第十七話:山越え
それから、山賊はもう現れなかった。カーミラは、また山賊が出たらロビンが殺さなければならなくなる、と考えていたため、その事実にホッとした。
今、一行は山の五合目。登山道の終わりにたどり着いていた。四合目辺りから薄く積もった雪が現れだし、五合目となると、もはや真っ白な雪景色である。五合目直前、それが登山道が雪に隠れないギリギリの分水嶺であったのだ。
五合目といえども、山越えはここからが本番だ。五合目から先は、それよりも高い標高まで行くと、人間が生きていけない環境となる。そのため、普通はそこからぐねぐねと谷を迂回し、標高を五合目程度に抑えたまま、帝国側へ向かうのが定石であった。
大陸の南に位置する王国では、雪はめったに見られない。当然降り積もった雪景色というのも、アレクシアを除く二人には初めてである。示し合わせたわけではないが、わぁ、と二人から同時に感嘆の声が上がる。
ここから先は、流石に山賊も出ない。雪原を根城にするなど自殺行為以外の何者でもない。今でこそ綺麗な雪景色であるが、一度天候が変われば、真っ白な死の世界に早変わりするのである。
「ウィンチェスター。肺臓の強化は継続したままか?」
「はい」
「ジギルヴィッツ。体調に異変はないか?」
「……ないわ」
なんとなく、数刻前のやりとりで、三人の間に壁が出来てしまっていた。カーミラは数十分かけてあれが必要なことであることは理解した。だが納得しているわけではない。人間が人間を殺す。そんなこと体験せずに済むのが一番である。だが、それをロビンは望んでやった。そのことも納得していなかった。
ぎゅっぎゅっと、一歩歩く度に、雪が固まる音が聞こえる。こんな経験も初めてだった。カーミラの心の中には、先程の出来事に対する不納得感と、初めて見る雪景色に対するワクワクが同居する、アンバランスな心持ちであった。
「ここからは寒くなる。また、登山道もない。ルートを再確認するぞ」
アレクシアが地図を広げて、二人を集める。山越えのルートは、比較的高度の低い谷間を縫って歩いていくものだ。複雑に絡まり合う山脈を縫って歩くそのルートは、確かに安全ではあるが時間がかかる。そして、その間に天候が変化しないとも限らない。まさに命がけである。
「ここと、ここと、ここ。あとここ、ここ、ここ。全部で六箇所。キャンプをする」
アレクシアがポケットから赤いペンを取りだし、地図に六つのバツ印をつける。
「また、今日はここでキャンプだ。もう日が暮れ始めている。夜の山は危険だ。魔獣も出る」
地図にもう一つバツ印が追加される。それが一行の今いる地点である。
「では、キャンプの準備をしろ」
アレクシアの言葉に二人は、大きなリュックを下ろし、中からテントを取り出した。
テントの設営も終わり、食事も済ませ、後は寝るだけである。正確にはロビンはこれから数時間じっと見張り番をしてなくてはならないのだが、兎にも角にも今日やらないといけないことは全て済んだ。ロビンにはピシっと研ぎ澄まされた空気が肌を刺し貫くように感じられた。うん、寒い。防寒対策はバッチリである。とはいえ寒いものは寒い。筋力強化を使えば、寒さは感じなくなるが、肺の強化を継続させるため余計なマナは使いたくなかった。
雪を固めて椅子代わりにしたそこに腰掛け、ズズッと手に持ったマグカップを啜る。温かいスープだ。携行食として、粉にしたスープの素を買い込んでいた。乾燥魔術によって粉になった鶏ガラの出汁は、お湯を注ぐだけで温かいスープになる優れものである。
「ロビン?」
背中の方からカーミラの声が聞こえた。一時間前くらいに「もう寝る」と言って、テントの中に入っていったはずだ。アレクシアも同様にテントの中に潜り込んでいた。見張り番の最後は彼女である。
「カーミラ、まだ寝てなかったの。もう遅いよ?」
「それを言うなら、ロビンだって」
「僕は見張り番。次は君の番だろ? 早く寝ないと保たないよ?」
そう言ったロビンを、カーミラが見つめる。いつになく真剣な表情で、だ。
「見張り番終わってから、眠れるように見えないけど?」
どうやらバレてたらしい。そう、全然眠くなかった。見張り番を終えてからも眠れるかどうか怪しい。先程の感触がまだ腕に、足に残っていた。人を殺した。その感触が。山賊と言えども人間である。人間が死の直前浮かべる顔。死んだ後の空虚な瞳。それらが頭から離れなかった。
「殺してほしくなかった……」
「うん」
「……ロドリゲス先生の言っていることは理解してるの。でも、ロビンに人を殺してほしくなかった」
「僕も、人を殺したいなんて思っちゃいないよ」
無言。数分間無言の時間が続いた。
カーミラがゆっくりとロビンの背後に周り、腰掛け、ロビンの背中に背中でもたれかかる。分厚く防寒着を着込んでいるため、なんの感触も感じないはずなのだが、ロビンはなんとなくカーミラの背中が暖かく感じた。
「星。綺麗ね」
凍てつく寒さに乾燥した空気。その環境が、王国でみるそれとはまた違った趣をもって二人の目に映っていた。
「うん」
「お父様が言ってた。善行を積んだ人間が死んだら、星になるんだって。神々が魂を空に連れて行って、そして燦々と輝かせるんだって」
「メーティス教の教えだね。僕の両親も僕もメーティス教徒だから、その話はよく知ってる」
「うん。でもね。私、メーティス教とは関係なく、この話が大好きなの」
だって、とカーミラが続ける。
「死んでも、あの美しい夜空で輝けるってことでしょ?」
顔は見ていない。だが、カーミラが微笑んでいるのがロビンには分かった。
「僕が死んでも、あの星になれるかな」
「なれるわよ。私が保証するわ。ロビンだけじゃない。皆、いつかあの星になるの……」
言いながら、少しずつカーミラの声が鼻声になってくるのを耳で感じた。
「そしたら、私。皆が死んじゃっても寂しくないなって。今、そう思う。空を見れば皆がいるもんね」
「カーミラ……」
永遠を生きる。それはどのような心持ちなんだろうか。ロビンには理解できない。そして、本当の永遠というものをカーミラも理解できてはいないだろう。その絶望が襲ってくるのは、これからずっと先、百年だとか、二百年だとか後の話なのである。ロビンは思う。その時、僕はこの儚い少女の隣にはいられない。どうしたら、この少女の心を救ってやれるだろうか、と。
「ねぇ、ロビン。約束して。ロビンは死んだら、絶対にあの星になって」
「……うん」
「今日、ロビンは人を殺してしまったわ。でも、そんなこと関係ない。ロビンは善い人よ。きっとあの星になるの。だから、正しいことをしてね。ロビンが思った正しいことを」
メーティス教では、善人は神々が夜空に連れていき、星として美しい輝きを放つ。一方で悪人は、冥界に行き、神々の元で永劫の苦痛を与えられるのだという。だから善く生きなさい。神々は人々を見つめている。かの国境の教義の中の一文にはそんな旨の記述があった。
「僕は……。もしかしたら僕はこれから人を沢山殺すかもしれない。それだけの力を手にしてしまった。今日それが分かった。すごく簡単だった」
ロビンが夜空を見上げる。
「でもね、カーミラ。君が僕の神々なんだよ。君がいるから、僕は正しく在れる。吸血鬼でいながら、誰よりも人間らしく、正しく在ろうとする君がいるから」
「ねぇ、ロビン。こっち向いて」
その言葉にロビンは振り向いた。
不意に唇に柔らかい感触が押し付けられる。
一瞬のことだ。よく理解できなかった。いや、理解しようとしたが、脳がそれを拒否した。
ぼうっとカーミラを見遣ると、耳まで顔を真っ赤にしたカーミラが目をそむけてもじもじしているのが確認できた。
「お、おやすみ!」
行ってしまった。なんだったんだろう。ロビンは自分の唇をそっと指でなぞった。え? え? どういうこと? 混乱しっぱなしだった。数分かけて、自分が口づけされたという結論に達すると、ロビンはつい先程のカーミラ以上に顔を真っ赤にした。
「えぇ!?」
結局、ロビンは今夜、見張り番を終えたとしても眠れそうになかった。しかし、怪我の功名とでも言うべきか、人を殺した、その事実と感触はそれ以上の衝撃によって、すっぱりと忘れてしまったのであった。
一方で、テントに戻ったカーミラは、恥ずかしさのあまりに死んでしまいたくなっていた。寝袋にくるまり、足をバタバタさせる。きゃー、きゃー、やっちゃった、やっちゃった! 彼女の頭の中はすっかりピンク色だった。そしてそれと同時に心の中でアリッサに謝罪の言葉を連呼する。ごめんなさい、アリッサ! 本当にごめんなさい! だって、ロビンのあんな様子見てられなかったんだもの! もう、頭の中はぐちゃぐちゃである。カーミラも今夜は眠れそうになかった。
次の日、目の下に隈をこさえた二人をみて、アレクシアが心底不思議そうな顔をしたのであった。
山越えはあまりにも順調であった。天候にも恵まれ、トラブルも少なかった。途中で何度か魔獣に襲われもしたが、強力な魔獣ではなく、ロビンがぶん殴り、カーミラが魔術で斃す。たまに、アレクシアが戯れに手をだす。そんな道中であった。
五合目でキャンプをしてから、六日目。つまり、アレクシアが地図につけた六回のキャンプ予定のうち五回を消化したことになる。あと一回キャンプを挟んで、谷を往けば帝国側の登山道にでる見込みであった。
ただ、五合目のキャンプから、ロビンとカーミラはなんとなく気まずくなってしまった。「ね、ねぇロビン」というカーミラに、「な、なに? カーミラ」と返すロビン、次に続くのは決まって「な、なんでもない」というカーミラの言葉だった。この二人に何があったんだろうか、とアレクシアが珍しく首を傾げたものだった。
三人は、ひたすら歩く。膝の上まで積もった雪をかき分けながら。えっさほいさと歩く。特筆すべきことは何一つ無い。左右の高い尾根を以って自分たちの今いる場所が正しいルートであることを時たま確認しながら歩き続ける。
アレクシアも、ロビンも肺以外の強化は行使していない。マナの消費を最低限にするためである。それがなければ、薄い空気がたちどころに二人の身体を蝕むのである。マナを切らすわけにはいかなかった。
心配していた、寝ている間の強化についても、ロビンはなんとかこなしていた。寝ながら強化をする、という技術は筋力強化の中でも特に難しい技術であるのだが、そこはそれ鬼教官のスパルタ特訓を耐え抜いたロビンであった。
一方でカーミラは、アレクシアの予想通り、吸血鬼という強靭な肉体が高山病等とは無縁であることを証明していた。体調を崩すこともなく、苦しくなることもない。そもそも、一時間程息をしなくても死ぬことがないのだ。それはカーミラが吸血鬼になってから行った実験の一つであった。
「……む」
アレクシアが小さく唸る。雪である。雪が降り出して来たのだ。
「雪が降ってきた。急ぐぞ。吹雪になるとまずい」
そうは言うが、今は昼過ぎ。後数刻で日が傾き始める時間である。三人ともずっと歩きづめだ。カーミラはともかく、アレクシアとロビンは体力の限界が近づいていることを自覚していた。はらはらと振り始めた雪にアレクシアが嫌な予感を感じた。
数十分後、彼女の嫌な予感は的中した。降る雪は激しさを増し、風がびゅうびゅうと吹き荒れる。三人はホワイトアウトした景色に、自分たちがどこにいるのかさえもすっかりわからなくなってしまった。ここで下手を打てば三人に待ち受けている帰結は遭難、そのものである。
「ウィンチェスター! ジギルヴィッツ! 今日は予定を早めてここでキャンプをする! テントを立てろ!」
吹き荒れる吹雪の中テントを設営するのは骨だったが、数十分かけて三人はそれぞれのテントを設営することに成功した。
「いいか、吹雪が止むまではここから動けん。数日程ここに縛り付けられるのを覚悟しておけ。食料はまだあるか?」
「まだ余裕があります。切り詰めて一週間ほどなら耐えられます」
「よし。ウィンチェスター。肺の強化を解け。数日感ずっと薄い空気の環境にいたのだ、ある程度身体が慣れているはずだ。体調に異変を感じたらすぐに報告しろ」
「わかりました」
ロビンが強化を解く。すると一気に、空気の薄さを身にしみて感じることとなった。少しだけ息苦しい。だが、数日間肺に強化をかけながら、この環境に身体を慣れさせたおかげもあってか、それ以外の異変は感じなかった。
「では、各自、テントに入れ! しばらく動けないことを覚悟し……何?」
「魔獣よ!」
カーミラとアレクシアが奇妙な気配に気づく。遅れてロビンも気づいた。囲まれている。煮えたぎるような不快なマナが三人の周囲を取り囲んでいた。
アレクシアが小さく舌打ちをする。嫌なことは重なるものだ。
吹雪によって、魔獣の姿が見えない。これだけ強大なマナを持つ魔獣である。さぞかし巨体をもっているのではないか。ロビンもカーミラもそう思った。
だが、二人の予想は見事に外れることになる。ぴょん、と一匹の兎が吹雪を掻い潜って現れる。可愛らしい兎だ。一瞬だけ、ロビンとカーミラが拍子抜けする。だが、こんな凶悪なマナを持った魔獣だ。三人ともその見た目に騙されることは無かった。
「ヴォーパルバニーだ! ウィンチェスター! 全身の強化を急げ!」
その叫びに呼応するように、次から次へと兎が現れる。その数は、ざっと見積もっても五十匹以上はいる。いや百匹かもしれない。兎にも角にも、吹雪のせいで魔獣がどれだけ集まってきているのかが把握できていなかった。更に、その一匹一匹が一騎当千の危険な魔獣である。
一匹の兎が我先にとロビンの首元に飛びかかる。
「ロビン! 危ない!」
兎の鋭い前歯が、ロビンの頸動脈を噛みちぎらんとする。既のところで筋力強化が間に合った。ロビンの身体は鋼のような強度を発揮する。しかし、それでも無傷とまではいかない。浅く首筋に切り傷ができる。
「ウィンチェスター! ジギルヴィッツ! 背中合わせに集まれ!」
アレクシアの声に、三人は背中合わせになる。狩るものと狩られるもの。魔獣が狩る側なのか、三人が狩る側なのか、それは誰にもわからなかった。
とうとう、ロビンのファーストキスが奪われてしまいました。
ロビンったらマジヒロイン。
カーミラも色んな出来事が重なったせいか、理性のタガが外れてしまったようです。
うわぁ、気まずいなぁ、と二人はずっと考えながら山脈を歩きました。
さて、第三部のクライマックス。魔獣との戦いです。
首をはねる兎って、普通に考えたらめちゃくちゃ怖いですよね。
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