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エピローグ

「山、超えた」


 ロビンが疲れ切った声色でポツリと呟く。予定では一週間弱だったが、一行は十日強かけて、メガラヴォウナ山脈を踏破するに至った。


 五日間。それが吹雪によって三人が足止めを余儀なくされた時間である。肉体的も精神的にも辛い時間だった。いつまで続くのかわからない吹雪。次第に失われていく食料。五日間が十日間にも、ともすれば一ヶ月にも感じられた。


 五日間続いた吹雪はその次の日止み、嘘のような晴れ渡った空を三人の目に映した。アレクシアが言葉少なに、出発だ、と言い、三人だけの雪中行軍が再開された。


 そして、予定通り六回目のキャンプを経て、三人はメガラヴォウナ山脈、その帝国側の登山道までたどり着いたのであった。


「……これ、帰りも山超えないといけないの?」


 吸血鬼だてらに、疲労を顔ににじませたカーミラがうんざりした声を隠そうともしないで呟く。この険しい山脈を超えるのに疲れるのは人間も吸血鬼も一緒だ。


「是非もあるまい」


 いつもは無表情なアレクシアも流石に顔が煤けている。


 なにはともあれ山脈を超えるという、第一歩目のハードルを三人はクリアしたのであった。


 ある程度整備された登山道をヘトヘトな身体でえっこらよいさと動かし下っていく。足取りは重い。何しろ疲れ切ってしまっているのだ。


 山を下れば、次は帝国の検問所である。レイナール連合王国の王家印が刻印された旅券があれば――尤も、偽名の旅券なので公文書偽造になりうるのだが、そこはそれ王女自らが偽造しているわけで、気づかれる可能性もない――問題なく帝国の中には入ることができる。両国とも、旅行者や商人の行き来を断絶しているわけではない。貿易も多くはないが行われているし、帝国へ旅行に行く変わり者も少なくない。


 長く曲がりくねった登山道を下へ下へ歩く度に、徐々に雪が減っていく。標高が下がっている証拠である。


「ウィンチェスター。肺の強化はもう解いて良い」


「あの五日間から、ずっと解きっぱなしですよ……」


「……ならば良い。高山病にならなくて僥倖だったな」


「はい」


 帰りもこの道程を逆向きに行軍するのかと思うと気が滅入る。それはロビンとカーミラの共通の思いであった。


「転移の魔術。使えるようになりたいな」


「ロビン。奇遇ね。私も全くおんなじことを考えてたわ」


 転移の魔術の便利さが身にしみてわかる。王国では十八歳以上から、筆記試験と実技試験を経て免許の取得が可能となる。だが、どちらも一筋縄ではいかない難易度の高い試験だ。にもかかわらず、毎年受験者が殺到する理由の一端がなんとなく二人には分かった気がした。


「見ろ。ペルモンテだ。帝国側の国境沿いの街だ」


 アレクシアが二人に声をかける。峠からは、いかにも活気のある美しい街並みが広がっているのがよく見えた。


「これは……」


「絶景ね」


 侵略行為に一区切りをつけた帝国は、今や大陸の中でも随一の豊かな国となっていた。街並みの美しさを見ても、それは一目瞭然であった。王国と同様、山沿いに長く広がった石壁がそびえ立っている。これもまた、帝国が王国を仮想敵国として認識している証拠とも言える。


 もうすぐ日が暮れる。夜になる前に街までたどり着いておきたい。街並みを目の当たりにした三人の思いは一つになり、疲れ切った身体にムチを打ちながら、足早に登山道を下っていく。


 かくして、一行は帝国への入国を果たしたのであった。






「カーミラ。帝国についたみたいですね。アレクシアの反応が帝国の国境付近で感じます」


「左様でございますか」


 エライザがポツリと呟き、それにジェシーが答える。宰相の身としては公爵家の令嬢を間諜として帝国に放り込んでいるという、今この状況が胃に穴が飽きそうな程不安であるのだが、目の前の王女は実にあっけらかんとしている。


「うまくいくかしら」


「うまくいく算段がついているから、送り込んだのではございませんか?」


「あら、私はどちらに転んでも自分の得になると判断しただけよ」


 やはり、この王女の考えることはわからない。ジェシーは特大のため息を飲み込んだ。王族の前でため息を吐くなど、不敬罪も良いところである。だが、この王女はそんなこと気にもしないだろう。プライド、名誉、メンツ、自身に向けられる敬意。どれもこれも自分に必要のないものであると割り切っているのだ。ひたすら実を取り続ける。それが彼女の為政者としてのプライドそのものであった。


「ところで、お父様の具合はいかがかしら?」


「……芳しく有りません」


 ジェシーが国王陛下に思いを馳せる。流行病に罹り、病床に伏して数ヶ月。王国中の名医を呼び、毎日治療に当たらせているが、一向に良くなる気配はない。徐々に弱り、痩せ細っていく国王を見て、なんとも痛ましい姿だと感じたものだ。


「そ」


 それは良いニュースを聞いたとばかりに、王女がニコニコと微笑む。エライザは自分の父親が病で今にも死ぬかもしれない、そんな状況であるにも関わらず笑っている。この王女には人間としての情は持ち合わせていないのだろうか、とジェシーはぼんやりと考えた。


 そうやってぼんやりとしているジェシーに、エライザが笑顔の仮面を取り外し、真剣な表情で早口に指示を出す。


「宰相。至急、クレイグ公爵、ゲルニッツ侯爵、ケヴィア伯爵にアポイントメントを取っていただけます?」


 ジェシーは名だたる大貴族達の名前が唐突に王女の口から発せられたことに、目を剥く。クレイグ侯爵、ゲルニッツ侯爵は、第一王子の派閥の第一人者である。ケヴィア伯爵は同様に第二王子の派閥の第一人者だ。爵位は違えども、優秀な頭脳を持った一筋縄ではいかない貴族達である。


「なにをなされるおつもりですか?」


「お兄様方にまかせておいたら、この国、滅びますもの。誰かがなんとかしなきゃ、でしょ?」


 ついに来た。ジェシーが最も恐れていたと同時に、密かに望んでいた事態。この生まれながらの為政者である王女が、王権に興味を抱いた。こうなったエライザはもう止められない。どんな手段を使っても目的を達成するに違いない。ジェシーは、キリキリと胃が痛むのを感じた。同時に、これから来るであろう歴史的瞬間を最も近くで拝めるかもしれないという、一見相反した感情を抱えた。


「私めは何も聞かなかったことにしておきますゆえ」


 ともあれ、自分の手には余る話である。ジェシーはひとまず、聞かなかったことにする、とそう言った。


「あら、デイヴィッド宰相。私、貴方に一番働いてもらうつもりですのよ」


「お戯れを」


 やめてくれ。これ以上私を巻き込まないでくれ、と叫びそうになった。ジェシーは彼女の覇道を見届けることに関しては望むところだが、この悪辣な王女の手足になることは正直御免こうむるところだった。だが、ジェシーは知っている。自分がとうにエライザのお気に入りの一人となってしまっていることに。でなければ、こうも頻繁に一介の宰相である自分が、王女が一人で仕事をしている部屋に呼び出されるはずがないのだ。


「私が、戯れを言ったことが今までにありましたか? いや、あったわね。沢山。でも、冗談でこんなことは言いませんわ」


 宰相、頼りにしていますわね、とにこやかに微笑むエライザに、凡才の宰相は冷や汗が止まらない。


「……では、ご指示いただいた通り、クレイグ公爵、ゲルニッツ侯爵、ケヴィア伯爵に手紙を送らせていただきます」


「えぇ。一週間後に王宮でお会いしたい、と伝えてくれる?」


 一週間!? それにしても急過ぎる。どれだけ馬を早く走らせても、一ヶ月はかかる。ジェシーは王女の言葉を理解することができなかった。


「お三方とも、転移の魔術の免許を持っていらっしゃいます。王女の権限で特別に王宮への転移を許可する、と伝えなさいな」


 王宮への転移は原則として禁止されている。禁止されているというよりも、そもそも転移できないように結界が張られている。だが、王家の承認があれば話は変わってくる。王族の血によって成されているその結界はまた、王族の血によって例外を許すのだ。


 しかし、この王女はどこまで情報を把握しているのだろうか。普通、誰が転移の魔術の免許を持っているだとか、そういった細かいことをいちいち覚えているだろうか。彼女は成人してから、日がな一日この居室で書類仕事をこなしている。そんな情報を揃える時間がどこにあったというのだろう。


「あら、転移の魔術の免許を持っている人間は全部頭に入っていますわ。たかだか数百人から数千人程度の名前を暗記するのなんてどうってことございませんわよ」


 顔に出ていたらしい。エライザが呆けた顔のジェシーにニッコリととんでもない事実を告げる。天才。その言葉がこれほどまでに相応しい人間がいるだろうか。思考が先を行き過ぎている上に、記憶力、知識、知恵、どれを取っても天才と呼ぶに相応しい。


「さて、忙しくなりますわね。ジギルヴィッツ公爵にもお手紙を出してくださる? こちらは一ヶ月後にお会いしましょう、と」


 ジギルヴィッツ公爵に会って、何を話すと言うのだろう。増々この王女が何を考えているのかわからなくなってしまい、ジェシーはただ、承知しました、とだけ声を出した。


 ありがとう、出ていっていただいてよろしくてよ、というエライザの言葉に、最敬礼をひとつ。そして踵を返して、部屋を出る。


 これから、王宮が、王国が、血で塗れる。他ならぬエライザの手によって。そんな予感がした。






 ジェシーの去った部屋でエライザは一人、積もり積もった書類仕事を驚くべきスピードでこなしていた。書類一枚を読む時間は、わずか数秒。その数秒間で、書類に書かれている内容を理解し、暗記する。いわゆる映像記憶というものと速読のあわせ技であった。彼女は、生まれてからこれまでの全ての出来事を忘れずに記憶している。見たもの聞いたこと全てをだ。


 書類の中でも許可、却下の判断が必要なものは、それから十秒ほど悩んでから、そのどちらかの単語を書く。その全ての判断が間違っているはずがないことは言うまでもない。


 彼女の情報網。その一つはこの大量の書類仕事であった。エライザは思う。お馬鹿さんなお兄様たちは、こんな書類仕事やりたがらないでしょうね、と。当然である。国王ですら、こんな大量の書類仕事はしない。そのための役員貴族であり、元老院である。


 だが、エライザは成人する直前、父王に頼み込んで自分に決裁できるような書類仕事はすべてこちらに回してもらうようした。


 下から上げられる書類は実に雄弁だ。嘘を吐くこともあれば、真実を教えてくれることもある。そして、そこに書き連ねられている全てのデータが何らかの意味を持ち、そして彼女の次なる情報の引き出し元となるのだ。


 部屋に一人なのを良いことに、うぐぅー、っと伸びをする。自ら望んでこの状況を作り上げたのは確かなのだが、この治まる様子のない肩凝りにだけは辟易としていた。その大きめの胸も肩凝りの悪化に一役買っているのだが、そんなことはどうでも良かった。


「ふふ」


 カーミラ達から、どんな情報が送られてくるだろうか。楽しみで仕方がない。


 何を隠そう、エライザは情報というものが大好物であった。知らなかったことを把握すること。データとして把握できていなかったものが、数字になっていくこと。そして、隠された真実を暴き立てること。他にも沢山。本当に好きだった。


 引き出しを開けて、片手間に書いた三束の報告書をちらりと見る。我ながらこれは傑作だ、とエライザは思う。この報告書を突きつけられて、一週間後に呼び出されてここにやってくる貴族達はどんな顔をするのだろう。その表情を想像するだけで、彼女の心は愉悦に染まっていく。


「ふふふ」


 王権に興味はない。だが、王権を使わなければ自身の目的を達成することができない。そのことは、彼女が物心ついた頃から理解していたことだ。


 人生で達成すると決めた目標と、僅かな一握りの趣味。それがエライザの生きがいそのものである。


「ふふふふふ」


 王女は嗤う。王女は嗤う。愚かな人間が、愚かに踊っていくのが楽しくて楽しくて仕方がない。全てが自分の予想通りに進んでいく。全てが自分の想定通りに進んでいく。まるで将棋みたいなゲームをしているみたい、と思ったことがある。そう、彼女にとってはこの世界、この人生はゲームそのものであるのだ。


「ふふふふふふふ」


 これから私がしようとしていることを知ったら、カーミラはどんな顔をするかしら。エライザは美しい白銀の長髪をたなびかせる幼馴染を思い出す。吸血鬼。なんて素晴らしい。あとは帝国で少しばかり現実の残酷さと、闘争というものを学んでくれれば、優秀な駒になる。見たところ彼女は吸血鬼の本能を、その余りある理性で抑えているようだが、それも苛烈な帝国の環境でどう変わっていくのだろう。興味は尽きない。


 ふと、一人で笑い声を上げているこの状況が、なんだかものすごく恥ずかしくなってきて、

真顔になる。楽しいものは楽しい。だが、これでは変人そのものではないか。彼女は確かに変人の一人に数えられるべき人間であるのだが、得てして天才というものは自身の異常性には自覚がない。


「……仕事に戻りましょうか。あ、紅茶を飲みたいわね」


 そう呟いて、パンパンパンと手を叩く。王女付きの侍女が部屋の中に数度のノックと共に入ってくる。


「紅茶をお願いします。熱々なのを。お砂糖を沢山入れてくださいます?」


 わずかに疲れを感じるこの脳味噌に、甘々な紅茶は実に染みるだろう。


「かしこまりました。姫様」


「ありがとう」


 一礼をして足早に出ていく。私の侍女は優秀だ。ふふんと胸を張る。紅茶は美味しいし、何より何も聞かず、何も言わず、ただただ人形のように言うことを聞いてくれる。部屋に入るなといえば入らないし、入ってこいと言えばすぐに入ってくる。


「さ、仕事仕事」


 王女は半分趣味と化している、終わりの見えない書類仕事に再度取り掛かるのであった。

これにて、第三部完結です。

第三部は大きく物語が動き始めた章です。


次回、やっぱり短めの閑話を挟むことにしました。

学院に残された仲良し六人組の残りのメンバーの話です。


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