堵の色に染めていた。
「今日は、ここらで野宿をする。明日の昼前には帝都付近の下水排出口に着けるだろう」
アレクシアが、帝都から少し離れた場所にある大河、一番帝都に近い場所を指差す。明日は河沿いを走ることになる、と彼女は小さく呟いた。
三人は、手早く野宿の支度を整える。テントを設営し、火を熾す。大分少なくなってしまった携行食だが、帝都で購入できることを考えると、問題にすらならない些事なことであった。ロビンがカーミラとアレクシアに携行食を手渡す。アレクシアは湯を沸かし、スープを作り、マグカップに入れて他の二人に手渡した。
硬い干し肉を咀嚼する音と、時折スープを啜る音が小高い丘に響く。三人とも無言。この十日間、ずっと繰り返されてきた光景だった。
ロビンは自身の変化に恐怖は感じていなかった。純粋に、自身の技量を確かめたい、そういった気概が自分にもあったことに感動すら覚えたものだ。だが、その変化に違和感を感じるのも事実であった。あれ、僕ってこんな人間だったっけ、と。アイデンティティの軽い崩壊。それが彼にもたらされた一つの課題だった。一つ言うならば、男子たるもの、自身の強さ、技量に対して、それを試したいと思うことや、それを発揮し課題をクリアしたいと考えることは不思議ではない。しかし、ロビンにとってそんな思いは今までの経験から一度も感じたことがないものなのであった。
一方でカーミラはロビンの変化に恐怖を感じていた。彼女にとって、ロビンはぼんやりとしていて、優しくて、そして努力家で、少し変わり者な男の子であった。彼女はそんなロビンを好きになったのであったし、大切に思っていたのである。決して、魔獣を笑いながら殴り殺すような人物を好きになったわけではない。メガラヴォウナ山脈での山賊との殺し合いについても、カーミラとしてはアレクシアに対して怒り心頭であった。
ロビンに人殺しになって欲しくなかった。
ロビンには戦いを楽しむようなそんな在り方をして欲しくなかった。
彼女のそれは、残酷なまでに綺麗事であった。確かに人殺しは良くないことである。魔獣とは言え、笑いながら殴り殺す、というのは些か異常に見えるかもしれない。だが、エライザに言われたことを除けばである。これから帝国と戦争になる。戦争が長引けば約二年後、成人したロビンは戦争に動員されるだろう。そうなった場合、人を殺すことに対する忌避感等、邪魔でしかないのである。寧ろ笑いながら生き物を打擲できるようになるのが望ましい。
カーミラだってそんなことは分かっている。理性として理解はしていた。だが感情は別。別なのである。彼女は人間を傷つけることを良しとしない。人殺しなんてまっぴらごめんだ。だからこそ、ロビンにもそれを求めてしまう。優しく、大好きな彼が変わってしまうのを良しとしない。
ややあって、辺りが真っ暗になった頃、「では、私は寝る。レイミア。貴方も寝なさい」と言って、アレクシアが自身のテントにもぞもぞと入り込んでいった。学院を出発してから、野宿の際の順番は、ロビンとカーミラの順番は日毎に前後するが、最後の見張りは必ずアレクシアが担当していた。見張りというものは、最後が一番辛い。早く起き、そしてそのまま行動開始するためである。誰しも起きた直後は目が冴え、活動的になるが、起きて数時間経つと体力的に辛いものを感じるものである。アレクシアの二人への気遣いそのものであった。
カーミラがちらりとロビンを見てから、ゆっくりと立ち上がり、テントの中に入っていった。今日の最初の見張り番はロビンである。
ロビンはカーミラがテントの中に入っていくのを確認した後で、少しだけため息を吐くのであった。
パチパチと、炎が音を立て、その暖かさが身体に心地よい。ロビンは存外、この野宿中の見張り番という、一人になれる時間が好きだった。色んなことを考えられる。
ふと、不意にカーミラの唇の感触を思い出し、悶絶しそうになる。色々なことが有りすぎてすっかり忘れていた。僕は、カーミラとキスをしたんだ。初恋もまだの少年にとって、それは大変衝撃的な出来事であった。あれはどういうことだったんだろう、と首を傾げる。普通の人間であれば、カーミラが自分のことを好いている、という結論に容易にたどり着きそうなものであるが、ロビンにそんな甲斐性は無い。
というよりも、ロビンの自身に対する自己評価の低さが多いに関係していた。ここ数日、いや数ヶ月で少しずつ改善されてきたとは言え、彼は未だに自身を無価値であると切って捨てている。そのため、自分を好いてくれる人間なんて存在しない、とそう無意識に思っているのだ。
アリッサから向けられる好意に関しても、ロビンはひどく懐疑的であった。それが、婚約など御免こうむる、と考えている所以であった。
自分を好いてくれる人間などいるはずもない。それは、彼が彼自身を愛していないからである。過ぎたる自己愛は身を滅ぼすとは言うが、自己愛が低すぎる人間もまた問題を抱えているのである。
ひとしきり悶絶した後、ぼうっとする。当然見張り番であるので、周囲への警戒は怠らない。だが、なんとなくぼうっとしていた。カーミラの唇、柔らかかったなぁ、等、とりとめのないことを考える。
「……ローウィン」
不意に背後からかけられた声に、ひゃあ、っと情けない声をあげる。当然である。今しがた唇の感触を思い出していた、その当人に声をかけられたのだから。
「れ、れ、れ、レイミア!? ね、寝たんじゃなかったの?」
「ちょっと、眠れなくてね」
カーミラがボソリと呟いて、少しだけ微笑む。悲しげな微笑みであった。彼女は杖を取り出し、一振りして、消音の魔術を使う。その後でロビンの隣に腰掛けて、顔を俯かせた。
「ねぇ、ローウィン。いえ、ロビン……」
「なに?」
「ロビンは変わらないよね?」
えっと、どういうことだろう、とロビンは首を傾けた。その後で、十日前の出来事に思い当たり、あぁ、と得心する。
「カーミラは、僕が人を殺したり、魔獣を殺したり、そういうのを楽しいと思うようになっちゃうのが怖いってこと?」
ピタリと言い当てられたカーミラは、思わずロビンを二度見した。
「えっと、なんでわかったの?」
「僕は人を見る目とか、人が何を考えてるのかとか、そういうのを察するのには自信あるつもりだよ」
昔っから、他人の顔色ばかり窺って生きてきたからね、と苦笑いする。
「心配しないでよ。あの魔獣を殺すこと、それ自体が楽しかった訳じゃない。あれからずっと考えてたんだ。……僕はさ、昔っから自分には何もない、ってそう考えて生きてきたんだよ。いや、そうあるべきだ、って方が近いかも。
だからさ、そんな自分がこの数ヶ月で凄い成長して。うん、自分でも実感できる程に成長して。ただそれが嬉しかったんだと思うんだ」
「本当にそれだけ?」
「それだけだよ」
でも、とロビンがボソリと呟く。これは言って良いものかどうかわからない。でも彼は数秒ほど逡巡した上で、言わないことに決めた。
「いや、なんでもないよ」
「……うん」
ロビンが言おうとしたこと。それは、「カーミラを守るためなら、人を殺そうが、魔獣を殺そうが、それら全てを僕は正当化すると思う」、ということだった。きっとそれを聞いたら、この美しい少女は心を痛めるだろう。それはロビンの望むところではなかった。
カーミラが、すとん、とロビンの肩に頭を預ける。その温もりに、否応なしにあの時の唇の感触を思い出してしまって、ロビンは顔を真っ赤にした。
「えっと、カーミラ?」
「何?」
「どうしたの? なんか、変だよ?」
「しっつれいね。変じゃないわよ」
カーミラが少しばかり怒ったような声で、抗議の言葉を口にする。
「ねぇ、ロビン……」
「何?」
「私ね……、ロビンのことが……」
カーミラの言葉がそこで止まる。無言の時間が続いた。数十秒程経ち、カーミラが小さくため息を吐いた。
「なんでもない。私、もう寝るね」
「う、うん。おやすみ」
カーミラが立ち上がって、お尻をポンポンと叩いて土を落とす。おやすみ、と小さく告げて、自身のテントに帰っていった。
「ロビンのことが……」、その続きが気になって仕方がなかった。というか、その後に続く言葉なんて一つしか無い。流石の彼もそれぐらいは分かっていた。だが信じられない。カーミラが僕のことを好き? 馬鹿じゃないか? 思い上がりも甚だしい。ロビンは頭を振って、そんな考えを振り払った。彼の自己愛の低さが現状の理解を拒んでいた。
あぁ、今日は眠れそうにない。でも丁度いいか、あと三時間程見張り番だ。ロビンは思考を放棄し、またぼけーっとし始めるのであった。
次の日、三人はテントをしまい込むと、またリュックを背負って走り出した。目指すは帝都近くの大河である。プロキャピテル大河と呼ばれるその河は、メガラヴォウナ山脈から帝国の北東に向かって流れる長い長い河である。
走りながら、ロビンとカーミラの間に漂う雰囲気が、昨日までとは違ったものになっていることにアレクシアが気づいた。また、カーミラから発せられる自身に対する怒気もすっかりと鳴りを潜めていることに気づいていた。とはいえ、それが恋だの愛だのといった、そういった感情に依るものであることは、彼女には分からなかった。彼女もまた、恋愛とは無縁の人生を送ってきた一人であったのである。
程なくして、河のほとりに辿り着く。帝都は目視できているがまだまだ遠い。河沿いを三人はひたすら走り続ける。天気も良く、太陽の光を反射して河がキラキラと光る。その光景にロビンとカーミラが顔を輝かせる。
全く、この二人はのんきなものだ、と心の中で嘆息する。これから行く帝都は、まさしく死地である。帝都は多少の例外はあれど純粋な帝国人でなければ入ることは許されない。それは、帝国の侵略の歴史に依るものである。大陸を横断するメガラヴォウナ山脈、その北側を全て制圧してきた帝国は、他の民族の蜂起を最も恐れているのであった。
それ故、帝都へ入るには厳重な検査が必要となっていた。王国民であることが明るみに出た瞬間に投獄されるのは当然の帰結である。
一時間程走った後、アレクシアが二人に止まれ、と叫んだ。
「もうすぐ、目的地だ。その前にやることがある」
ロビンとカーミラは、彼女のその言葉に顔を見合わせて首を傾げた。やること、それは着替えである。アレクシアは、帝国民の一般的な服をペルモンテで買っていたのであった。これに着替えろ、とリュックから取り出した二人分の服をどさりと放る。当然、自分の分もある。唐突に服を脱ぎだした彼女を見て、慌て始めたのはロビンであった。
「ぼ、僕、後ろ向いてます。レイミアも早めに着替えてね」
カーミラとアレクシアが手早く帝国の一般的な服装に着替え始める。アレクシアはカーミラが着替え終わったのを見て、更にリュックから大きめの帽子――これも帝国では一般的なデザインのものであった――を取り出し、カーミラに投げ渡す。
「帽子ね。確かに必要よねぇ」
「あぁ。レイミア。貴方は顔が割れている可能性が高い。目深にかぶっておけ」
「えぇ。そうするわ。ロビン、こっち向いていいわよ」
その言葉に、ロビンがゆっくりと振り向く。帝国の服装は王国とは趣がまた違う。また、当然ながら貴族が着る服ではない。簡素で実用的な機能美を備えた服装をしたカーミラを見て、カーミラはどんな服を着ても可愛いなぁ、と思考が明後日の方向に飛ぶ。
「ローウィン。貴君も早く着替えなさい」
「は、はい」
ぼけっとしていたロビンを見咎めてアレクシアが目を細める。ロビンは手早く渡された服に腕を通す。存外の動きやすさに、彼は感心する。帝国は実用重視。王国のような華美な装飾はあまり施されず、動きやすさを極限まで突き詰めたデザインとなっている。
「さて、準備も整った。行くぞ」
三人はまた走り出した。ややあって、目的の下水道の入り口にたどり着いた。河にドバドバと処理済みの汚水が放水されている。入り口は河に面しており、鉄格子によって守られている。
「見張りがいても良いもののような気がしますけど」
「ここから侵入されるとは、帝国民も考えていないのだろう。中は酷い臭いだ」
「うわぁ。それは嫌ですね」
ロビンが中に充満する臭いを想像して、顔をしかめる。
アレクシアがリュックの中から、スクロールを取り出す。魔術は基本的に杖を利用して使うものだが、こうして羊皮紙に魔術式を含めた魔法陣を書くことで、魔術が使えないものでも一回こっきりではあるが、魔術を使うことができる優れものだ。当然値は張るのだが。
「それはなに?」
カーミラが突然取り出されたスクロールを見て、アレクシアに尋ねる。
「これはそうだな。あらゆる魔力的な感知を受けないようにする魔術が込められたスクロールだ。あの方より賜った」
「そんな便利なものがあるのねぇ」
「王家と宮廷魔術省のみで共有されている秘伝の魔術だ。市井には下りてこない」
こんな魔術をぽんぽんと使われた日には、王宮の守りも怪しくなる。当然であった。
アレクシアがスクロールに込められた魔術を開放する。薄い黄緑色の光が三人を包み込み、そして消える。
「数時間は、帝都の結界をくぐり抜けても感知されない。さて、行くぞ」
そう言って、アレクシアは躊躇なく河に入っていく。二人も慌ててそれに続いた。
場面は変わり、二話ぶりに三人にスポットライトが戻ります。
ロビンとカーミラの恋模様。なんだか初々しいですね。
ロビンは朴念仁だし、カーミラは自分が吸血鬼であることと、アリッサがいることで、理性的に感情を押し殺しています。
暫くは進展しないんじゃないでしょうか。
んでもって、それに気づかない大人のアレクシアさんは、やっぱり脳筋です。
次回は下水道探索です。すごい臭いがしそうですね。
想像するだけで、鼻が曲がりそうです。
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