頼みがある
妙に迫力のある無言の3人に連れられ、やってきたのはいつぞやの非常階段だった。
この場所が初めての2人は物珍しそうに眺めるも一瞬、すぐに視線を元へと戻し、凜と熱の籠った眼差しをぶつけ合う。
そこにここしばらくの確執のようなものは無い。
「昴の件だけど、皆わかってるわよね?」
口火を切ったのは凜だった。
わかっているとばかりに、平折とひぃちゃんも重々しく頷き返す。
俺も少し遅れて「あぁ」と返事をした。
そんな俺達をよろしいとばかりに首肯した凜は、1枚の書類を取り出す。
有瀬直樹の俺に対する示談書、そのコピーだ。
そこには凜の字でみっしりと色々と書かれている。
「あたしの方でも色々調べてみたんだけど」
「これは……」
書き込まれていたのものは、色々と疑問に思っていた事に対する検証や対応策に関するモノだった。
俺だけじゃなく、平折もひぃちゃんも食い入るようにそれを見ている。
随分と詳細にわたって調べてくれていた。
ショックで呆然としてしまい、何もできなくなってしまった俺達とは違い、その切り替えの早さや行動力は、さすが凛だと感心してしまう。
「まず、勢い余って尻もちをつかせただけなのに270万円というのがおかしいわ。傷害罪刑法204条の罰金でも50万円以下と定められているし、どうみても法外だと言うのもわかる。損傷した腕時計、指輪やスーツなど修繕費じゃなく買取要求……ちょっとありえないわね」
「つまりどういうこと?」
「弁護士交えて戦えば、まず負ける事が無い感じね」
「それじゃあ!」
訝しむ様子だったひぃちゃんも、得意げに答える凜を見て、その顔に嬉色を浮かべ広げていく。
「てことはお金が目的じゃない、ってことですか……?」
「嫌がらせ、揺さぶり……もしくは時間稼ぎってとこかしら?」
おずおずと尋ねる平折に、凜が答える。
だがその顔は険しくさせていく。
「どちらにせよ、これらの事を法外だと証明するにも時間がかかるわ。それに、昴が暴力をふるった事実は変わらない。足場を固められるとこちらが不利ね。もしこの事がスタッフに広がると動揺や衝撃も相当なものよ」
「……まるで俺に対する嫌がらせだな」
「まるでじゃなくて、そのものよ。あんたを攻撃した方が、あたし達に影響が大きいって見抜かれたのかもね」
「それは……」
そう言って凜は苦笑しながら平折とひぃちゃんを見て、2人は決まりが悪そうに目を逸らす。
「で、どうする昴?」
「どうするって……」
「こういう件に強い弁護士を紹介することもできるし――いっそ1690万円はらってしまう手もあるわ」
「はぁ?!」
意外な提案だった。
あまりに予想外の意見に口が開きっぱなしになってしまう。
先ほどまでの説明は何なのだといった様子で、平折とひぃちゃんも目をパチクリさせている。
だというのに凜は悪戯っぽく口元に笑みを浮かべながら、野心的な瞳を向けてくる。
「もとより相手はこの金額が払えるとも、払ってもらえるとも思っていないわ。この件を長引かせたいはずよ。だからこの件を一気に解決してしまえば、彼も絶対動揺するだろうし、綻びもできるはず。あたし舐められっぱなしって嫌いなのよね」
「いや、しかしだな……」
妙案だとは思った。
凜のことだ、それだけの金額を支払ったとしても、後で結果的に回収できる算段があるのだろう。そうでなければこんな提案はすまい。
だけど――
「その場合、お金ってどうなるんだ?」
「もちろん、あたしの方で支払うわ」
「でもそれって、俺が凜にお金を借りるって形になるんだろ?」
「形式上はね。でも別に昴に払えとかいうつもりは――」
「すまん、却下だな」
まさかの申し出の断りに、凜は思いもよらなかったのか、困惑した目をしばたたかせる。
「へ、どうして? お金なら――」
「なぁ凜、それだけのお金をどうして貸してくれる? 俺はその対価に何ができる? 確実にそれに見合う結果があるという保証は? 少なくとも時間さえ掛ければ解決する方法があるんだ。なんていうかその、その額を無償で借りると凛と対等じゃなくなる気がするんだ」
それは自分の中で譲れない一線だった。
確かに凜の案は渡りに船だ。相手を揺さぶる妙案に違いない。
ちっぽけなプライドだと思う。
だが1690万円もの借りに、もし上手くいかなかったと思うと、どう返せばいいかわからない。
割り切って甘えてしまうのも、俺には出来なかった。
凜は困った顔をしながらも、「馬鹿ね」と言って笑っていた。
だからその発言は、完全に俺達の意識の外を突かれた。
「じゃあさ、私を彼女にしなよ、すぅくん」
「……は?」
「……ぇ?」
「ひぃちゃん……?」
あまりにも突拍子がなくて、何を言ってるか理解できなかった。俺達はポカンとしてしまう。
「すぐに婚約するといいかもね。パートナーの為ならこれくらいのお金を出すでしょ? 少なくとも私は出せる。それにあの人に一泡吹かせ――」
「――ダメ!」
それはひときわ大きな平折の声だった。
まるでひぃちゃんから俺をブロックするかのように、間に身体を入れる。
無意識で咄嗟の事だったのか、皆も驚いているが、当の本人が一番驚いている。
それでもと、必死に思っていることを言葉にして紡ぐ。
「そ、そんなこと、軽々しくいうものじゃない……と思います……」
「決して軽い気持ちじゃないよ、おねぇちゃん。だって私、すぅくんのこと好きだもの」
「…………ぇ」
「少なくとも、これくらいのお金を払って事が済むなら、払いたいと思うくらいには好きよ。ねぇ、どうかな? 私じゃダメ?」
ひぃちゃんは平折を押し退け俺の前へと迫ってくる。
俺はすぐには答えられなかった。
何を馬鹿なと切って捨てるには、彼女の目はあまりに真剣過ぎたからだ。
それが分かってしまったからこそ、平折も口を噤んでしまったのだろう。
色々と思う事はある。
ひぃちゃんは個人で9ケタの資産を持っている。俺達と金銭感覚も違うのかもしれない。
「あら、そういう事ならあたしが彼女になっても良いって事かしら?」
「っ?!」
「り、凛さんっ」
「凜も何を……」
ぐるぐるとした思考の渦に飲まれそうになった時、つとめて悪戯っぽい笑みを浮かべた凜が、茶々を入れてきた。
ひぃちゃんを牽制するかのような視線を送りながら、呆れたような顔でこちらに目配せしてくる。
どうやら助け船を出してくれたようだ。
「ふぅ……それはともかく、凜に頼みたいことがあるんだ」
「な、何かしら?」
「凜のお父さんと話がしたいんだ」
「……父と? 専務と?」
「お父さんと」
◇◇◇
その日の放課後、アカツキ本社に向かった俺は、手伝いをしていたいつもの芸能広報事務局でなく、経営者一族の長子であり凜の父親である南條豊和専務の部屋を訪れていた。
一応、凛を通じてあらかじめアポイントを取ってはいるので、急とはいえ失礼とまでにはならないはずだ。
さすがにアカツキグループ役員であり次期社長の部屋の扉は重厚で、ただの学生である自分と比べると気後れしてしまう迫力がある。
だがここで足踏みをしてはいられない。意を決してノックする。
「……入れ」
「失礼します」
……
部屋は身分のある人を迎える為だろうか、広く、そして素人目の自分にも高級品ということが嫌でも分かる調度品で彩られていた。制服姿の自分は場違い感も甚だしい。
それだけでなく、南條豊和は少し機嫌が悪いように見えた。
さすがに背筋に冷たいものが走る。
巨大企業の専務ともなれば忙しい人だ。
凜を経由したとはいえ、やはり不躾だったか?
だがその気迫に飲まれてはいけない。
しかしそんな俺の心境など知った事かと、射貫く視線と早く用件を言えとばかりに言葉を告げてくる。
「倉井昴君だな。きみの状況はよく知っている。それで今日はどういう用件かね?」
「実は凜のお父さんにお願いがありまして」
「凜の父に、か」
「えぇ」
南條豊和の瞳の色が変わり、何かを探るかのような視線を投げかけてくる。
以前より鋭い、まるで睨みつけるかのような視線だ。
全てを見抜くといわんばかりの瞳に気圧されてしまうが――ここで怯んでしまえば、俺の思いは伝わらないだろう。
腹に力を入れて見つめ返す。
「凜の友人か……何かね、言ってみなさい」
「有瀬直樹――凜の友人の父を紹介して欲しいんです」
「……………………は?」
豪奢な部屋に、南條豊和の間抜けな声が響き渡った。
色々と考えました。
今日は2020年令和2年2月22日。
普段にゃんにゃん言ってるのに更新しないのは如何なものか!!
目指せ22時台の投稿! 頑張りました!
というわけで。
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