10
今まで他人の過去に興味など抱いたことはない。
『困っている人を救いなさい。種族も身分も、罪人だろうと構わずに。あなたがその力を持つ限り』
母の言いつけを守ってきた。だから人の過去を、自ら進んで暴こうとはしてこなかった。怪我人にどんな過去があろうと、私の助けを求めているというのは変わらないから。
ジャックと隣り合って、谷へと足を投げ出して座る。この花畑はどうやら、先ほど立っていた土壁の、ちょうど向かい側らしい。
下を見れば途方に暮れるほどの高さだ。おそらく落ちたら死ぬ。下に川があろうが、かなりの打ち身はまぬがれない。
「俺は、公爵家の次男に生まれた。兄がいるが、彼は羽の発育が悪かったんだ」
ジャックの黒い翼。
誰にも触らせようとしなかったことが、そこに隠されている。
「兄は優秀だった。彼は俺とは違い、いつも誰かを笑顔にする。今、町の中央で医者をしている」
「それって、ヴァロンさんのこと?」
「知っているのか」
「知ってるも何も、町で治療しようとしたら彼に止められたわ。でも最後は信用してくれた。良い人よ」
右手を忌むような顔で見てくる医者もたくさんいる。母に連れ添いながら、薬草を売り、重い病の者には右手を使う。周りの医者は薬を売ったり、診察をしたりと生計を立てるため、そういった病にかかっている人が必要なのだ。
私がそれを全て奪ってしまうから。
「治しただけで殴られることもあったけど、ヴァロンさんは違うわね。あの人は私が患者を治すたびにほっと胸を撫で下ろしていたわ」
「兄はそういう人なんだ。だから俺は、兄こそ公爵を継ぐのにふさわしいと考えていた」
「でもあなたが継いだ」
「父は戦に出れないような翼では、ない方がマシだと嘆いていた。母は父とそれでいつも喧嘩していたな。最後は両親共、本心から兄の方が継いでほしかったのだと言っていた」
彼は望まれてなどいなかった。公爵家当主になるのに期待されていたのは、初めからお兄様の方。それを知った彼はどんな気持ちで、当主を引き継いだのだろうか。
両親に期待されず、それでも領地を守り続ける。どれだけ健気なカラスなのだろう。
他人を欺き、見下すような人間の貴族たちよりよっぽど清らだった。
「俺は自分を誇りに思っている。せめて兄の代わりにと、町を守ることができるのだからな」
「だからあんなに、翼に触れさせないようにしたのね」
「ああ、俺は翼が折れようと、戦わなければならない。医者になるぐらいの、兄の賢い頭に代わって。それが俺の……君が言う…生きる目的だ」
胸が痛い。彼は両親から期待もされず、兄の背中をずっと追いかけている。なのにすごく真っ当に、隊長をつとめあげ、町を守り続けていること。
生きる目的なんてもので、くくれない。彼の場合はもっと、彼のその誇り高い心に何かが埋もれている。
私はそれを探したくて、ジャックの頬を手で包んだ。座っても頭一つ分は大きい彼の顔に手を伸ばして。
「あなたは優しいのね。守り続けるというのは本当に難しいことよ。何より、家族の期待は違う人に向いている中でね。あなたは立派なカラスよ。私からそう見えるのだから、素晴らしいことだと思いなさい」
「……カラス嫌いな君から言われても、なんだか褒められた気がしないが」
「あら、私がいつからカラス嫌いなんて言ったのかしら」
「では、カラスは嫌いじゃないのか」
ええ、と答える。カラスは嫌いだけど、彼のようなカラスは苦手でもない。
うなずけば、彼の翼はバサバサと喜びを表す。ジャックの黒くて大きい翼は、言い換えれば犬の尻尾のようなものだろうか。私の方に翼を広げて、肩を抱くようにしてきた。近づいていく、ジャックとの距離。いつも私の心にある壁を打ち砕こうとしてくる。
「嬉しい。俺も、君の白い髪と赤い瞳が好きだ」
「老婆みたいでしょう。赤い目は悪魔の眼だと言われてきたわ」
「違う。君の白い髪は、冬のときに見る大地の色だ。白い雪が山に降り積もり、尾根も白い帽子をかぶる。
赤い瞳はそうだな。飛んでいる時に俺達の方向を指して示す、太陽の色」
「ふっ……ふふふふふ」
「何がおかしい」
雪の色、太陽の色。
彼に目に見えるものは全てこの山でできているのだろう。
植物たちの鳴き声と、空からの恵み。素敵に例えられるのは、きっと汚いものを知らないからだ。
「あなたもいずれわかるわ。この山を離れたら、私はそんな綺麗事ではくくれなくなる」
「ルナ、自分を卑下するな」
「私は誇りを持ってるわ。だから己を卑下したことなどないのよ」
事実を言っているだけ。彼は外の世界を知らない。
汚水の臭いに、淀んだ人のたまり場。暗い小道に、人が普通に倒れているスラム街。そこに住んでいた私の気持ちなど、わかりっこない。
胸がズキッと痛くなる。
彼のことを笑ったときから、奥がずっとトゲのように痛い。
私は彼に何を求めて、何をしたいのだろうか。
雪と、太陽と例えられたとき、壁は甘く溶けていきそうだった。
でもまだ、私の心には触れさせたくない。
怪我を負った獣たちは自分の傷を見せないようにずっと隠している。それと同じことが、私に起きている。




