表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

38/104

第十六話:アレクシアの帰還

 爪で切り裂かれなかったのは幸いだった。吸血鬼の鋭い爪で攻撃されていたら間違いなく致命傷であっただろう。正気を失った少女は、僥倖にも自身の強力な武器を有効利用するという考えには至っていないらしい。カーミラが光の無い瞳で、覇気のない顔で、こちらをじっと見つめる。ゆらりゆらりと揺らめきながら。


 殺されるわけにはいかない。きっとあの優しい少女は、ロビンを殺してしまった後、いつか正気に戻り,、死ぬほど後悔してしまうだろうから。両腕をクロスさせて身体の中心部を守る。まだ身体の中心を強化できていないロビンにとっては、この防御が唯一できる対抗手段だ。


 ゆらゆらしていたカーミラの動きが止まる。来る。ロビンは瞬きするのもやめ、彼女の攻撃を防ぎ、いなし、回避することに専念する。


 彼女が右足で地面を蹴り、跳躍する。鋭い爪を振りかざしてロビンを脳天から真っ二つにせんと振り下ろす。かつて見たアレクシアとカーミラの戦い、その時よりも遥かに精彩を欠いた攻撃を拳で受け止め、弾き返す。あの鬼教官ほどの達人であれば、固く結んだ拳は無傷ですんだのだろうが、ひよっこのロビンはその域には達していない。包丁で切った程度の傷が拳に刻まれ、少し時間をおいてジクジクと痛みだす。


「……っ!」


 ロビンは強化された両脚で、地下室を走り回る。止まっていたよりも、常に動き回っている方が狙いを付けづらい。隙を見つけてはシェリダンと老人のいる地下室の最奥に近づこうとするが、残念なことにそれはカーミラが許してはくれなかった。


 爪で切り裂かれそうになり、それを避ける。避けきったと思ったら、そのすぐ次の瞬間に蹴飛ばされる。先ほどと同様、ロビンはボールのように吹き飛ばされ壁に激突した。がはっ、と血が混じった吐息を吐き、床に倒れ伏す。もしもロビンが戦いの達人であれば、肋骨が折れてしまっていることに気づいただろう。幸いにも肺には刺さっていなかった。まだ戦える。ロビンは全身を襲う痛みを無視して、立ち上がった。


「素晴らしい、やはり吸血鬼の力は偉大ではないか。ほれ、あの坊主が今にも死にそうだぞ!」


 老人が狂喜の色をふんだんににじませた叫び声を上げる。その醜くしわがれた声が煩わしい。ロビンはズキズキと痛む左胸を右手で押さえ、眉をしかめる。


 治癒魔術を使っている暇はない。時間がかかりすぎる。相変わらずゆらゆらしているカーミラを見て、ロビンは歯噛みする。筋力強化は解けていない。あれ程の衝撃を以って蹴りつけられ、壁に激突したにも関わらず、マナは霧散していなかった。自身の成長を実感する。尤も今この状況で実感している場合ではないが。


 吸血鬼の少女がまた、跳躍し爪を横薙ぎに振るう。不味い、これは走っても回避できない。ロビンはとっさに前傾姿勢をとり、腕で頭を守る。両前腕に切り傷。だがこれでいい。この程度の攻撃では強化した両腕をバッサリと落とすことはできない。彼はアレクシアのスパルタぶりに初めて心の底から感謝した。


 しかし、このままではジリ貧だ。アレクシアがここにたどり着くまで、楽観的に考えて三十分。悲観的に考えて二時間。どうする。どうすればいい。とにかく、小手先でカーミラが攻撃できないようにする。ロビンはその作戦に至った。


「術式展開、キーコード、水煙!」


 杖を取り出し、術式を展開する。パン、という音とともに、部屋中に水蒸気が充満する。彼女の目はこれで潰した。こちらを探すのにも一苦労だろう。だが、彼の目論見は外れることとなる。


 カーミラが水蒸気の中から突如現れて、爪での一撃を繰り出す。あぁ、不味い。忘れていた。吸血鬼という存在は人間と比べて魔獣のそれにより近い。筋力強化の魔術を使い続けているロビンは、マナの流れからカーミラには丸見えだ。自分がカーミラを目で追えない分、状況が悪化した。爪による斬撃を既のところで躱し、壁際に移動する。


 ロビンが小さく舌打ちをして、自身の迂闊さを呪う。先程部屋の中に充満させたマナは、宝石とカーミラのラインを確認した後、すぐに霧散させてしまった。地下室は広い。広い空間にマナを充満させカーミラの居場所を特定することもできるが、充満させたマナを維持するのには大量のマナを必要とする。


 マナ切れ。この状況で一番回避すべき状況だ。マナが切れた瞬間、腕の脚の強化が切れ、カーミラの爪はいとも容易くロビンの身体を両断するだろう。


 兎にも角にも、彼女の攻撃を弾き、いなし、回避することに専念するしか無い。ロビンは覚悟を決めた。持久戦だ。


 霧で薄っすらとしか見えないが、老人とシェリダンがニヤニヤと笑いながらこちらを見ている。自分らの手を汚さず、現人神と崇めるカーミラに戦わせる。酷く歪んだ宗教観だ。吐き気がする。


 だからこそ、負けるわけにはいかない。アレクシアが来るまで耐えきるのだ。






 アレクシアは強化した脚で走っていた。学院とリシュフィリアの街と同様に、王都と街の間も街道でつながっている。アレクシアの脚は馬より速い。彼女がロビンにそう告げたのは嘘ではなかった。風のように走る。途中で荷馬車を引いた商人とすれ違ったが、彼には何が起こったのか全くわからなかっただろう。


 ロビンからの手紙を読んだアレクシアの行動は迅速だった。自分と契約している王女に、簡単に事情を説明し、街へ向かう許可を得る。その後すぐに自室に戻り、荷造りをすませ、王宮を出た。


 そこからは全力で走るのみだ。ロビンの手紙を読み、カーミラが拐かされたことはアレクシアには容易に想像がついた。


 公爵家というだけでも誘拐するのに十分な理由になる。しかし、カーミラはそれに加えて吸血鬼である。それもかなり強力な部類の。普通の吸血鬼は太陽の光に致命的な弱さを見せる。太陽の光を浴びた途端、肌が焼き爛れ、苦しみ、そして最後には灰になって死んでしまう。


 太陽の光を厭わない吸血鬼――デイライトウォーカーと呼ぶ――は、それ自体がその吸血鬼の位の高さを証明する。そんな公爵家の令嬢で吸血鬼を拐かす存在。アレクシアには心当たりがあった。


 ヴァンピール教。吸血鬼を信仰するカルト宗教だということはよく知っている。アレクシアは何を隠そう、ヴァンピール教と対峙したことがあった。正確にはヴァンピール教が手懐けた――正確には操っていると言ったほうがよいかもしれない――吸血鬼と戦ったことがあったからだ。その時に側に佇んでいた教団の信者は、情報を搾るだけ搾った後で殺した。今思えば人間相手に無茶をしたものだ。彼女はそれが必要であるなら、拷問という方法をとることも厭わない。だが、趣味ではない。自身の膂力で、正々堂々怪物を打ち据える、それが彼女が好む方法であり、細かいことや小手先の面倒臭いことは忌避する傾向にあった。


 アレクシアは走る。街まであと五分。走りながらロビンの顔を思い浮かべる。あの少年はきっと誰の制止も聞かず、カーミラを助けにいっていることだろう。


 カーミラの状況もロビンの状況もアレクシアに取っては死活問題だ。あの二人が死ぬと芋づる式に自分も死んでしまう。だが、アレクシアが急ぐ理由はそれだけではなかった。


 一度は敵対関係であった二人。だが、その二人は自分を受け入れてくれた。尤もカーミラに関してはまだ自分にわだかまりを持っているようだが、それでも普通の学院の一教師として接してくれた。


 アレクシアは自分でも気づかないうちに、彼らとの触れ合いに心地よいものを感じていた。


 そして、何より忘れかけていた幼い頃の大切な記憶を思い出させてくれた。


 彼らを殺させはしない。だからこそ、学院長に誓約の魔術書を使うことを提案したのだ。あの時、自分は死んでしまってもよいと考えていた。いや、いつ死んでも後悔はしなかっただろう。


 だが、ロビンとカーミラの関係性が荒んだ彼女の眼には酷く眩しく見えた。


 守る。彼女の辞書には無かった言葉だった。だが、彼女はそれを選んだ。


 ならば全力を以ってそれを実行するのみ。






 何度目になるだろうか。もう数十回はくだらないのではないか。カーミラの攻撃を拳で、腕で弾き返していた。


 まずい、マナがもうすぐ切れそうだ。持って後十分。ロビンはぎりと歯を食いしばり、カーミラを見遣る。


 そこで気づいた。彼女の血のように紅い瞳、その眦から涙が溢れていることを。


 泣きそうになった。叫んでしまいたくなった。彼女はあのよくわからない宝石に正気を奪われていても、それでも悲しいほどに人間であったのだ。


「カーミラ! 目を覚まして! 君はこんなこと望んでいないはずだ!」


「無駄だ。ジギルヴィッツ様はこの宝石によって完全に我らの傀儡となっている」


 シェリダンがロビンをあざ笑う。その顔にロビンは心の中で唾を吐く。


 カーミラが次の攻撃をロビンに繰り出そうとするその時、不意にコツコツと靴音が聞こえた。あぁ、待ちくたびれた。ようやく来てくれたのか。地下室へ続く階段から、苛烈、その一言がよく似合う長身の女性がゆっくりと現れる。


「ウィンチェスター。よく持ちこたえた」


「ロドリゲス…先生」


 アレクシアはロビンの身体を見遣る。腕と脚には細かい傷が無数に刻まれ、少なくない量の血が制服を濡らしている。


「いや、教師としてここは、『こんな危険なことをするなんて』と叱るべきだろうか」


 アレクシアが形の良い顎に手を添えて、首を傾げる。いや、ロドリゲス先生、今そんな状況じゃないです。ともすればのんきにさえ見える、彼女の仕草にロビンはすっかり安心してしまった。


「貴様、一体何者だ!」


 老人が唾を飛ばす勢いで、闖入者に向かって叫ぶ。


「アレクシア・ロドリゲス。学院の教師です」


 シェリダンが老人に女性の正体を告げる。


「ふむ。半分は正解だ。だがもう半分は違う」


 アレクシアはニヤリと笑う。


「私は王家直属の怪物処理人、アレクシア・ロドリゲスだ」


 アレクシアが、懐から見た覚えのある鎖を取り出し、カーミラに投げつける。あぁ、これ前も見たやつだ。ロビンはぼうっとその光景を眺める。既に腕の強化も脚の強化も解けてしまっていた。でももう大丈夫だ。ロビンは鬼教官の強さを誰よりも知っているのだ。


 鎖はうねうねと蛇のように這っていき、カーミラを拘束する。鎖に絡み取られたカーミラが人間とは思えない唸り声を上げた。


「怪物処理人が何故学院の教師などをやっている!?」


 老人が恐慌に薄くなった白髪を振り乱しながら叫ぶ。


「これから死ぬ者に対して説明が必要か?」


 怪物処理人には、様々な権限が与えられる。一つは箝口令を無視する権限。情報を持っている者は例外なく彼女に情報を提供しなければならない。次に理由があって閉鎖された区域への立ち入り。そして、怪物を処理する際に邪魔となる人間の排除。つまり、彼女は合法的に人を殺すことができる。勿論、王国内で人間を殺した場合は、それなりの理由が必要だが、そんなものはでっちあげれば済むことだ。


 アレクシアがここまでたどり着いた、来てくれた、それだけでこの事件は解決したも同然だ。ロビンは安心したからか、脚から力が抜け倒れ込みそうになる。アレクシアがそれを支え、優しく床に座らせる。


「ウィンチェスター、貴君の出番は終わりだ。もう一度言う。よく頑張った。師として貴君を誇りに思う」


 アレクシアはゆっくりとシェリダンに向かって歩を進める。


「それ以上近寄るな」


 シェリダンが杖を構えて、アレクシアに警告する。だがそれがなんなのだろう。全身にマナを纏ったアレクシアを傷つけることができる魔術等存在しない。怪物処理人は、怪物以上に怪物でなければ成り立たないのだ。


「無駄だ。貴様の生半可な魔術で私を傷つけることはできない」


 アレクシアの言葉を理解したのか、していないのか、シェリダンがめちゃくちゃに魔術を行使する。その全てがアレクシアに直撃し、しかしながら、それでもアレクシアは無傷で歩を進めていく。


「や、やめろ、くるな」


 シェリダンがニコリと笑うアレクシアに本能的に恐怖を抱き、杖を両手で握りしめる。握りしめた杖はぶるぶると震えており、彼が恐慌していることがありありと分かった。ロビンは敵ながら彼に少しだけ同情してしまった。あの鬼教官、基本的に手加減というものを知らないのである。


 アレクシアがシェリダンを打擲する。ボールのように床や壁を何度もバウンドし、最後にはごろごろと床を転がる。口からは少なくない量の血液を吐き出し、その一撃が並大抵の威力ではないことを物語っていた。あれは立ち上がるまでに相当時間がかかるな。ロビンは心のなかで合掌した。


「ふむ、予想はついていたが、イプノティズモスの紅玉か。よく手に入れたものだ」


 アレクシアが未だ立ち上がることさえままならないシェリダンの懐をゴソゴソと漁り、拳大の宝石を取り出す。手に持ったそれを、目を細めて眺めると、アレクシアは宝石を持つ手に力を込めた。宝石に見る間に罅が入り、そして数秒後には粉々に砕けた。


「さて、次は貴様だ」


 アレクシアが老人の方を向き、簡単に死ねると思うなよ、と告げる。しばらく前から恐怖で動けなかったのだろう老人が、ひっ、と息を飲む。ゆっくりと老人に歩み寄るアレクシアに、老人が震えながら後ずさる。


「ば、化け物」


「そうだ、貴様らの信仰する吸血鬼と同等、いやそれ以上の化け物だよ」


 嗤う。アレクシアが嗤う。老人の目前までたどり着いたアレクシアは老人の首に手をかけ、その枯れ木のような身体をもちあげる。老人が声にならない声を発し、足をバタバタとさせる。その動きは次第にゆっくりになり、やがて動かなくなった。股ぐらから、じょわぁと尿が滲み出てくる。失禁だ。


「こ、殺したんですか?」


「いや、殺してはいない。学院長から、殺すなと指示を受けている。気絶させただけだ」


 この女性はいつの間に学院長と連絡を取っていたのだろう。ロビンは不思議に思った。


「そんなことは今はどうでも良いだろう? ウィンチェスター」


 アレクシアがカーミラを見遣る。鎖は既に解け、カーミラが力なく横たわっていた。


「カーミラ」


 ロビンが、ふらつく身体をなんとか動かし、カーミラを抱き起こす。彼女はロビンの言葉にゆっくりと目を開く。


「ロビン?」


「大丈夫?」


 カーミラが自身を抱き起こしているロビンの全身を見る。致命傷にはなっていないものの、傷だらけだ。


「ろ、ロビン。ごめんなさい。あぁ、私。なんてことを」


 どうやら、正気を失っていた間の記憶もしっかりと残っているらしい。なんて厭らしい魔術具なんだ。ロビンは倒れ伏す二人を睨みつけ、そしてカーミラを見つめた。


「大丈夫。大丈夫だから」


「でも、でも……」


「悪いのはあいつら。それだけだよ。良かった。今回はちゃんと守れた、のかな?」


 ロドリゲス先生をただ待っていただけだけど、とは口にしなかった。


「ほら、約束したろ? 僕は死なないって。致命傷もなにもない。こんなのかすり傷だよ」


 ロビンはニッコリと笑った。

アレクシア最強説。もはやデウスエクスマキナっぽいですね。

脳筋強いです。何でも解決。強いな、さすが脳筋、強い。


ロビンも頑張りました。

ただ、カーミラが正気を失ってたからなんとか善戦できた感じです。

本気のカーミラの足元にもおよびません。

そういう事態には決してなりませんが。


読んでくださった方、ブックマークと評価、よければご感想等をお願いします。

励みになります。


既にブックマークや評価してくださっている方。ありがとうございます。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ