第十三話:アレクシアとの最終訓練
次の日、授業を終えたロビンを、アレクシアがいつもどおり引っ張り出す。文字通り引っ張り出している。腕を掴み、ずるずるとロビンを引きずっているのだった。その様子をすれ違う学生たちが心底不思議な物を目にした、という表情で見送る。
学院の前庭にやってきた二人は向かい合って立つ。
「さて、今日の訓練は、いつもとは趣向を変える」
「趣向ですか?」
「あぁ、まずは感覚を掴ませるために、私が貴君のマナを操作して、完全な筋力強化の状態まで持っていく。いままで筋力強化の訓練を続けてきた貴君だ。感覚をつかめばすぐなのではないかと想像している」
「はぁ」
「では、全身にマナを張り巡らせろ」
アレクシアの訓練開始の合図に、いつもどおり、ロビンはマナを全身に張り巡らせる。もう何百回もやった工程である。慣れたものだ。数秒とかからずに、全身にマナを張り巡らせた。
アレクシアがロビンの、できましたけど、という顔を見遣って、身体を撫で回す。
「随分上達したものだ」
「ありがとうございます」
アレクシアは、撫で回していた手を、今度はロビンの頭の両脇に添える。はたから見ると頭を両手で掴んでいるように見えるだろう。だが、その手は添えているだけで、微塵も力を感じさせない。
「では行くぞ」
アレクシアによって自身のマナが強制的に変化させられる感覚に、ロビンは少しばかり目眩を起こす。最初の授業の時にも同じことをやられたが、今回はその時以上の不快な感覚であった。うねうねと変化していくマナを感じる。そして、それが自身の目、鼻、口、耳に浸透していく工程を、ロビンは確りと感じていた。
目が熱い。目だけではない。耳も、鼻も、口もだ。そしてそれ以上に、入ってくる情報量に脳が拒否反応を示し始める。
自分の頭から手を離すアレクシアの動きが酷くゆっくりに見える。普段は見えなかった遠くの景色がやけにはっきりくっきりと見える。
普段は気にもとめていなかった、鳥のさえずり、風によって草がこすれる音、遠くから聞こえる学生たちの声、全てが鮮明な音像を持って聞こえる。
泥臭い土の香りが鼻につく。草の青臭い香りが鼻腔を刺激する。決して臭いと感じたことがない、アレクシアの体臭が嫌にはっきりと感じられる。アレクシアも女性だ。女性らしいほのかな芳しい香りと、今日一日授業を執り行った彼女の汗の香り。
空気の味を感じる。空気に味など無いと思っていた。草が発する味。土が発する味。どこからか流れてくる――多分アリッサだろうが――魔法薬が気化した味。
その人間にとっては多すぎる情報量に、自然と吐き気が催される。
「ふむ、成功だな」
アレクシアの言葉が酷くゆっくりと鮮明に聞こえた。
「こ、これ、つ、辛いです」
「当たり前だ。人間が処理できる情報量を遥かに超えている。一時間もその状態を保っていれば、精神が壊れる」
アレクシアの言葉に、ひぃ、っと情けない叫び声が上がり、思わず強化状態を解いてしまった。強化を解いた瞬間に先程から感じていた吐き気が我慢できない程になる。ロビンは、胃液が逆流する予兆を感じ、下を向いて嘔吐した。
「感覚はつかめたか?」
胃液で汚れた口をローブで拭うロビンにアレクシアが問いかける。
「げほっ、ごほっ、た、多分つかめました」
「では今度は自分でやってみろ。今の貴君であればできるはずだ」
あの感覚は、二度と御免こうむるところではあるが、この鬼教官はそれを許してくれないだろう。
ロビンは、はい、とだけ返事をして、マナを身体中に張り巡らせる。
マナをどの方向に変化さえればよいのかは、さっきわかった。今までの過酷な訓練によって、マナの変化というものに対するロビンの理解は深いものとなっていた。
マナを変化させる。目の細胞。耳の細胞。鼻の細胞。口の細胞。それらを知覚し、そして馴染むようにマナをゆっくりと変化させていく。
マナが目に馴染む。耳に馴染む。鼻に馴染む。耳に馴染む。
アレクシアが再度、ロビンの頭の両脇に手を添える。
「素晴らしい。成功だ」
ロビンは、先程と同様の多すぎる情報量に、ただただ頭を混乱させることしかできなかった。
「解いていいぞ」
アレクシアの言葉に、感覚器官の強化を解く。先程よりも強化していた時間が短かったおかげか、今度は胃の中のものを盛大に吐き出す状態にはならなかった。しかし、吐き気は依然として残っている。
「こ、これ。やばいです」
「あぁ、私も滅多に使わない。多すぎる情報はただ混乱を招くのみだ。今は訓練なのですべての感覚器官を強化したが、実戦では、よくて目だけにしておくことだ。また、耳の強化も時に役に立つ。建物の外から聞き耳を立てる、とかそういった場合だ。鼻と口の強化は私にも有用な使い方が思いつかない」
「わ、わかりました」
「では、目だけに絞って強化をしてみろ」
ロビンは、再度マナを全身に張り巡らせると、今度は目だけに絞ってマナを馴染ませる。マナを変化させ、目の細胞一つ一つに浸透させていくイメージである。
「できました」
全部の感覚器官を強化したときと比べて、遥かに負荷が少ない。周囲のものの動きがゆっくりと見える。さらに、普段は見えなかった遠くの景色が鮮明に映る。
「うむ、では解きなさい。次は耳だ」
ロビンは目の強化を解いて、また同じように耳を強化する。
遠くにいるはずの学生たちの話し声が煩わしい。風の音がまるで雑音のように頭の中に鳴り響く。目の強化よりもこっちのが負荷が高いな、とロビンはぼうっと考えた。
「できました」
「よろしい。では解け」
言われたとおり、耳の強化を解く。
「次は臓器の強化だ。こちらは、感覚器官の強化よりも難しいが、恐らく今の貴君であればきっかけさえ与えればすぐにできるだろう。それだけの鍛錬をさせてきたつもりだ」
そんな言葉に、否が応でも今までの彼女との特訓が脳裏によぎって、少しばかりうんざりした気持ちになる。勿論表情には出さない。この鬼教官の機嫌を損ねると、訓練が二倍にも三倍にもきつくなることをロビンは今までの経験から知っているのだ。
「マナを全身に広げろ」
マナを全身に行き渡らせる。アレクシアが身体を撫で回す。何百回と行われた工程だ。
「では、臓器を強制的に強化するぞ」
身体を撫で回していた手を離し、右手をロビンの腹部に添える。また先程と同様に自身のマナが強制的にうねうねと性質を変えていく感覚に、ロビンはクラクラとする。そして変化したマナが、身体の内側に浸透していくのがはっきりと感じることができた。
「どうだ?」
身体の内側が熱い。だがそれだけだ。もっと劇的な変化が起こることを覚悟していたロビンは、拍子抜けした。
「えっと、身体の内側が熱いです」
「そうだ。感じるのはその程度だろう。だが、貴君の内臓の働きは今、数十倍になっている。その状態でアルコールを飲めば、数秒後には分解されるだろう。毒物を飲んだ時は、絶対に使わないように。毒のまわりが早くなる。あと薬を飲んだ時も使うな。薬の効果時間が短くなるぞ」
「は、はぁ」
「では解きなさい」
言われたとおりに、強化を解く。
「次は自分でやってみろ」
ついさっきの感覚を思い出す。臓器にマナを馴染ませる。そのためにマナを変化させる。変化の方向性。
じわりじわり、と身体の内側にマナが馴染んでいくのがわかる。身体の内側が熱い。
「できました」
アレクシアが再度ロビンの腹に手を当てて、様子を窺う。
「成功しているな。素晴らしい」
目の前のこの女性が鬼のように苛烈な訓練を行う女性ではあっても、その実成功したらちゃんと褒めてくれることをロビンは知っている。初めて手放しで褒められたのは確か両腕の筋力強化をマスターしたときだ。あの時は、珍しくこの人褒めまくるなぁ、なんて思っていたが、珍しくもなんとも無いということが、あれから時を重ねるにつれてわかっていった。
彼女は、必要最低限のことしか口にしないだけなのだ。おべっかは使わない。意味のあることしか口にしない。なので、感心した時、それがロビンの今後のためになる時、そういった時は素直に褒めるし、褒めてもどうにもならない時は褒めない。
「では解きなさい」
言われたとおりに内臓の強化を解く。
「内臓の強化もあまり長時間使わないことだ。寿命を縮める」
「じゅ、寿命ですか?」
「臓器の中には、働く毎に徐々に壊れていき、一度壊れると二度と戻らないものがある。内臓の強化はそういった臓器にむりやりオーバーワークさせているようなものだ。負担となるのは当然だ」
じゃあ、なんで教えたんだよ、とロビンは少しばかり心の中で悪態をつく。当然表情には出さない。
「だが、例えば酒に酔っている時に敵が攻めてきたとしよう。内臓を強化してアルコールを分解すると、すぐに臨戦態勢をとれる」
「あぁ、なるほど」
確かにそんな使い方は便利だ。二日酔いにも効くのかな、とロビンはどうでもいいことを考えた。
「二日酔いにも効くぞ。寿命を縮めてもいいなら、使うと良い」
この女は人の心でも読めるのだろうか。ロビンは心の中で考えていたことを言い当てられてびっくりした。アレクシアはその驚いた表情を見逃さなかった。
「誰しもが考えることだ。別に貴君の心を読んだわけでも、表情を読んだわけでもない」
呆れたような声色で、アレクシアが言う。
「さて、筋力強化について、私から貴君に教えられることはもう無い。貴君は全身の筋力強化を会得した。感覚器官の強化、臓器の強化も会得した。残るは脳の強化なのだが、これは私も使えた試しがない。というよりも、現存する人類で、脳の強化まで成し得た人間など聞いたことがない。数百年前であれば別だがな。脳は複雑怪奇な作りになっており、未だその全貌は解明されていない。脳の強化ができないというのは当然だろう。
さて、今日を以って私の訓練はお終いだ。以降は自身で鍛錬していくことだな。強化までの速さ、強化を維持できる時間、強化につぎ込むマナのコントロール。それらは日々の鍛錬によって培われる。決して鍛錬を怠るな」
「は、はい」
この鬼教官との訓練もこれで終わりである。なんだか辛かった思い出しか無いが、それでも終わりを迎えた、となると寂しい気もしてくる。
「以前、白兵戦の場合は相手よりも少しばかり頑強な肉体を作れと言ったことを覚えているか?」
あぁ、確かそんなことを言っていたような気もする。ロビンは記憶をさかのぼっていく。あぁ、課外授業のときだ。
「帝国では筋力強化は魔術師にとって当たり前の技術だ。才能のあるものは確かに少ないが、その必要性を感じたものは少なくない。多くの者が数年かけて訓練し、習得する」
「そんなことも言っていましたね」
「筋力強化の使い手と相対する時は気をつけろ。相手を化け物と同じだと認識しろ」
「えっと、つまり?」
「短期決戦が基本だ。勿論、相手の方が優れた筋力強化の使い手であれば死ぬのはこちらだがな。そもそも長期戦になりえない。相手もこちらを筋力強化の使い手だと認識した瞬間に、全力を持ってこちらを滅ぼそうとしてくる」
生々しい戦いを語り始めるアレクシアに、ロビンはゴクリと生唾を飲んだ。
「筋力強化の使い手は、相手が筋力強化を使えるかどうかをすぐに見分けることができる。貴君にもわかるだろう。相手の全身を覆うマナ、その存在が。それは、筋力強化を習得する際にマナによる知覚能力が付随するからだ」
「はい」
「もし相手が自分よりも優れた筋力強化の使い手だと分かったなら、逃げろ。どうあがいても負けるのは貴君だ」
「わかりました」
なんだか、アレクシアが遺言を言っているように聞こえて、ロビンはそんな縁起でもない考えを拭い去る。彼女は優秀な筋力強化の使い手だ。そうそう死に瀕する場面など想像できない。だが、それでもなんだか不安になってしまう。
「……特に、帝国の騎士団長。奴には気をつけることだ」
「騎士団長ですか?」
「あぁ、私も噂でしか聞いたことはない。寝ている間も含めて一週間筋力強化を維持する化け物がいると話したことがあったな。奴がそうだ」
一週間筋力強化を維持できるということは、それだけのマナを保有しているということである。強化に全振りしたら、どれほどまでの戦闘力となるのだろうか。想像もつかない高みの領域に、ロビンは頭がフラフラとしてくるのを感じた。
そんなロビンの表情をみて、アレクシアが僅かに微笑む。
「まぁ、そんな化け物とやり合うことは恐らく無い。帝国の騎士団長は多忙だ。相まみえることなどないだろうよ」
「そうあって欲しいですね」
「気にするだけ無駄だ。私から話しておいてなんだが、気にするな」
「わ、わかりました」
そこまで言って、アレクシアが踵を返す。学院の方にゆっくりと数歩歩き、ロビンの方を振り向く。
「今日の訓練はこれで終わりだ。さっきも言ったが、これからは自身で鍛錬に励むように。貴君がどれほどの使い手になるのか、期待している」
そう言い放って、彼女は学院へ戻っていった。まだ夕日が差すには早い時間だ。今日の訓練は楽だったなぁ、とロビンはホッとする。嘔吐はしたが、体力もマナもまだまだ残っている。
「僕も帰るか」
そうひとりごち、ロビンは学院へと歩き始めた。
最後の特訓回です。
アレクシアは内心、優秀な弟子に舌を巻き、誇らしい気持ちで一杯です。決して表情に出すことはありませんが。
彼女も、これまでの経験から苛烈な性格になってしまっただけで、それがなければ、本当は普通の女性として生きていく人間でした。
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