第十八話:君の眷属になりたい
アレクシアがゆっくりと一歩一歩カーミラの元へ歩んでゆく。ロビンはどこか他人事のようにそれを見ていた。
――あーあ。だから言ったでしょ? 早くしないと大切なものを失っちゃうよって。――
夢の中で聞いたような声が耳朶を打った。幼い少女のような声。覚えてないけど、聞き覚えがある。
――早く行ってあげて。彼女を助けられるのは君だけだよ。――
誰の声なのだろうか。でももうそんなことはどうでも良かった。
あの夜から、カーミラのいろんな表情を見てきた。悲しそうな顔。楽しそうな顔。嬉しそうな顔。落ち込んだ顔。どれも何物にも代えられない、大切な思い出だ。アレクシアの言葉によって金縛りにでもあったかのように動けなかった身体は、いつの間にか動けるようになっていた。
彼女の側にいたい。恋心ではなかった。義務感。それも違う。あぁ、僕はあのか細い少女を失いたくない。それだけだった。
アレクシアが後数歩でカーミラの元にたどり着く。幸いにも臨時講師はロビンを取るに足らない存在として意識すらしていないようだ。カーミラのところまで化け物じみた膂力を誇るあの女がたどり着いたら終わりだ。何となく、ロビンはそう予想した。
走る走る。ただひたすらに走る。間に合え、と。
アレクシアが右手を弓を引き絞るかのように背後へ振りかぶる。
「楽しむためには、多少の手加減が必要だと思わないか? カーミラ・ジギルヴィッツ」
カーミラは答えない。いや、答えられない。魔術を刻まれた鎖によって息もできないほどにきつく拘束されているからだ。
「これで終いだ。楽しい夜だったよ」
アレクシアが振りかぶった右腕を、アレクシアの心臓めがけて振り抜く。
走れ。ただひたすらに走れ。ロビンはただただ足を動かす。後数歩だ。
血飛沫が舞う。
「な……んで?」
カーミラが絞り出すように呟いた。カーミラのものではない血飛沫が花火のように散る。
「ウィンチェスター……。何故ここにいる」
呆然とアレクシアが呟く。腹をアレクシアの右手に貫かれながら、ロビンはニヤリと笑う。
「間に……合った」
最後に姉はなんと言っていただろうか。アレクシアは走馬灯のように脳裏によぎる光景をただ見ていた。あんなところで死ぬべき人じゃなかった。あんなところで、殺されるべき人じゃなかった。
始まりは小さな悲鳴だった。村の端で発せられたつんざくようなそれは、アレクシアを含む村人全てに異常事態が発生したことを否が応でも理解させた。
あの時、やってきた怪物はなんだったか。あぁ、確かオーガの群れだ。十体にも満たない群れでは合ったが、小さな村を恐慌に陥らせるのには十分だった。
すぐさま、街の護衛を担当している衛士や魔術師が防衛に当たった。魔術師は後方から魔術を放ち、衛士達は剣でオーガの拳をいなし、隙を見つけては切りつけていった。
始めはなんとかなるかと思われたそれだったが、数時間が経ち、疲労から連携にほころびが発生すると、戦線が崩壊するのはあっという間だった。一人の衛士がオーガの拳によって頭蓋の半分を失った。他の衛士はその姿に恐慌し、半ば捨て身でオーガを切りつけようとした。
それがいけなかった。統制を失った衛士達は、次々に殺されていった。
前衛がいなくなれば、次は後衛だ。オーガは子供の身体程もある拳で、魔術師を打ち据えていった。生き残った魔術師は勝ち目が無いと判断すると、散り散りになって、思い思いの人間、身内や友人、を守るために走り去っていった。
人の命に優劣はない。世界にとってみれば、人間なんてちっぽけな生き物の生命など全て平等に価値がない。しかし、人の心は他者の命に優劣をつける。人間であれば当たり前のことだ。
その時私は何をしていただろうか。アレクシアは思い出す。外から聞こえる悲鳴に耳を塞ぎながら、村の隅っこで小さくなっていた。隣に住んでいた夫婦が身体を真っ二つにされるのを見た。昨日まで遊んでいたあの娘が怪物に頭から食われるのを見た。アレクシアは必死で走って、村の隅まで避難したのだ。ここなら幾分か安全だろうと。悲鳴が聞こえる頻度が増える。その中のいくつかは断末魔の声だ。村人が食われる声。小さな少女はそれを聞いてただ震えていることしかできなかった。
「見つけた!」
唐突にかけられた声に、少女は顔を上げる。
「お姉ちゃん」
「逃げるよ!」
優秀な魔術師であった彼女がここにいる意味、小さな少女にはそれは推し量れなかった。ただただ安心し、これで大丈夫、もう大丈夫、そう自分に言い聞かせた。
「大丈夫だからね。アレクシアは私が守るから」
姉に引っ張られて、少女は走る。姉の向かう先は姉妹の家だった。扉を開け、鍵をかける。扉の近くに合った本棚を引きずり、扉を塞ぐ。
「これで、数時間はもつはず、安心して、アレクシアは絶対お姉ちゃんが守るから」
アレクシアはいつの間にか涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔を上下に振り、わかった、と言った。
姉妹にとって不幸だったことは、オーガの一体が自身に少なくない攻撃を与えた魔術師を執拗に狙っていたことだった。ゆっくりとどすんどすん、という足音が近づき、姉妹が息を潜める家の前で止まる。
轟音を響かせて、玄関が本棚ごと破壊されたのは次の瞬間だった。
「っ!!」
魔術師の姉は、自身が覚えている限りの魔術を行使してオーガを打倒せんとする。迫りくるオーガの拳には防御の魔術を展開し、耐え、速度向上の魔術を展開し、避けた。隙を見つけては攻撃呪文を駆使し、怪物に少しでもダメージを与えようとする。アレクシアは姉が戦う様をただ震えて見ていることしかできなかった。
「あっ!」
姉の焦った声に、目を見開く。オーガの拳が姉の杖を破壊したのだ。これではもう戦うことはできない。姉は筋力強化の魔術は使えなかった。オーガがゆっくりと近づいてくる。姉は踵を返して、少女の下に走りより、きつく抱きしめた。
「アレクシア。生きて。生きて幸せになって。お姉ちゃんと約束」
「お姉ちゃん、やだよ」
「泣かないで。お姉ちゃんがあんな化け物やっつけてやるんだから」
姉の言葉がただの虚勢であることは、少女にもすぐにわかった。姉の身体が小さく震えていたからだ。
「良い? 家の裏口から、森へ逃げるの。アレクシアにはできるよね?」
「いやだ、お姉ちゃんも一緒じゃなきゃ!」
「お姉ちゃんはあの化け物をやっつけてから、すぐにアレクシアの後を追いかけるから」
「本当?」
嘘だ。少女にもなんとなく理解できた。
「約束」
姉はどんっとアレクシアを突き飛ばすと、少女を守るように仁王立ちした。
「行って!」
姉の悲痛な叫び声を聞いても、アレクシアは動けなかった。動く間もなく、オーガの拳が姉の身体を上下に分断していたからだ。悲鳴を上げる暇もなく、姉は臓物を撒き散らしながら死んでしまった。鬼はニヤリと嗤うと姉だったものを太い指でつまみ、口へ運び、咀嚼していった。その頭を、胸を、腸を、極上の美食を食べているかのように笑いながら。
胃の中の物が逆流してくるのを感じた。それは抑えることなどできず、少女の口から吐き出される。オーガがそれを見て、愉悦に唸り声を上げた。
「げほっ、いや……」
少女は現実を否定する。
「いやあああああああ!」
数分前に村に到着した討伐隊の一人が、その悲鳴を聞いて、オーガを一刀両断にしたのは、その数秒後であった。
認めたくはなかった。アレクシアは自分が立っているのか、横になっているのかわからず、ふらりとよろめく。あぁ、自分はまだ立っているようだ。彼女はまだ地面を踏みしめている足に力を入れ、体勢を戻す。
魔術具の鎖は、アレクシアのマナによって動いている。アレクシアのマナが霧散した今、鎖はカーミラの拘束を解いていた。
「ロビン! いや! 死んではだめよ!」
ロビンが力なく地面に横たわっている。カーミラが悲痛な叫び声を上げながら、ロビンを揺すっていた。アレクシアは自分の右手を見た。そこには怪物のものではなく、人間の真っ赤な血が染み付いていた。
「これでは……」
筋力強化さえも解いた化け物は、絶望的にすら聞こえる声を発する。
「これでは、私があの時の化け物ではないか……」
いつから楽しみを感じるようになってしまったのだろう。いつから復讐心とは別の感情で動いていたのだろう。アレクシアにはもう思い出せなかった。
姉は生きろと言った。生きて幸せになれ、と。私の幸せとは一体なんだったろうか。幸せという言葉がもう久しく聞いていない遠い言葉のように思えた。
ただただ怪物を殺してきた。このか細い少女も怪物だったはずだ。ではなぜ、あの日の自分のように悲痛な叫び声をあげているのだ。
化け物を殺すたびに、自分が化け物に近づいている。その事実にアレクシアは気づいていなかった。いや、気づいていながら気づかないふりをしていた。目をそらしていた。
相手は怪物。人に害をなすもの。そう信じて、化け物を殺してきた。それが楽しかった。愉悦を感じた。自分はもしかしたらとうに怪物らと一緒の存在になってしまっていたのかもしれない。
だって、目の前で友の大怪我に悲痛な叫びを上げているこの吸血鬼の少女の方が、自分よりよっぽど人間らしいではないか。
「治癒の魔術だ。ジギルヴィッツ! 私は筋力強化しかできん。貴様がなんとかしろ!」
アレクシアの叫び声にカーミラが、はっと我に返る。ロビンはまだ浅く呼吸をしている、意識を失いかけているが、腹に風穴を開けてなお、まだ生きていた。カーミラが上級治癒の魔術をロビンにかける。
ここまでの致命傷を負ってからの治癒となると、治ってもその後生きているかどうかは五分五分である。アレクシアが、急げ、とカーミラに発破をかける。カーミラはその言葉に頷き、ロビンに注いでいるマナを全開にする。
「ジギルヴィッツ、ウィンチェスターに声をかけ続けろ」
「ロビン! 死んではだめよ! 私を一人ぼっちにしないって言ったじゃない!」
治癒魔術をかけながら、カーミラが瀕死の少年に向かって叫ぶ。
「……は、は。ご、めん。約束、守れなかったみたいだ」
「まだ終わってない! これから約束を守るのよ!」
ロビンは右腕をゆっくりと上げて愛おしむように カーミラの頬を撫ぜる。
「だい、じょうぶだよ。い、ったろ? 君、にはこれから、た、くさん、友達が、できる。ひ、とりぼっち、に、なんて、ならない」
「ウィンチェスター、しゃべるな!」
アレクシアが叫ぶ。
「生きて! 私にできることなら何でもしてあげるから! ロビン! 生きるのよ!」
カーミラが声をかけ続ける。いつの間にかその双眸からは、涙が溢れ、ロビンの制服に血飛沫でできたもの以外の染みを作っていった。
「ジギルヴィッツ! マナは全開にしてるか」
「してます!」
「そのままだ! 傷は治ってきている! 焦るな!」
「はい!」
ロビンには二人のその会話がものすごく遠い場所で話されているように聞こえた。あぁ、僕は死ぬのか。いや、もしかしたらなんとか生き延びるのかもしれないな。まぁこの際、どちらでも良いか。ロビンはぼんやりした意識の中で苦笑する。
思えば、自分の命になんて、なんの価値も見いだせなかった人生だった。でも最後の最後にカーミラに出会って、有意義な時間を過ごせた。カーミラの命を救えたのであれば、この生命にもそれなりの価値があったと誇れるだろう。ロビンは心の中だけでニッコリと笑う。
そういえば、カーミラがさっき、なんでもしてあげる、って言ってたな。なんでもか。何をお願いしようか。霞んでいく視界の中で、白銀の美しい少女がはっきりと彩りをもって映る。
「ウィンチェスター! 意識を確り持て! 貴様はまだ死んでない!」
「ロビン! お願い!」
カーミラとアレクシアがうるさい。ロビンは自身の思考を邪魔されてちょっとだけ眉を潜めた。今、カーミラに何をしてもらうか考えているのだから、邪魔しないでくれ。
あの夜、カーミラと出会って魅入られた。このか細く、儚い少女が酷く美しいものに見えた。あの時、なんか言って、カーミラを怒らせたな。二ヶ月も経っていないのに、もう遠い思い出のように感じる。
あぁ、自分を眷属にしろ、って言ったんだっけ。ロビンの目が細められる。腹に開いた風穴は、血管が繋がり、腸が繋がり、残すは肉と皮膚を繋げるだけという段階になっていた。
目を細めたロビンを見て、カーミラが悲鳴を上げる。
「ロビン! 目を閉じてはだめよ!」
血を流しすぎたせいか、身体が寒い。でも、傷もふさがり始めたからか言葉もはっきりと話せるようになった。
「カーミラ。なんでもしてくれるって、さっき言ったよね?」
カーミラは予想外のロビンの言葉に目を白黒させた。
「言ったわ! なんでもしてあげるわよ!」
だから死なないで、そう叫ぶカーミラに、ロビンは、薄れゆく意識の中で、自身の望みをカーミラにそっと伝えた。
「僕は」
カーミラが一言も聞き漏らさないように、ロビンの口元に耳を近づける。
「僕は、君の眷属になりたい」
ロビンの意識はそこで途絶えた。
アニメとかで、タイトルを最終話あたりで回収するのって好きです。
次の話をエピローグとして、第一部は完結です。
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