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婚約破棄された伯爵を預かったのだが、胃袋をつかまれていかんともしがたい  作者: 武州青嵐(さくら青嵐)


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4話 軍人ではない男

□□□□


 二日後。

 自宅の前で警備兵に答礼をしたクロエは、そのまま門扉を抜けようとして立ち止まった。


 警備兵が話しかけてきたからだ。


「本日、小間使いのアイクという男が来ております」

「あ、そうだったな」


 警備兵の言葉に我に返る。

 もちろん自宅を出るまでは覚えていた。


 警備兵にもヨハンナ刀自にも『小間使いの男をひとり雇った。昼頃に来るだろうから対応してくれ。修士の銀環をはめているはずだ』と。


 自宅警備兵は時間ごとに交代している。ちゃんと引継ぎができていることにクロエは満足を覚えた。すばらしい、うちの部隊は良い隊員が多い。


「本官も銀環の確認を行いましたので、間違いないと思われます」


 うむ、とクロエは無表情でうなずいたが、内心は苦虫をかみつぶした顔をしていた。


(しかし、アイク……なぁ。本名そのままではないか)


 昨日、王太子ミハエルから聞いたところによると、偽名は『アイク』となったらしい。


 そんなアイザックの愛称をそのまま使ってもいいものかどうか迷うが、ミハエルも当事者もそれでいいというのでそうすることにした。


『フードをかぶっているが、顔の確認は不要だ。事故により顔に傷を負っている。アイクと名乗り、修士の銀環を持参していたら間違いない。通せ』


 そう伝えていた。

 今日はいろいろと忙しく、警備計画書を見直していたり、すでに予算を超えそうな項目があって予算修正の準備をするかどうか頭を悩ませていた。


 そのせいですっかり忘れていたのだ。


「アイクはいつ来た?」

「昼前に。そのあと、ヨハンナばあさんと一緒に買い物に行き、食材を買って戻ってきました」


「食材? なんで」

「え? 小間使い……なんですよね。買い物に行くのは当然かと」


 いぶかし気に警備兵に問われ、平静を装う。


「そうだ。いや、てっきり食材は搬入されるものだと思っていたから」

「メイドを解雇なさったときにそれ、止めたじゃないですか」


「うむ。忘れていた」


 そうだそうだ。食材が運び込まれても料理をする時間がないので、八百屋や肉屋に『当分中止』と伝えたのだ。


「しかし……よほどひどい傷なんですね。あんなに厳重に顔を隠してるなんて」

「う、うむ。そうなのだ。それはそれはひどい……火薬の暴発があってな」


 そんなに顔を隠していたら不審ではないか。いや、すでに不審がられている。あとで注意しよう。


「ああ……なるほど。それで小間使いのような仕事しかできないのでしょうな」

「うむ?」


 小間使いのような、とはどういうことだ、とじろりとにらみつけると、警備兵は慌てて背筋を伸ばした。


「いえ、小ばかにしたわけではなく。その……顔を隠してはいますが、そのたたずまいや言動、また銀環を持参しているところから、近侍としてどなかたにお仕えしてもよい人物だとお見受けしたので……。それが公女の小間使い、ですから」


「貴官」

「は」


「若いのに観察眼が鋭いな。所属長にその旨を伝えておこう」


 いきなりのことに警備兵はきょとんとしたが、ほめられていると気づいたのか、頬を紅潮させて敬礼した。


「貴官の観察は当たらずとも遠からずだ。だからくれぐれも余計なことをよそで言うな」

「しかと承りました」


「うむ。それでは引き続き警備を頼む」

「はっ」


 敬礼を受け、クロエは頷いた。

 敷地内に入る。


 クロエが住む家は屋敷でも豪邸でもない。

 庶民が暮らす平屋のなりをしている。以前の借主は商人だったそうで、会食用の部屋から見える中庭が美しくて気に入った。いまはリビングとして使用している。


 だがあまりにも貴族が住んでいる邸宅とは違いすぎる。

 そのせいで『さすがにこれは』と朱紅隊の副隊長と王太子ミハエルから待ったがかかり、警備上の理由で、ということで24時間体制で警備がおかれてしまった。


 部下の負担を増やしてしまったと落ち込んだものだが、各隊員と会話ができるし、ひととなりもわかる。災い転じて福となすとはこのことかと今はそう思う。


 門扉から玄関ポーチまではすぐだ。

 てこてこと歩き、植栽越しに部屋の明かりが漏れていることに気づいて、久しぶりだなと感じた。


 メイドが集団離脱をして以降、家は真っ暗だった。


(あ、これどうしようか)


 右手には紙袋を握っている。

 いつものくせで駐屯地に来ていた物売りからパンとリンゴを買ってしまった。明日の朝ごはんのつもりだったが、アイザックとヨハンナはなにか買ってきているようだ。


 まぁ、このまままた持って行って昼飯にすればいいか。

 クロエは紙袋を左手に持ち替え、玄関扉を開けた。


 途端に。

 暖色系の明かりがクロエを包み、同時になんとも良い香りに頬を撫でられる。


(ポトフ?)


 スープ系の香りだ。それとともに小麦を焼いた香ばしい匂いが鼻先をくすぐる。


「おかえりなさいませ」


 食堂のある部屋から出てきたのは、長身の男だ。

 頭をすっぽりショールのようなもので覆っていたのは、入ってきたのがクロエでないときのことを警戒したのだろう。


(目立つ)

 つい眉根が寄ってしまう。


 女ならともかく男がかようにショールを頭部から巻いていると非常に目立つ。なにをやっているのか、こいつは。


 そんなクロエの視線に気づいたのか、男は素早く外した。


 豪奢な金髪があらわになる。廊下のわずかな光を受け、淡く発光しているようにさえ見える。


 背は大きいが、いかんせん線が細い。クロエが軍隊に所属しているから余計にそう見えるのかもしれないが、まるでアスパラガスか、ぺんぺん草だ。もう少し鍛えるべきだと思うし、もっと食うべきだとも感じる。


「あの……?」


 腰に巻いたギャルソンエプロンの腰ひもにショールを通しながら、青い瞳を不安そうにくゆらせる。

 あまりに自分が長く見すぎたからかもしれない。


「ああ、貴卿のことは聞いている」


 クロエは玄関扉を閉めた。

 小物置きの猫足テーブルに紙袋を置いて上着を脱いでいると、かすかな足音に動きを止めた。


「貴卿などと……。いまはもう何者でもないアイクです」


 アイザックは自嘲的な笑みを浮かべて近づいてきていた。

 そのままクロエの上着を受け取り、小物置きから紙袋もそっと持ち上げる。


「潔く別の名前にしようとも考えたのですが、この名前は母がつけてくれたと聞いていたので……。名残惜しく」


 その母は不貞を疑われ、結果的にアイザックは爵位を奪われて家を出された。

 だがその母を信じているからこそ、この男は名前を捨てられないのだろう。


「別に貴卿を社交界につれていき、名乗りを上げさせるわけではないのだ。いいのではないか?」


 クロエはさらりと応じた。本当は「もっと別の名前にすべきだ」と思っていたがそのような理由であれば撤回することにするし、王太子ミハエルもきっとこの話を聞いて強く出られなかったのだろう。


「ありがとうございます」


 ふわりとアイザックは笑う。

 ひだまりのようだとクロエは感じた。


 あたたかく、ほっとして。楽に息ができる。

 こんな笑い方をする男は身近にいない。

 やはり軍人じゃない男はなにか違う。


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