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 現在のような個人が根っこを持てない社会では、多くの人に承認され、称賛されたりする事によって自分の存在を確立したいというのは普通の願いだろう。自分もまたそんな一人である。


 普通の考えでは、批判はネガティブなもの、称賛はポジティブなものだろうが、称賛もやはり、力の行使であると思う。というのは、僕がある方向の発言をして、それに多くの称賛がつけば、僕はなんとなく、次からもその方向の発言をしがちだ。称賛は、称賛しない場合との差異を用いて、他人を無意識の内にある方向へと誘導していく。もちろん、称賛する事が良くないというのではなく、それ自体が力を持つという事だ。


 批判、炎上はマイナスの効果にも見られるが、盛り上がっているという意味においては、無視よりマシだとも言えるし、炎上の背後に、熱心な支援者がつくという事もあるだろう。どちらにしろ、今、一番人が嫌なのは「無視」される事だろう。


 僕は「価値」はグローバルなものではなく、ローカルなものだと考えているが、現在の情勢では、価値はすぐに拡散し、薄められ、人々の目に一瞬映ったかと思うとすぐに消える。この流れの形成に、称賛・批判のゲームも一役買っている。


 他人に称賛されたいという願いは、普通の願いであろうが、自分のしている事、自分というものが他人に褒められる、褒められる為に何かをするとなると、必然的に他人の価値観が入り込んでくる事になる。独自性やオリジナリティというものは、言葉だけ発せられるが、独自性というものはこの世界では全く求められていない。求められるのは「新奇さ」であって、人々は努力してまで何かを理解し、味わおうとはしない。


 自分のする事、成す事が他人に褒められたいとか、権威に褒められたいと考えると、そこに他者の価値観が入り込み、いつの間にか、自分が自分でなくなっていく。僕から見て、興味のわかない「プロ」の評論家が自分を支える時、「自分はプロとしてやっている」というのをつっかえ棒にしているのを何度か見た事がある。小林秀雄はそんな風には自分を見なかった。小林秀雄は「自分は貧乏で自意識を持っており、それで真実を吐くのに不足はない」と言い切っている。このように言い切るのは至難であるが、何故、小林秀雄がこのように言い切るのか人は了解しないだろう。


 他人に評価されたいという願いは、基本的には正当なものであるが、正にそのような流れに我々が配置されるが為に、常に全体は薄く平坦なものとなっていき、また、仮りそめであろうと名前が上がっている人物には金や力が流れ込む。企業もまた、方向性や倫理観を持たず、ただ、多くの人が称賛しているものの背後に積極的につこうとする。それらの大きな流れが価値観の平板さと、才能の浪費、小さな才能しか生まれないという事情を形成しているように思われる。


 このような状況で、自分の才能を育てようとすると、孤立と沈黙を自意識に持たなければならない。そうでなければ、自分というものは決して育たないだろう。


 あるいは、本当に才能のある人、優れた人物であれば、例えこのような価値観の渦に巻き込まれても、何らかの形で自分の孤独を保つだろう。そうでなければ、気が狂ってしまうだろう。正直言うと、現代のこの渦の表面で楽しそうにしている人は半ば狂っていると自分は思っている。しかし、それは正に正しいのだ、という価値観が彼を周りから擁護しているから、彼は自分の狂気に気が付かない。


 ただ、他人からの評価という事についてはもっと別の話をするべきだろう。次にはそれを書く。



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