第十七話:アレクシアとの戦い
帝国は王国の北に位置する。王国との国境には険しい山脈があり、戦争によって国を成り立たせている節のある帝国と王国の間で不戦条約が結ばれているのは両国が山越えにコストをかけてまで戦争をすることを良しとしなかったためだ。
一般的に、魔獣を代表とする怪物の類は大陸の北に行けば行くほど危険なものが出現するようになる。帝国は元々は大陸の北端にある小さな国だった。戦争によって経済が潤うことも勿論理由としてあったが、帝国はより安全な領土を求め、南へと領土を拡大した。数十年前までは、王国と帝国の間にはいくつもの小国が存在していたが、帝国はその全てを侵略し自身の領土とした。今では、大陸の中でも上から数える方が早いほどの大国となっている。
そんな帝国においては小さな事件だった。怪物の群れが村を襲う。帝国にとっては日常茶飯事である。帝国も手慣れたもので、怪物襲撃の一報を受け、村を救うために迅速に軍人を中心とした討伐隊を派遣し、怪物を打倒した。
しかし、軍人が村に着くまではどうだろう。当然、村の住人は襲われ、死者が出る。勿論、村の中にも魔術を使える者がいた。村を守る衛士達もいた。だが、人口にして五百名程度の小さな村だ。魔術師の必死の抵抗も虚しく、討伐隊が到着した頃には人口の半分が怪物の群れによって失われていた。家は破壊され、畑は焼かれ、死人は怪物の餌となった。
アレクシアはその光景を一度たりとも忘れたことはなかった。隣に住んでいた気のいい中年の夫婦が身体を真っ二つに引き裂かれたこと。昨日まで一緒に遊んでいた友が怪物に頭から食われたこと。
そして、優秀な魔術師であった姉が怪物と果敢に対峙していたこと。
最後に、そんな姉が自身を守るために異形と自身の間に立ちはだかったこと。腹を貫かれ、腸を撒き散らした姉の死体を見た時、本当の意味で絶望した。怪物は姉の臓物を食うことに夢中だった。目の前の少女など、食事の後のデザートとでも考えていたのだろう。村では器量よしとされた姉が、人間の形を徐々に失っていく様を見て、少女は嘔吐し、それでも命だけは助かりたいと願い、後ずさった。
討伐隊が村に到着したのはそんなタイミングだった。怪物は姉よりも戦闘経験の豊富な魔術師や軍人によって一匹、また一匹と打倒され、全て討伐されるのにそんな時間はかからなかった。
さて、身内を怪物に殺された人間はその後どうなるだろうか。一つは絶望を抱きながらも、心の傷は時間によって解決され、平和に生きていく。一つは二度とこの様なことがおきないよう、守るべきものを守る力を得るため軍人や衛士となる。一つは、失ったもののあまりの大きさに生きる希望を失い、自然と淘汰される。少し考えるだけでも、たくさんの人生が存在するだろう。
アレクシアはそのどれも選ばなかった。少女は怪物という存在を嫌悪し、憎悪し、厭忌した。二度と姉のような存在を生み出すまいと誓ったわけではなかった。ただひたすらに異形を恨んだのだ。復讐心は少女の心を蝕み、犯し、浸透し、少女の心の一部となった。
そして人間の姿をした化け物を生んだ。
アレクシアが右足で地面を蹴った。地面はえぐれ、罅入り、それと引き換えにアレクシアは横に跳んだ。彼女とカーミラの間には歩いて数百歩程度の距離があったが、それをたった一蹴りで踏破せしめた。右腕を大きく振りかぶり、拳を握る。通常の人間であれば、テレフォンパンチと呼べるようなそれは、マナによって強化された身体に起因したスピードによって、常人では回避し得ないものとなっていた。びゅうっと、風を切って、あるいは凶器とも呼ぶべきかもしれないそれが、カーミラの腹を打ち据えた。
ぐぇっ、という音とともに、横隔膜を刺激された反動で肺の空気が漏れ出る。視界がチカチカし、腹を襲った衝撃によって、胃の中のものが逆流しそうになった。それをなんとか抑えたとき、カーミラは自身が猛スピードで吹き飛ばされていることに気づいた。
アレクシアが少女を追う。人智を超えた速度でカーミラに肉薄する。カーミラはとっさに爪を伸ばし、次の攻撃に備えた。臨時講師の左腕が今度はカーミラの胸を打擲しようと襲いかかる。とっさに伸ばした爪でその拳を弾き返した。傷つけないようにと加減はしていたが、それ以上に拳の頑強さに驚く。なんとかアレクシアの拳をさばききると、空を舞っていた身体が、地面に着地し、カーミラはごろごろと転がった。
アレクシアはこちらの様子をじっと見ていた。いつでも貴様を殺せるぞ、と言わんばかりに仁王立ちしている。
「げほっ、ごほっ」
咳をしながら、カーミラがゆっくりと立ち上がる。吸血鬼の身体の強靭さは自身で何度も繰り返した実験で分かっていたが、それ以上の破壊を人間が引き起こせるとは考えもしなかった。咳に血が混じっていることに気づく。
「今、加減したな?」
アレクシアが怒りをすら感じさせる小さな声で問うた。
「爪を伸ばした、か。貴様は化け物の中でもたちの悪い、吸血鬼だな。陽の光を浴びても平気な吸血鬼は初めて見る。
しかしなんだ? 私を人間だと舐めているのか? 本気でかかってこい。それでも私は貴様を殺すが」
「げほっ、私は……人間を傷つけたくない」
「世迷い言を。人間を傷つけない異形など私は見たことが無いぞ?」
アレクシアがつまらなそうに鼻を鳴らす。
「傷つけたくない。あんたのことも、これから会うたくさんの人のことも!」
口の中に鉄の味を感じながら、カーミラが叫ぶ。
「困ったな。それでは私が楽しめないではないか」
アレクシアが苦笑いをしながら、そう呟いた。楽しむ? 楽しむと言ったのか、この女は。吸血鬼の少女は頭に血が上るのを感じた。カーミラの目が生来の金色のものから、血のように赤い瞳に変わり、そしてすぐ戻る。
「ふむ。本気で殺し合う気はないということか。では、ただ私に殺されるのを甘んじて享受するということか?」
「……最低限の自衛はさせてもらうわ。この騒ぎで宿直の先生がすぐに駆けつけてくる。それを待つ」
「消音の結界と、魔術隠匿の結界をこの一帯に張っている。学生も宿直の教師も気づくことはない」
「じゃあじっくりと粘らせてもらうわ」
「ジギルヴィッツ、私と貴様の力量の差がわからんほど馬鹿ではあるまい? 殺す気でかかってこないと貴様が死ぬことになるぞ?」
「あんたこそ、吸血鬼のしぶとさを舐めないほうが良いわよ。あんたがどんだけ強いかなんとなくわかるけど、朝までに私を殺しきれるかしら?」
朝になれば、学生や教師達が起き始める。自然とこの騒動も目の当たりにされるだろう。カーミラはそれまで粘れば良い。
「……朝まで逃げ切る、と。そういうことか。貴様が吸血鬼であることも衆目環視にさらされるだろうな」
「人を傷つけるよりましよ」
アレクシアは顎に手を添え、ふむ、と鼻から息を漏らす。
「では、こうしようか」
アレクシアが地面を蹴り、横たわったロビンの隣に降り立つ。
「ウィンチェスターを殺そう」
学院長から釘を差されてはいるが、それを律儀に守る必要もない。アレクシアは未だ意識のないロビンの首を片手でつかみ、持ち上げ、ニヤリと笑いながらカーミラを見た。
「さぁ、どうする?」
「……あんた!」
カーミラの瞳の色が完全に紅に染まった。
人を傷つけたくない? そんな感情犬にでも食わせてやれ。大事な友人が殺されようとしている時に自分の都合だけを優先している場合じゃない。吸血鬼の本能がカーミラの体中を侵食していく。こいつを殺す。思いつく限りの残忍な方法で殺してやる。報いを受けさせてやる。どす黒い衝動に身を任せて、カーミラはアレクシアに向かって全速力で走り出す。
「大切な友人のためなら、人を傷つけることも厭わない、ということか! 人を傷つけたくない、だったか。ちっぽけな決心だったな! あぁ、お前は確かに化け物だよ!」
掴んでいたロビンを横に放り投げるとアレクシアは臨戦態勢を取る。
化け物同士の殺し合いが今、始まった。
――早く起きないと大事なものをなくしちゃうよ?――
ロビンは真っ暗な闇の中で、そんな声を聞いた。小さな少女のような声。誰だ、僕に話しかけるのは。
――ほらほら、早く早く。起きなってば。――
わかったよ、うるさいな。ロビンはその声に毒を吐きながら、目をゆっくりと開いた。
「ここは……裏庭?」
ゆっくりと身体を起こし、今自分がどこにいるのかを確かめる。霞がかった視界に、思わず目を手でこする。パチパチと瞬きをすると、ようやく視界がクリアになった。
それと同時に、自分の後ろ側から尋常ではない音が聞こえてくることに気づく。振り返り確認する。
「カーミラ、とロドリゲス先生?」
人間の目でギリギリ追いかけられる速さで、白銀と紅が幾度となくぶつかり合っていた。アレクシアは何度も拳を振り上げ、カーミラを殴打する。カーミラはその数発を長い爪で捌き、返す刀でアレクシアの首筋を切り裂こうとする。一見拮抗しているように見えるが、紅の方が実力が上なのか、白銀は有効な攻撃を与えられないでいた。
魅入った。あの夜、カーミラの美しさに魅入られたが、今回は別の意味で魅了された。人外の戦いというものは、これほど苛烈で、強烈で、鮮烈だったのか、と。本来であれば、恐怖を感じてもよさそうなものだが、不思議とそんな感情は湧き出て来なかった。
白銀の長い髪が移動するたびになびき、ギラリと光る爪が対峙する相手を切り裂かんと振り抜かれる。受けた傷は見る間に癒え、真っ赤な瞳は御しきれない怒りでアレクシアを見据えている。発達した犬歯は、憤怒から釣り上げられた頬によって顕になり、少なくない血で染まった制服が異様な艶めかしさを感じさせた。
美しい。そう感じた。なぜかは知らない。どちらかというと、両者とも己の卓越した膂力で戦うという、泥臭いものであるはずなのに、カーミラの戦う姿に得も言われぬ美麗さを感じた。
決着はしばらく付きそうにない。アレクシアの攻撃はカーミラに何度か届いているが、傷つけた側から吸血鬼の体質によって癒えていく。逆にカーミラの攻撃はアレクシアの卓越した戦闘技術によっていなされ、避けられ、弾かれている。これでは千日手だ。
数分間だろうか、いや数時間にも感じられる。実際には数秒間だったのだが、呆けたロビンの脳内は二人の殺し合う姿がスローモーションのように映った。人智を超えた戦いというのは、こうも人を魅了するものだろうか。それとも、彼が変わり者であるがゆえであろうか。どちらにせよ、ロビンはカーミラの一挙一動を脳に焼き付けるかのように見つめていた。
しかし、しばらくして、はっ、と思い立つ。だめだ、カーミラ。それでは君の理想は達成できない。ロビンは彼女の気高き理想を短い付き合いながらも推し量っていた。
カーミラは人を傷つけることをよしとしない。カーミラは人を殺すことをよしとしない。彼女はどうしようもなく人間だ。吸血鬼という存在でありながら、その在り様は悲しくなるほどに人間なのだ。
カーミラに人を傷つけてほしくない。殺してほしくない。人を傷つけた瞬間、殺した瞬間、彼女は深く後悔するだろう。後悔は心に傷をつけ、彼女の誇りを汚し、そして美しい少女を化け物へと近づけてしまう。そんな気がした。
今でこそカーミラは劣勢に立っている。しかし、吸血鬼と違い人間はマナの保有量が少ない。スタミナも劣る。このまま彼女らが本気で殺し合えば、最後に立つのはカーミラだ。根拠はないが、ロビンはそんな未来を予測した。
「カーミラ! だめだ!」
カーミラの動きが止まり、こちらを見る。そこにアレクシアの拳が突き刺さり、彼女は吹き飛ばされた。アレクシアが木の葉のように吹き飛ばされたカーミラを一瞥した後、こちらを見遣った。
「ウィンチェスター。気がついたのか」
「ロドリゲス先生……」
「どうだ? 吸血鬼の戦いは。恐ろしいだろう。あんな存在が貴様の直ぐ側にいたのだぞ?」
アレクシアがニヤリと笑って、ロビンに告げた。
「そんなこと、どうでもいいです。もうやめてください」
「やめる? 馬鹿なことを言うな。異形を殺すのは私の人生そのものだ」
やめるなど、ありえん。と、アレクシアが付け足した。
視界の端で、カーミラが横っ腹を押さえながら立ち上がるのが見えた。口から一筋の血が溢れる。
「カーミラ! 無事?」
「ロビン……目を覚ましたのね。良かった」
「誰か呼んでくる! 数分間粘るんだ!」
「……分かった。お願い!」
カーミラの目が生来のものに戻り、表情から怒りの感情が拭い去られる。再度、カーミラがアレクシアの方に身体を向けた。
「ふむ。楽しい時間は潮時か」
レイピアのような切れ長の目が細められる。なんだろう。ロビンは言いしれぬ不安を感じた。アレクシアが何かしようとしている。
漠然とした不安にロビンは立ち尽くした。カーミラも同様の不安を抱いたようだ、警戒しながら臨戦態勢を取っている。
「もう、十年近く異形を殺してきた。吸血鬼も何度も殺した。そんな私が、筋力強化だけで化け物と相対すると思うか?」
次の瞬間、アレクシアが鎖のようなものを懐から取り出しカーミラに向かって放り投げた。鎖は生き物のようにうねうねと動き、地面を這ってカーミラに向かう。カーミラが避ける間もなく、鎖はカーミラの四肢を拘束し、その身を地面に横たえさせる。少女が苦しげに息を吐く。
「異形を封じる魔術具だ。人間以外、特に怪物の類を敵と見なし、絡みつき、拘束する」
アレクシアがゆっくりとカーミラへ歩を進める。
「ウィンチェスター、殺されたくなければ動くな」
アレクシアと、カーミラとの戦いです。
バトル描写って難しいですね。難産でした。
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