プロローグ
新学期から魔獣と魔法生物の講義を担当することになったアレクシア・ロドリゲスは珍しく焦っていた。普段は能面を貼り付けたような顔で、誰からも――尤も、ロビンだけは例外なのだが――その内心を推し量ることはできない彼女だが、今回ばかりは違っていた。
夏休みが明け、新学期が始まってから二日目、彼女は一刻も早く報告すべき内容をすっかり忘れてしまっていたのだ。しかし、それを責めることができる人間がどこにいるだろうか。その直後にロビンからの手紙を読み、「カーミラ誘拐」の一報を受け、王宮を慌てて飛び出したのだから。
学院長室の前に着くと、乱暴に数回ノックをする。そのノックの乱暴さはさながら彼女の焦燥を表しているようでもあった。
「入りなさい」
ハワードの優しげな声が聞こえると、アレクシアは扉をバタンと音を立てて開け、足早に学院長室の最奥、つまりハワードの机の前に向かった。
「来ると思っていたよ。ロドリゲス先生」
ハワードが、黒曜石のような瞳に悲しみを湛えながら、アレクシアを見つめる。
「た、大変申し訳ございません。報告するのをすっかり失念していました」
「いや、無理もない。直後にあんなことがあったのだから」
あんなこと、とは「カーミラ誘拐事件」のことである。夏休みの最後、カーミラはヴァンピール教と名乗るカルト集団によって洗脳され、連れ去られてしまった。その事件解決の功労者こそが彼女、アレクシア・ロドリゲスだった。
「王宮から、ついさっき手紙が届いた」
アレクシアは神妙な顔でゆっくりと頷く。
「君の立場上、秘密が漏れてしまったことはもう仕方ない。そのことを責めるつもりもないし、忘れてしまったことも責めるつもりもない」
「いえ、報告を失念したことは私の落ち度です。大変申し訳ございませんでした」
「いや、いい」
ハワードは椅子からゆっくりと立ち上がり、窓の外を眺めた。
「何故、彼女はこうも過酷な運命に立ち向かうことを強制されてしまうのだろうね」
深い悲しみに彩られた声が、アレクシアの耳朶を打つ。アレクシアもハワードほどではないが、彼と同じ気持ちだった。
意図せず、吸血鬼にされてしまった公爵家の少女。カーミラ・ジギルヴィッツ。彼女を吸血鬼としたのはヴァンピール教であったが、それをもとの人間に戻す方法はまだ見つかっていない。いや、見つからないだろう、とハワードはそう考えていた。
人間と人間に近しいそれ以外の生物――例えば亜人などの存在だが――は姿形は似ている。しかしそこには決定的な違いがあった。人間よりも亜人らは純粋なマナに近い存在である。生態学上、後天的にマナを操る力を得た人間と、もとよりマナを扱う術を持っていた亜人。後者の方が魂の格が高いのである。
一度上げた魂の格を下げることは非常に難しい。例えば、人参やじゃがいも、ソーセージや玉ねぎ、それらを使ってポトフを作るとしよう。素材の皮を剥き、食べやすい大きさに切って、そして煮込む。さぁ、召し上がれと出されたそれを、元の素材である人参やじゃがいも、ソーセージや玉ねぎに戻すことはできるだろうか。
もう一つ例を出そう。ある貧乏な平民の家族に、突然大量の金貨を渡そう。それこそ人間の一生では使い切れないほどの金貨だ。恐らく平民の家族は、その余りある幸福に贅沢の限りを尽くすだろう。一年経ち、二年経ち、十年経って、それからその金貨を根こそぎ取り上げてしまう。彼らは今までの贅沢な生活から元の貧乏な生活に戻ることはできるだろうか。
できない。そう、できないのだ。
吸血鬼という存在は、人間と比較して魂の格が高い。人間の魂をいじくり回して格を上げることは容易だが、より上位のそれに変異させてしまった魂を元の状態に戻すことは不可能に近い。魂の不可逆的な変化。仮に元に戻そうというのであれば、机上の空論では在るが魂を一度ばらばらに分解しなければならない。しかし、魂を分解する真っ当な方法――真っ当ではない方法ならいくらでもあるのだが――など存在しないし、もし分解できたとしても、それを再構築することができるとは限らないのだ。真っ当ではない方法で魂を分解する、それはすなわちカーミラを殺す。そういうことになる。
ハワードはぼうっと窓の外を見ながら、カーミラのこれからに思いを馳せていたが、それが詮無きことに気づき、やめる。振り返ってアレクシアを見つめた。
「ジギルヴィッツとウィンチェスターを呼んできてもらえるかな?」
女の勘というものは、時に男性には理解し難いほどの直感力を発揮する。例えば男性の浮気を見抜く目だが、勿論それだけにとどまらず、女性の直感というものは様々なことを看破するものである。それは人類発生以来、女性がコミュニティに属することで自身の立ち位置を確保しようとしてきた本能に所以する。
歴史学の担当教師であるロニー・ラドクの授業を右から左に受け流しながら、アリッサは、ロビンとカーミラを眺めていた。傍目にはいつもどおりに見える。だが、彼女は二人の関係性にそこはかとない違和感を感じ始めていた。
まず距離感。ロビンの方はそうでもないのだが、カーミラがやけにロビンに近づく。ただ、普通の男性では気づかないだろう、気づけないだろう。近づくとは言っても、いつもは左足を上にして足を組んでいるのを、ただ右足を上にして足を組んでいるだけなのだから。
ただの勘違い? アリッサはうーんと考える。そもそも、あの二人は身分違い過ぎて恋愛とかそういう方向に行きそうにない。それは誰もがそう考えていることだった。勿論、アリッサとロビンに関しても身分違いではあるのだが、そこに関しては置いておいた。
アリッサは、ロビンと初めて出会った時を思い出す。今はもうすっかり朽ち果てかけているが、アリッサにとって大切な思い出だ。
ウィンチェスター子爵とホワイト侯爵は、身分こそ違えど仲の良い友人同士であった。なんでも学院時代に何度も喧嘩して、何度も言い争って、肉体言語で語り合いながらお互いを認めあったのだという。領地が近いこともあって、二人の因縁は魔術学院に入学した時から始まっていた、とアリッサの父親は彼女に語っていた。そういう男の子特有の友情の深め方に関してはアリッサは子供心ながら、全然理解できない、という結論に至っていたものだ。
そんな二人の関係性であるからして、当然、両家の交流は家族ぐるみのものとなっていた。アリッサが生まれたときには、ウィンチェスター子爵が彼女の実家に駆けつけたというエピソードもあるほどだ。
アリッサが五歳の時だった。いつものように――とは言っても、領地を往復するのには金も時間もかかるためそれほど頻繁ではなかったのだが――アリッサは、ホワイト侯爵に連れられて、ウィンチェスター子爵の邸宅に遊びに来ていた。二人はアリッサを尻目になにやら小難し話をし始めた。時折笑い声が起き、二人の仲の良さを物語っている。大人には大人の話がある。大人の話はよくわからないからつまらない。そう思って、二人が難しい話をしながら談笑しているのを見計らい、こっそりと部屋を抜け出し、ウィンチェスター子爵の邸宅を探検することにした。
ウィンチェスター子爵には、四人の子供がいる、と聞いていた。だが、上の三人の子どもたちとは会ったことがあるが、末弟とは未だ会ったことがない。そこには、ロビンが妾の子であるという出自が大いに関係しているのだが、子供にはそんなことわからなかった。
上の三人の子供らは、アリッサと一緒に遊ぶには歳が上すぎた。一番上の長男が十四歳。もうすぐ魔術学院に入学できるのだと、自慢げに話していた。次男が十二歳、特に印象に残っていない。普通の少年だ。三男が十歳。五歳のアリッサを見つけると、小突き回して遊ぶため、その小太りな三男のことがアリッサは嫌いだった。四男だけ会ったことがない。普通、貴族が別の貴族の邸宅にお呼ばれした時は、子供同士を紹介し合うものだが、何故か四男だけが紹介されていなかった。子供心に不思議に思ったものだ。
アリッサは決めた。今日の探検の目標はまだ見ぬ四男と出会うことだ。そう心に決めて、子爵家にしては大きめな屋敷を探索していく。食堂を覗く。こんなところにいるわけないか。厨房を覗く。使用人たちがわっせわっせと夕食の準備をしていた。ここにもいるはずがない。ウィンチェスター子爵の書斎は鍵がかかっていて入れなかった。鍵がかかっているのだからここにもいるはずがない。
途中で三男にエンカウントして、いつものように小突き回されそうになったところを、全力疾走で逃げる。やっぱりあの子は嫌いだ。なんで私を見つけるといつも小突き回してくるのだろう。アリッサは憤慨した。別に痛いわけではない。ちゃんと手加減して小突き回してくる。だからこそ鬱陶しいのだ。アリッサにはわからない。それが好きな娘をいじめてしまうという、少年特有の心理だということに。
アリッサは五歳にしては発育が良かった。身長も七歳ぐらいの子供と同じぐらいだったし、顔貌も五歳の幼いものではなかった。幼児の顔ではなく、少女の顔。そばかすがちょっとだけ玉に瑕だが、それでも整っているアリッサの容姿に、十歳の少年が淡い恋心を抱くのは不思議では無かった。
兎にも角にも、追っかけてくる三男から逃げる。アリッサの足は速い。かけっこには自信があった。当然、ちょっとだけ太り気味のあいつに負ける気はしない。曲がり角をインコースで攻めて、後ろを確認し、奴がまだアリッサの姿を目視できる状況にないことを確認してから、手近な部屋に逃げ込む。はぁはぁ、と肩で息をしながら、胸をなでおろすと、その部屋が蔵書室であることに気づいた。
「うわぁ」
ホワイト侯爵は読書家ではないため、ここまで沢山に並べられた本をアリッサは見たことがなかった。沢山の本棚が所狭しと並び、そして埃とインクの香りがアリッサの鼻を刺激した。
ここなら隠れられそう。アリッサはそう思い、蔵書室をくまなく見て回る。
そうして出会った。そこには、アリッサと同い年くらいの――実際に同い年であるのだが――少年が床に座ってひたすらに本を読んでいた。顔立ちは平々凡々としている。だが、その目が気になった。何もかもを諦めたような目。そんな目をしながら、真剣に本を読んでいるその姿を見て、アリッサはなんだか不思議な気持ちになった。
「ねぇ」
アリッサが少年に声を掛ける。彼は鬱陶しげな表情を浮かべて本から目を離しアリッサの方を見つめた。
「君、誰? 僕本を読むのに忙しいんだけど」
「わ、私はアリッサ・ホワイトよ! ホワイト侯爵家の長女! 子爵家のあなたよりも身分が上なんだから敬いなさい!」
不快そうな目で見られたアリッサが取った行動は虚勢だった。アリッサにこんな目を向けてくる子供はいなかった。なんでこんな目で見られるんだろう。アリッサは不思議に思いながらも、強気に少年に叫んだ。
「僕は、ロビン。ウィンチェスター子爵の四男ってことになってる。まぁそんな身分とか、爵位とかどうでもいいんだけど」
「どうでもいいの? 貴族なのに?」
ロビンは一つため息を着くと、また本に目を落とした。策を弄しても、この少女がこの部屋から出ていかないことをなんとなく悟った彼は、本を読みながら片手間でアリッサの相手をすることに決めたようだ。
「僕のお母さんはここの使用人なんだ。だから僕は本当は貴族じゃない。君と会ったことが無いのもそういうことだよ」
「なにそれ、よくわかんない」
幼いアリッサには、何を言っているのかわからなかった。だって貴族は貴族と結婚して子供をつくるものでしょ? アリッサは首を傾げた。
「ねぇ、なんの本読んでるの?」
「この国の歴史の本」
ロビンは本をアリッサに見えるように広げる。アリッサはまだ文字が半分ぐらいしか読めなかった。当然なんて書いてあるのかわからない。わからない単語が多すぎる。
「こんな難しい本読んでるんだ、凄いね。頭良いんだね」
手放しに褒めるアリッサにロビンはちょっとだけ気を良くした。
「面白いよ。この国がなんでこんな風になってるのかよく分かる。あのさ、知識や知恵は力なんだ。ボンクラだと思われていたら、いつまでたっても『こいつは役に立たない』って思われちゃう。兄さん達よりも目立たないように、そして兄さん達に嫌われないで、『こいつは使えるな』って思わせるのには、非常に役に立つ力なんだよ」
「うーん、よくわからない」
ロビンが何を言っているのかはアリッサにはわからなかった。でも、この少年が自分とは違う価値観を持ち、それに従って生きているのだということは、なんとなく分かった。
「ねぇ、私、貴方のこと気に入ったわ」
「え? なにが?」
アリッサは直感的に、この少年の行く先を眺めていたい、そう思った。今思えば初恋に近いのかもしれない。子供にとっての恋心、それは性欲などが絡まない、他者、特に異性への興味そのものなのである。
「なんでもなーい。ねぇねぇ、この本の話、教えてよ」
「えぇ、なんでさ。面倒くさいなぁ」
ロビンは面倒くさいと言いながらも、この初対面の少女に自分が今何を勉強しているのか。面白みがどこにあるのかを詳しく話して聞かせた。アリッサは熱心に聞いたが、正直話の半分もわからなかった。でもそれでいいのだ。少年と仲良くなりたい。もっと知りたい。アリッサは確かに、この時この少年に恋をした。変人で、歪んでて、でもそこが愛おしく、美しい。それが恋心だと自身が認識するのにはそれから数年の年月が必要であったが。
数年後、アリッサはロビンの婚約者を自称するようになった。ロビンのことが大好きだ、ということも勿論あった。だがそれ以上に、大好きなこの少年がそうでもしないと、いつのまにかどこかに消えていなくなってしまうのではないかと感じたからだ。
アリッサは、ロビンとカーミラを見る。心に棘が刺さったみたいにチクチクする。ロビンのことは大好きだ。じゃなければ、婚約者を自称したりなんかしない。父親も数年かけて説得し、最終的には「将来はロビンと結婚するから」と宣言し、なし崩し的に認めさせた。
カーミラのことも大好きだ。小ちゃくて、可愛くて、それでいて常に凛としてて、そのアンバランスさがアリッサを惹きつけてやまない。私が男だったら絶対に恋しちゃってただろうな、とアリッサは考える。
大好きなものの片方しか選べない、そんな時人間はどうするだろうか。そんな時人間はどう考えるだろうか。その答えは人間の数だけ、いやもしかしたらそれ以上に存在し、星の数よりも無限大である。アリッサには自分がどうしたいのか、まだわからなかった。
第三部の始まりです。
アレクシアが秘密をお漏らししちゃいました。
王宮の様子が気にはなりますが、学院スタートです。
読んでくださった方、ブックマークと評価、よければご感想等をお願いします。
励みになります。
既にブックマークや評価してくださっている方。ありがとうございます。




