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第十六話:メガラヴォウナ山脈

「これが、メガラヴォウナ山脈の入り口ね!」


 カーミラが初めて見る光景に弾んだ声を上げる。声には出さないが、ロビンも同じ気持ちであった。


 まず、アレクシアが得た情報は次の日に、ロビン、カーミラにも共有された。特に帝国が兵士を集めている、という情報については、二人も真剣な顔で生唾を飲み込んだものだった。


 そこから数日経ち、早朝。宿屋の主人から山の天気についてお墨付きを貰った。これから数日は吹雪にならないだろう、とのことだった。三人は喜色満面な笑みを浮かべ――実際にはアレクシアは特にこれといったリアクションはしなかったが――意気揚々と荷物を纏め、宿屋の主人にお礼を言った。


 コンタストヴォンノは山越えをする者達の宿場町であると同時に、国境の内から外に出ようとするもの、また国境の外から内に入り込もうとするもの、それらを厳重に検査するための検問所でもあった。仮に帝国が攻めてきた場合を考慮したものなのか、山脈に沿って果てしなく続いている石造りの壁――それは、帝国との国境沿いに数代前の王が建てたものであり、「ティコストバシラ大壁」と呼ばれている――を見て、ロビンとカーミラはそのスケールの大きさに驚いたものであった。


 また、その大壁、つまり北方の国境沿いには、等間隔に小さな砦が建設されており、このコンタストヴォンノの検問所も有事の際は砦として国境を守護することができるような作りとなっている。


 三人は検問所に入った。キューベスト領と王国直轄領の間の関所と同様に、学生二人と教師一人という奇妙な一向に検問所の役員一同は怪訝な目を向けたが、カーミラが取り出した一枚の書簡を見て目の色を変えた。それは、旅券。つまり国境の移動を王家の名の元に許可するというものであった。王家の印が本物であるかどうか、という部分の確認に時間が費やされたが、結果として特に検問を受けることもなく一行は検問所を抜け、山脈の登山道へ向かうことができた。


 ここから山脈を超えた後にある帝国の国境までは無国家地帯となる。メガラヴォウナ山脈はその険しさから、王国も帝国も自身の物にしようとは考えなかった。山脈を自身の領土とすることによるコストとそれに対する見返り、それらをどちらの国も無意味なものであると考えた結果だった。そのため、ここから先は王国の治安部隊も帝国の治安部隊も一切の介入をしない、いわば無法地帯となっている。


 登山道を前にしてテンションが上がりまくっている二人を見遣って、アレクシアが告げる。


「いいか。山越えで最も恐ろしいのは高山病だ。山を登れば登るほど空気が薄くなる。人間は空気がなければ生きていけないのは知っているだろう。空気が薄くなるということは、それだけ身体に負荷がかかるということだ。ウィンチェスター。肺臓のみを薄っすらと強化するとしてどれぐらい持つ?」


「肺だけですか? 多分ですけど、少しずつマナを消費するように心がければ、一週間ぐらいはもつと思います。寝てる間に解けちゃうのだけ心配ですけど」


「よろしい。もし寝てる間に解けても、起きてすぐに強化を再開すれば徐々に体調は復活する。登山道は五合目まで続いている。そこから先は雪に覆われた谷だ。登山道の三合目くらいから、肺臓だけを強化しなさい。ジギルヴィッツ。貴方は吸血鬼だ。恐らくだが高山病とは無縁だろう。身体の頑強さが人間とは比べ物にならない。だが、体調に異変があればすぐに私に報告しなさい」


「分かったわ」


「本来であれば、途中途中で休憩し、薄い空気に身体を慣らしていくものなのだが、このメンバーではそれは不要だろう。時間も惜しい。一気に山越えを目指す」


 アレクシアの掛け声に、ロビンとカーミラは「おー」と右手を振り上げて奮起の声を上げる。


「五合目までは、山賊などもでるだろう。適度に蹴散らしながら、進んでいく」


 そうして、一行はメガラヴォウナ山脈への入山を果たしたのであった。






「術式展開、キーコード、水銃」


 カーミラの放つ水の弾丸に、うわぁ、と山賊達が四散する。彼らを傷つけないように注意深く放たれたそれは、むき出しの岩肌に突き刺さり、どれほどの威力を持っているのかを示唆していた。


「な、なんだ貴様ら! 魔術師かよ!」


 頭領らしき屈強な身体を自慢としていそうな壮年の男性が、三人から十二分に距離を取って叫ぶ。これで何度目だろう。ロビンとカーミラはちょっとだけうんざりしていた。


「魔術を使えないあんた達に勝ち目は無いわ! こっちは全員が魔術師よ! 命までは取らないし、見逃してあげるから、さっさと失せなさい!」


 カーミラが、三人を遠巻きに警戒している山賊共に向けて大声で叫ぶ。このやり取りも何度目かわからない。山賊達は我先にと散り散りになって逃げていった。魔術師とそうでない人間とでは、その戦力に雲泥の差がある。そして、魔術師は野盗や山賊には決してならない。魔術がそれほどまでに潰しの効く能力であるということである。したがって、出会う山賊は皆、魔術の使えない一般人。少し魔術を使って見せれば、すぐに怖がって逃げていく。


「……しかし、こうも出てこられると鬱陶しいわね」


 うんざりした声でカーミラが呟く。無国家地帯とは言え、ここまで治安が悪いとは思わなかった。これまで出会った山賊の全てをカーミラはこうして追い払っていた。


「仕方あるまい。山賊にとってこの山脈は天国のようなものだ。取り締まる人間が誰もいないのだからな」


 王国の領土であれば、野盗や山賊などの不逞な輩が出現すれば、すぐに治安部隊がそれを狩りに出撃する。治安部隊に魔術師がいる場合は少ないが、専門の戦闘訓練を受けた治安部隊に対して、ちょっと力自慢なだけの人間の寄せ集めであるそういった集団は、すぐにやられてしまうのが世の常である。


 それと同時に、貧困を始めとする様々な理由からそういった反社会的集団の一員になる人間は後をたたない。新しく生まれては治安部隊にやっつけられ、生き残りは逮捕される。そうしたイタチごっこが王国では日常茶飯事のように繰り広げられているのである。


 だが、ここは無国家地帯。奴らを取り締まる治安部隊は存在しない。つまり活動し放題の天国なのである。この険しい山を超える者は――そもそもの母数が少ないが――ほとんどを商人が占めている。王国の特産品を帝国に売りに行く、もしくは帝国の特産品を王国に売りに行く。そんな商人を目当てに、山賊たちは日々奮闘しているのであった。


 当然、山を超える商人も何らかの対策は講じる。しかし魔術師を雇うには金がかかりすぎるので、魔術の使えない用心棒などを雇うのが主であった。魔術を使えない人間が相手であれば、数の暴力でいかようにでもなる。この山脈で山賊がひしめき合っているのはそういう理由であった。勿論、魔術師を雇う余裕のある商人もいた。そういった商人に雇われた魔術師は、山賊を一網打尽にし、皆殺しにする。山賊は一時的に数を減らすが、ややもすればまた各地から様々な理由を持って反社会的集団の一員にならざるを得ない人間が、集団が、どこからかやってくる。数が減らないのはそういった理由もあった。


「しかし、殺さなくていいのか? さっきから逃してばかりいるが」


「私があいつらを殺しちゃったら、それはただの弱いものいじめでしょ」


「確かにそうだが、次に通る者が標的になり、善良な人間が死ぬことになるぞ」


 カーミラは痛いところをつかれて、うっ、と小さなうめき声を上げる。


「ロドリゲス先生。カーミラをあまりいじめないでくださいよ」


「いじめているつもりはないが」


「僕たちは学生。人を殺すということに、抵抗がある。それだけです」


「……確かにな。諸君らといると、諸君らが学生であることをたまに忘れそうになる」


 アレクシアが納得したように僅かに表情を変える。確かに、学生ではあり得ないことを今からやろうとしている。アレクシアが自分たちを学生として考えられなくなっても不思議ではない。


「カーミラは人を殺したくないんですよ。どんな理由があっても。そして僕もカーミラには人を殺してほしくない」


「ふむ……」


 アレクシアがロビンの言葉に、少しだけ考え事をし始める。これは本当にそれでいいのか考えている顔だ、とロビンはアレクシアをじっくりと観察して彼女の心中を推し量る。


「……本当に必要になったときは、僕が殺します」


 衝動的にその言葉を言ってしまってから、身体がぶるりと震えた。ロビンだって人を殺したことなんて無い。人間が人間を殺す。そこには大きなタガがある。今、ロビンはそのタガを外す、と、そう宣言したのだ。いや、してしまったのだ。


「駄目よ! ロビンが人殺しなんて駄目!」


 カーミラが慌てた様子で反論する。しかしもう言ってしまった。この鬼教官はカーミラの言葉なんて一顧だにせず、ニヤリと頬を釣り上げた。


「そうか、ウィンチェスター。貴様はまだ童貞だったな」


「だから駄目だって言ってるでしょ!」


 カーミラがアレクシアに食って掛かる。人が人を殺す。そんな胸糞悪いことにロビンを関わらせたくない。その一心であった。


「黙れ。ジギルヴィッツ。これから我々は帝都へ侵入するのだ。任務を忘れたか? 我々は間諜だ。見つかったら、口封じをせねばならん。貴様にそれができるか?」


 アレクシアが鋭い目でカーミラを見る。ビクリとカーミラが身体を震わせて目をそらす。


「不殺。言うだけなら立派だ。貴様のその貴き有り様を否定なぞせん。だがそうもいかない時がくる。その時に貴様は動けるか?」


 白銀の少女が押し黙る。ロビンは知っていた。この少女は吸血鬼という存在でありながらも、どこまでも清らかで、どこまでも人間らしい。その少女が人を殺す場面なんて見たくはない。でも、これからそうせざるを得ない時がきっとくる。アレクシアの言うとおりだ。


 ならどうすれば良い? 僕がやればいい。


「次、山賊が襲ってきたら、僕がやります」


「ロビン!」


 カーミラが悲鳴じみた声を上げる。でも、だめだ。カーミラを守るために、清らかなままでいさせるために、誰かが手を血で汚さなければならない。


「分かった。では次に山賊がやってきたら、ウィンチェスターが対処しなさい。皆殺しだ。……という間にやってきたぞ。そら、行け」


 残忍な笑みを浮かべて、顎で大きな岩の方をしゃくる。そこに山賊がいるのだ、と、そう言っている。ロビンに殺してこい、と、そう命じているのだ。


「ロビン! 駄目!」


 カーミラがロビンにすがりつく。でも駄目なんだ。ロビンは自身の両腕をギュッと握るカーミラの手を優しく振りほどく。


 先程の山賊の残党だろう。意趣返しということだろうか。奇襲でもかければ、魔術師相手でもなんとかなると思い込んでしまったらしい。馬鹿な奴らだ。人数にして五名程度。その他は恐れをなして逃げてしまったようだ。


 三人の様子にを見て、山賊らが奇襲に失敗したことを悟って岩陰から姿を表す。


「ウィンチェスター。全身を強化しろ。そして、奴らを打擲するのだ」


 ロビンは言われた通りに、全身の筋肉を強化する。心臓が早鐘を打つ。ドクン、ドクンと耳障りで仕方がない。山賊が動く。ボロボロの剣を振りかぶってこちらに向かってくる。死兵。相打ち覚悟。いや、もしかしたら破れかぶれになっているだけかもしれない。


「ロビン!」


 ロビンが地面を蹴って跳躍する。狙うのは、一番前の男。腕を振りかぶり、右頬に向けて拳を叩きつける。


 それだけ。たったそれだけだった。


 男の頭蓋が砕け、血と脳漿が飛び散る。顔にパッと華が咲いたように紅が散らされた。返り血だ。また、男の灰色の脳味噌も混じっている。


「ロビン!」


 カーミラの声が遠くに聞こえる。今僕は何をした? 人を殺した。アレクシアの愉快そうな笑い声がやけに大きく聞こえる。やっぱり、あの女は鬼教官だ。ロビンは心の中で悪態をついた。それは、心を守る防衛本能だったのだろうか、現実逃避だったのだろうか。それは誰にも、ロビンにすらわからなかった。


 一人殺されたのを皮切りに、パニックを起こした山賊らがまさに破れかぶれにロビンを切り刻もうとしてくる。だが、その刃はロビンの肉を傷つけるには至らない。強化された筋肉は鋼のように硬い。


 それからはタガが外れたようだった。ロビンは山賊共を次々と殺していく。二人目。腹をぶん殴る。それだけで(はらわた)を撒き散らしながら死んでいく。三人目、顎に向かって蹴りを入れる。文字通り首が飛ぶ。四人目。袈裟懸けに手刀を振り下ろす。身体が斜めに真っ二つになる。そして最後。横っ腹を薙ぐように蹴る。上半分と下半分の人間の出来上がりだ。


 返り血で真っ赤になったロビンは、そこまで無茶な運動をしていないにも関わらず、肩で息をしていた。


「ロビン!」


 カーミラが何度目かわからない叫び声を上げる。


「いいぞ! ウィンチェスター。どうだ? 初めて人を殺した感想は!」


 黙れ、スパルタ教師、とは声に出せなかった。自分が成し遂げた目の前の惨状を見て、理解して、胃の中の物が逆流する。朝食べた物が、口からどんどん出てくる。気持ち悪い。半分消化されたそれらを吐き終わると、次は胃液が次から次へと口から出てくる。空っぽになった胃が気持ち悪い。


 カーミラがロビンに駆け寄り、背中をさする。その後で、アレクシアをキッと睨みつける。


「あんた! 最低よ! 今あんたが、ロビンに何をさせたか分かってるの?」


「人を殺させた。それだけだ」


「それだけって……!」


「ここは、無国家地帯。それを罪に問う国家もいない、司法もない。そしてそいつらは散々これまで人を殺してきた。殺されても文句は言えん」


 アレクシアが死体をちらりと見遣って、それらが殺されるに値する人間であったのだ、とのたまう。


「だからって!」


「黙れ。ジギルヴィッツ。これは必要なことだ。今、この場で、ウィンチェスターに経験させずに、いつする。それに、貴様らは魔獣を殺している。野獣を殺している。人間と何が違う?」


 アレクシアの物静かだが、一方で激しい物言いに、その正論に、カーミラが押し黙る。


「カーミラ……。ありがとう。もう大丈夫」


「ロビン……」


「ロドリゲス先生の言うとおりだよ。君の手を汚したくないなら、僕の手を汚すしかない」


 胃液で汚れた口元を拭って、ロビンがカーミラを見る。


「そんなこと、私は望んでない!」


「望もうが、望むまいが、その時は来るんだ! カーミラ! ……だから僕は、慣れなくちゃいけないんだよ。きっとこれから戦争になる。ロドリゲス先生が、こないだ言ってたろ? 多分大戦争だ。誰が戦争に行く? きっと僕らだ。君もだ。あのエライザ王女に目をつけられた時点で、もうその未来は揺るがないんだよ」


 カーミラがポロポロと涙をこぼす。自分のために、友人が、いや大好きな人が、人を殺めた。その事実がずっしりと彼女の心にのしかかった。感情の奔流は止まらない。


「だからって……だからって……」


「いいんだよ。カーミラ。いつか僕はこうなると思ってた。こうする必要があると思ってた。君は綺麗に生きてほしい。君の拳に、君の剣に、僕はなるんだよ」


 カーミラが泣き、ロビンがそれを慰める。その様子をアレクシアがじっと見つめている。そう、これは必要なことだ。彼女はそう確信している。いや、予感めいたものを感じているのもあった。何となく嫌な予感。それが何なのかは知らない。だが、今この瞬間に、ロビンの精神を成熟した戦士にしなければならない、その義務感がどこからか生まれていた。


 数分ほど経ち、カーミラの涙も止まった。目は真っ赤にしているし、時折しゃくりあげているが、涙は止まった。


「さて、どんな気分だ? ウィンチェスター」


「最悪です」


 その言葉に、アレクシアがニヤリと嗤う。


「私も初めて人間を殺した時は、同じ感想を抱いたものだ」


 懐かしい、と遠い目をしながら笑みを深くする。


「さぁ、泣いている暇はない。行くぞ」


 アレクシアが号令をかける。三人に立ち止まっている暇はない。

ロビン、おめでとう、童貞卒業。

はい。童貞と言っても、人殺しを経験した、という意味の童貞です。

本当の童貞も早く捨てられるといいですね。自身の運命から奥手にならざるを得ないカーミラと、朴念仁のロビン。勿論、押しの強いアリッサもいますが、この世界の女性たちは皆、婚前交渉というものに当然否定的です。

ロビンの童貞卒業は一体いつになるのやら。いや、いつになっても卒業できなさそうですね。


アレクシアがなんとも鬼教官でサイコパスっぽい言動をしていますが、一重にロビンを鍛えたい、その一心です。悪意なんて全くありません。必要だからやる。必要じゃなければやらない。彼女はそんな人間です。え? よりサイコパスっぽい? うん。それがアレクシアなんです。仕方ないね。


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