第五話:帝国の洗礼
ペルモンテから出発して、三日目の昼。三人は魔獣の群に追いかけられていた。ハーピー。ハルピュイアとも呼ばれる魔獣である。知能は低いが女面鳥身で、空を飛び群で襲ってくる少しばかり厄介な相手である。その数、約十匹。カーミラの吸血鬼としての力を使えば、容易く打倒せしめることができるが、今一行がいる場所はだだっ広い平原、その街道沿い。こんな、誰が来るかもわからない場所で、彼女の力を発揮させるのはあまりにも迂闊な選択肢であり、三人ともそれを選ぶことを良しとしなかった。
魔獣を振り払おうと、全力疾走する三人の背後から、ハーピーがその鋭い爪でロビンを切り刻もうとする。
「ローウィン! 後ろだ!」
「大丈夫! 分かってます!」
額から流れる汗を拭う暇もなく、ロビンは取って返し、攻撃を繰り出してくるハーピーに向かい合い、跳ぶ。大人三人分程度の高さにも達する跳躍は、ハーピーをロビンのエリアに誘い込むことに成功していた。
拳を振りかざし、突き立てる。ハーピーの腹部にロビンの拳が直撃し、ぼんっ、と音を鳴らしながら破裂する。魔獣の腸が空中に散乱する。カーミラはちらりとその様子を振り返って見て、うえっ、という顔をした。最悪なタイミングで様子を窺ってしまった。腸が飛び散る光景は、グロテスクとしか言いようがない。若干の生理的嫌悪感を抱きつつも、カーミラもロビンに加勢しようと方向転換する。
飛び跳ねた人間はその後落ちていくだけである。はっきり言ってしまえば隙だらけ。数匹の魔獣が、隙だらけのロビンに向かっていく。やばっ、とロビンは思った。今の自分の体勢は背中を下にしてただ落ちている、そんな格好である。まずは体勢を整えないと防御も攻撃もできそうもない。魔獣の爪など痛くも痒くもない、とは言いつつも攻撃されるのはやはり怖いし嫌であった。
ロビンのすぐ横からカーミラが飛び出す。筋力強化した人間と思われそうな範囲で、跳躍し、ロビンに向かっているハーピーを叩き、そして蹴る。魔獣の顔面が吹き飛び、腕が吹き飛び、そして脚が吹き飛んだ。
地面に背中から落ちて、ロビンは思わず肺の中の空気を口から漏らしてしまう。痛みは無いが衝撃はあった。しかし、そんなことを気にしている場合ではない。すぐさま立ち上がると、依然として走り続けているアレクシアの背中に向かって走りだす。どうやら、カーミラも後ろから着いてきているようだ。アレクシアが加減をして走ってくれていたのか、二人は彼女の元にすぐに追いつくことができた。
「少々厄介だな。振り切れるかと思ったが……。仕方ない、殺すか」
「そうですね、それが良いかもしれませ、あ痛った! 舌噛んだ」
「大丈夫? ローウィン」
この二人はなんで走りながら喋って舌を噛まないんだろう、とロビンはヒリヒリする舌に辟易としながらも思った。多分、残している余力の差なのだろう、と勝手に解釈したのと同時に、アレクシアが踵でブレーキをかけるのが見え、自分も同様にそうする。
ずざーっ、と音を立てて、街道に三人の靴の跡が刻まれる。数秒間ほど慣性の法則によってスピードを落としながらも百歩ほどの距離を完全に停止するまでにかけた三人だったが、ようやっと立ち止まると、踵を返し未だ群をなして三人を付け狙う魔獣をにらみつけた。
「人間は空を飛べん。結果的に後の先を狙うことになる。奴らが攻撃してきた時が好機だ」
「はい」
「わかってるわよ」
三人は肉体言語に訴えるための臨戦態勢をとる。また、数匹の魔獣が束になって空から急降下してくる。その動きを見逃さないように目を見開きながら、ロビンは拳をぎゅっと握った。
「しかし、ちょっとだけ疲れましたね。弱い魔獣ではありましたけど」
その後、ハーピーは三人によって、それほど苦難もなく倒されていた。
「ハーピーは決して弱い魔獣ではない。空を飛んでいるという一点が非常に厄介だ。とは言え、言ってしまえばそれだけだ。今の我々の敵ではない」
「はぁ」
ちょっと怖かったけど、とはロビンは口には出さなかった。ロビンは自分の実力が現在どの程度なのか理解していない。筋力強化を身につけた人間。その強さの本質を理解していないのである。常人の数倍、いや数十倍の膂力を発揮することができる、というその意味を。当然である。彼は自分の力を誇示するような人間ではなかったし、経験も足りていない。人間はその経験によって対峙する相手の実力を推し量り、自分よりも強いのか、弱いのか、倒せるのか、倒せないのか、そういったことを判断する。しかし、経験という意味ではゼロに等しいロビンにとっては、対峙する相手が倒せる相手なのかそうでないのかが判断できない。また、彼の意識が筋力強化を身につける前、そのままだということも要因の一つであった。しかし、今しがたのハーピーとの戦いによって、それも徐々に変化を見せつつあった。
「やっぱり筋力強化ってすごいわねぇ。なんていうか、ぱっと見頼りなさそうなローウィンが、ボコボコ魔獣を殴りつけるのを見るとやっぱり違和感が凄いのよね」
ぼそりと呟くカーミラの言葉に、ははは、と苦笑いする。
そういえば、とハーピーの様子に違和感を感じていたことを思い返す。
「アレスタシア。なんかハーピー達の様子、変じゃありませんでした? なんだか、何かに追い立てられているような……」
「ローウィン。貴君も気づいていたか。私も同じ感想を抱いた」
形の良い顎に右手を添えながら、アレクシアはハーピーの亡骸をじっと見つめる。ハーピーは確かに攻撃的な魔獣ではある。だが、なにやらこちらを攻撃するその様子に、焦り、その感情が垣間見えた気がしたのだ。
「凶兆かもしれん。先を急ごう」
その言葉に、ロビンとカーミラが頷いて、また走り出そうとした。その時だった。
「アレスタシア!」
カーミラが大声を上げる。周囲のマナが異質なものに変わっていくを感じたのである。この感じは、前にも感じた記憶がある。そう、リュピアの森。そこでヘルハウンドと遭遇した時だ。
「わかっている! 来るぞ! 恐らく自然発生だ! ハーピーを殺しすぎた!」
魔獣が自然発生する条件。その一つは、空気中のマナの濃度が一定以上に達した時であった。十数匹のハーピー、その亡骸から発散されたマナが空気中にとどまり、その条件を満たしてしまったのである。そしてもう一つは、どこからか吹いてくる、どす黒いマナの存在。意思を持ったように、うごめくそれは、自然と魔獣が自然発生しそうな、マナの濃ゆい場所を目指す。ハーピーの僅かな恐慌はそのマナによるものであったのだろう。自身を餌にして、より強力な魔獣を生み出さんとするマナの霧。それは、生きた魔獣をも食い殺し、上位の魔獣を発生せしめることもある。
とはいえ、その二つの条件が揃ったとしても、魔獣の自然発生など滅多に見られるものではない。つまるところ、この三人の運が絶望的に悪い、と、そういうことであった。
空気中のマナが色を持つ。比喩でもなんでもなく、実際にどす黒いマナの霧が三人の目に映っていた。それは、ハーピーから霧散した周囲のマナをも取り込み、二つの塊に変化する。次第に何かしらをかたどるようにうねうねと動く。徐々に何かしらの形状に霧が形作られていく。その形、それにはロビンもカーミラも見覚えがあった。
黒い塊が、大きな真っ黒い狼に変化する。
「ヘルハウンド!? しかも二匹!」
ロビンが怯えた様な声で叫ぶ。
「二匹か。三人固まって相手にするには、少々酷だな。ローウィン、レイミア! 二手に分かれる。ローウィン、目を強化しろ。遠くに一本だけそびえ立つ大木が見えるな? 終わったらそこで合流だ!」
アレクシアが叫ぶ。その後で、自然発生し終わったヘルハウンドの一体ををおちょくるように加減した殴る蹴るの攻撃を浴びせた。攻撃を受けたヘルハウンドは怒りの感情を顕にして、低い唸り声を上げる。完全にアレクシアをターゲットにしたらしい。アレクシアが走り出すと、攻撃を浴びせられた方の魔獣が逃すまいとその背中を追っていった。
ロビンは目を強化して、アレクシアに言われた大木を目視した。その後で、目の前のヘルハウンドを見据える。なんでだろうか。不思議と恐怖の感情は無かった。先程魔獣二匹が自然発生するのを見た際はあんなに恐怖を感じたのに。
そう、彼の意識は段々と変わっていった。きっかけは、先程のハーピーとの戦いの結果であった。
「さて、僕たちはこっちか。ねぇ、レイミア」
「なぁに?」
「ここは僕に任せてよ。ちょっとばかし、自分の実力を試したいんだ」
ロビンらしからぬ物言いに、カーミラが少しばかり驚いた。こんなことを言う男の子だっけ、と心の中で首を傾げる。
残った一匹が、こちらを注意深く観察している。
「さて、ごめんね。行くよ!」
ロビンが全身の強化に回しているマナの量を一気に上げる。自身の膂力が並大抵のものではなくなっていくのを肌で感じる。
彼はこれまでの長い旅程の中でも筋力強化の訓練を欠かさなかった。アレクシアの言いつけを確りと守っていたのである。それは学院からコンタストヴォンノの街まで向かう時も、メガラヴォウナ山脈を必死で歩いていた時もであった。山越えの時は大変だった。常に肺の強化をし、マナが尽きかけたところで、合間を縫って訓練をしていたのだから。だが、彼は一日たりとも鍛錬をやめたことは無かった。そのことが彼の確かな自信となっていたことが一つあった。
彼の変化、そのもう一つの理由は、メガラヴォウナ山脈で童貞――つまり人を殺した経験を有しているか有していないかである――を捨てたことにあった。アレクシアから半ば強引に差し向けられたとは言え、人を殺す、その経験が確かに彼の糧として、自信として根付いていた。言ってしまえば、脳筋に一歩近づいた、とも言える。
そして、先程のハーピーとの戦い。彼はアレクシアに負けず劣らず、ハーピーを屠っていた。アレクシアは言った。ハーピーは決して弱い魔獣ではないと。
複数の状況が折り重なり、ロビンの意識はある方向性を持って覚醒した。今のロビンはただ知りたかった。単純に。数ヶ月前、殺されるかと思った目の前の魔獣に今の自分がどこまで拮抗できるのか。それを知りたかったのだ。同時に、容易く屠れる、そんな予感もしていた。それを何故だか試してみたくなったのである。
脚に力を入れる。魔獣は未だにこちらを威嚇しているままだ。言ってみれば隙だらけ。溜めに溜めた力を一気に開放する。跳躍。そして風のようなスピードで、ヘルハウンドに肉薄し、振りかざした腕を魔獣の頭目掛けて振り下ろす。
どでかい真っ黒な狼が悲鳴を上げながら吹き飛ぶ。ロビンは自身の引き起こしたその結果に、驚きをもって目を見開いた。なんだ、簡単だ。こいつ、こんな弱かったんだ。彼は思う。だが違う。ロビンが強くなったのだ。彼の努力の結晶。それが遂に今花開いた。
地面に着地したロビンは、間髪を入れず地面を蹴る。未だ宙を待っている魔獣に、追撃の拳をぶちかます。ぴぴっ、と返り血が顔に跳ね、確かな手応えを感じた。また着地、そして蹴る。魔獣の右前足に彼のつま先が突き刺さり、ありえない方向にねじ曲がる。
自然とロビンは笑顔を浮かべていた。愉悦。自身の力に対する圧倒的な自信。無駄ではなかった。今までのきつかった訓練の日々は無駄ではなかったのだ。
右前足をかばいながらも着地したヘルハウンドが、明確にロビンを敵と見なし反撃してくる。その鋭い前足に備えられた爪で、ロビンを八つ裂きにしようと襲いかかる。
「しゃらくさい!」
魔獣の爪を拳で弾き返した後、ロビンはヘルハウンドの眼を目掛けて、右の手刀を突き刺す。魔獣が声にもならない声を上げ、彼の手が魔獣の目玉をえぐり取る。続けざまに、左手を目玉のなくなった眼窩に突き入れる。視神経をずたずたにし、骨を砕き、そしてその手は脳まで達する。脳はいかなる生物にとっても急所である。尤も頭蓋骨という硬い骨に守られているため、一般的な急所ではないが、常人以上の膂力を有する彼にとっては弱点以外の何物でもない。
脳味噌をぐちゃぐちゃにかき混ぜられたヘルハウンドは、びくりと三度ほど痙攣し、その場に倒れ伏した。
ロビンがニヤリと笑う。いや嗤う。
「ろ、ロビン?」
様子をずっと見ていたカーミラが、偽名も忘れてロビンに恐る恐る声をかける。
「なぁに? レイミア」
「……あんた、なんで笑ってるの?」
笑ってる? 僕が? ロビンは自分が満面の笑みを浮かべていることに気づいていなかった。自分では必死で目の前の魔獣を打ち倒そうと、そんな表情を浮かべていたつもりだった。
「僕、今笑ってる?」
「う、うん。すごーく」
自分の顔を血まみれになった両手で触る。顔にヘルハウンドの血や体液、脳漿がべとりと付着するが、そんなことはどうでもよかった。
「……僕、なんで笑ってるの?」
笑顔が影を潜め、無表情になる。
「わ、わかんないわよ。でも……」
今のロビン、少し怖い、とはカーミラは声に出さなかった。いや、出せなかった。彼が少しずつ変わってしまっている。メガラヴォウナで、山賊を殺してからだろうか。そのずっと前からだろうか。その変化がカーミラは怖かった。
「か、カーミラ。僕……今、あいつを殺すことを、た、たのしんで……」
「それ以上、言わなくていい!!」
カーミラがロビンをぎゅうっと抱きしめた。きつくきつく抱きしめた。ヘルハウンドの体液まみれのロビンの身体だ。カーミラも勿論、体液まみれになっていく。だが、彼女はそんなことは気にしなかった。
「ロビンはロビン。それでいいの」
それは、ロビンに言い聞かせた言葉だったのだろうか。カーミラ自身に言い聞かせた言葉だったのだろうか。終ぞ、その答えはカーミラにはわからなかった。
「無傷で斃したか。レイミア。貴方の力添えがあってか?」
「……私は何もしてないわ。ローウィンが一人でやった」
大木の下で合流し、アレクシアが状況を簡単に聞く。ロビンが一人でヘルハウンドを打倒せしめたという事実を聞いたアレクシアは、ニヤリと笑う。
「ローウィン。貴君は精神的にも、肉体的にも、戦士のそれに近くなっている。誇るが良い。貴君はよほどのことがなければもう負けることはない。師として、誇りに思う」
「あ、ありがとうございます」
ロビンの怯えた様な謝意の言葉に、アレクシアが眉をひそめる。
「嬉しくないのか?」
「いえ、嬉しいです。でも、なんだか、嬉しいのが、怖いんです」
「あぁ、そういうことか。怖がらずとも良い。自身の実力を誇り、強大な敵を打ち倒す。そこに愉悦を感じるのは当然だ」
心配することはない、とアレクシアがロビンの肩を叩く。
「やめて!」
傍らでそのやり取りを聞いていたカーミラが叫ぶ。
「私は! ロビンに! そんなふうになって欲しくない!」
「レイミア。ローウィンだ。偽名を忘れるな」
静かに、しかしはっきりと、非難するような響きをもって、アレクシアはカーミラに返答する。それは、言外にロビンのその変化を祝福すべきだ、とそう言っているようでもあった。
ロビンが遂に身も心も脳筋になりました。
なんでだ。なんでこうなった。
兎にも角にも、ロビンがちょっとだけ覚醒しました。頼もしい限りです。
ですが、彼は実力の日偉るっk-で言えば、中の上くらいです。ま、これから沢山負けますよ。痛い目にも合います。
頑張って! ロビン!
次回から二話ほど、帝国の三人からスポットライトが外れます。
王国での動向のお話です。つまり、エライザが動き始めます。
読んでくださった方、ブックマークと評価、よければご感想等をお願いします。
励みになります。
既にブックマークや評価してくださっている方。ありがとうございます。




