いざ、シェリンガムへ1
エドガルドの元を離れてから間も無く、ローズは実家にあるものよりも格段に豪華な馬車に乗り込んだ。
ローズはジェイクと向かい合わせで腰をかける。最初こそ、シェリンガムの王子を目の前にしていることや、座り慣れないふかふかな座面の滑らかな手触りにソワソワしたり、馬車を守るように並走する騎士団員たちの物々しさに圧倒されたりしていた。
しかし、ジェイクは身分を明かした後も、自分が知っている彼となんら変わりなく、馬車が街を出て雄大な平地をどんどん進むうちに、ローズは徐々に落ち着きを取り戻していった。
「動物の群れがあちこちにみられますわね。……あっ!あの大木のそばにいるのは、子供の頃、図鑑でみたことがありますけど……なんというお名前でしたでしょうか」
窓の外に広がる夕暮れの橙色に染まった大地をうっとりと見つめていたローズは、大木の木陰で休んでいる自分の体くらいの大きさで、手足や耳も長い茶色の動物を指差した。ジェイクの肩に座っていたフェリックスは羽をはばたかせて、ローズの顔の隣に並ぶと、同じ目線で指を差した先にいる動物の姿を確認する。
「どれどれ? あぁ、シャインか」
「そんなお名前でしたか? もっとこう、ドドンと強そうな」
「あれはどう見てもシャインだって。見た目はデカいけど、性格は穏やかだから飼っている人も多いし、子供でもわかるくらい誰でも知ってる動物だろ? 逆にお前、なんで知らないんだよ」
「……叔父様の家では飼っていませんでしたから」
フェリックスに指摘され、ローズはほんの数秒言葉に詰まってから、そんな言い訳をし、自然と顔を俯かせていく。
ローズは叔父の家から許可なく出ることが許されていなかったため、叔父の家が世界の全てだった。
先ほど図鑑と言ったが、それもアーサがいた頃の話であり、それらはすべてミレスティによって取り上げられてしまった。そのため、アーサから学んだことや図鑑を読んだりして得た昔の知識がぼんやり残っている程度だ。
「従姉妹に世間知らずって言われてたけど、あながち嘘じゃ……」
フェリックスの何気ないひと言に、ローズの胸がちくりと痛んだ。腕を組んで、ちょっぴり呆れたように呟いたフェリックスの頭を、ジェイクが後ろから突っつく。
「少し黙っていろ」
「ジェイク、何するんだよ!」
「知らないなら、知っていけば良い。これからローズにはいくらでもそのチャンスがあるんだから」
誠実に響いたジェイクの言葉にローズはハッと顔をあげる。心の中で心地の良い温かさが広がっていくのを感じながら、ローズは穏やかに微笑むと、窓の向こうに人工的な建物が見えてきたため、パッと目を輝かせた。
「……あっ、町が見えてきましたわ!」
浮遊していたフェリックスも、ローズの肩に降り立って、「あれはオスコルって町で、この町を抜けるとようやくシェリンガムに入ることができるんだぜ」と説明する。
「シェリンガムまで、本当にあと少しなのですね!」と声を弾ませて、楽しそうに笑うローズに、ジェイクも小さく笑ってから、気持ちを切り替えるように話しかけた。
「とは言え、シェリンガムの首都まではまだまだ道のりは遠い。今夜はオルコスに泊まることにしようか」
馬車は町に入った後、周りと比べると比較的大きな三階建の建物の前で停車する。「ジェイク様、宿泊先へ到着いたしました」とイヴァンテによって開けられた馬車の扉からジェイクが降りると、ローズもジェイクの手を借りつつ、外へと出た。
「長閑だけど、素敵な街並みですわ」
民家や商店の建物も古びていて、町並みに派手さはないが、商人や旅人のような姿が多く見受けられるためか、とても活気がある。
「部屋はもうひとつ取れたか?」
「はい。部屋のグレードは少し低くなりますが、そこしか空きがありませんでしたので、申し訳ございませんが、ひと晩我慢いただけたらと思います」
ジェイクの問いにイヴァンテが答え、そしてローズに頭を下げた。そこで自分の分の部屋の話だとローズは気づき、慌てて両手をふる。
「わたくしは平気です。横になれる場所がありさえすれば、屋根裏でも物置でも、どこでも眠れますから」
「屋根裏だなんて、とんでもない! ジェイク様の婚約者候補である大切なローズ様に、そのような場所で眠らせるわけにはいきませんよ」
面白いお嬢さんだといった様子でイヴァンテが「ははは」と笑うが、ローズはその屋根裏部屋で自分はこれまで生活してきたのだけれどと、弱々しく笑みを浮かべる。
そして「婚約者候補」というひと言がローズの心に引っかかる。改めてその言葉の重みを噛み締めて、湧き上がってきた不安に唇を軽く噛んだ。
ほんの少し顔色を変えたローズを横目で気にしつつ、ジェイクが話を切り出す。
「部屋に行く前に、町で服を買いたい。流石にその格好のまま、ローズをシェリンガムに連れていったら、勘違いされそうだ」
「そうですね。それでは婚約者候補ではなく、侍女志願者に思われてしまいます。仕立て屋の店主に声かけを」
ジェイクの指摘を受け、イヴァンテが控えていた騎士団員のひとりに声を掛けた。走り出した騎士団員の後ろ姿から、聖女宮の女中服のままの自分へとローズは視線を移動させ、「確かに」と小声で同意した。
「こっちだ」とジェイクに促されて、ローズも彼に続いて歩き出す。後ろからイヴァンテがついてくるのを肩越しに振り返ってから、ジェイクを守るように周りに点在している騎士団員たちも一人一人辿るようにぐるりと見回す。
目の前にいる彼は間違いなく本物の王子様なのだと、実感せざるを得なくなり、世間知らずな自分なんかが、このまま婚約者候補としてついて行ってしまってきてしまって本当に大丈夫なのだろうかと、どんどん不安が膨らんでいく。
ジェイクと目が合い、「おい」と呼びかけられた瞬間、ローズは何かに躓き、「わわっ」と声が出た。前のめりに倒れそうになったローズの体を、ジェイクが支えるようにしっかりと掴み、ローズを転ばせずに済んだことにジェイクは小さく安堵の息をつく。
「道が悪いから気をつけろと言おうと思ったんだが、少し遅かったみたいだ」
道は長四角の石が敷き詰められているのだが、ジェイクの言う通り、所々浮き上がってしまっている。それに足を取られたのだと理解し、ローズはジェイクに微笑みかけた。
「ありがとうございます。注意して歩きますね」
「まぁ、注意していても転ぶときは転ぶ。そうならないように掴んでおけ」
そう言って、ジェイクは腕を曲げて、どうぞと促すような眼差しをローズに向ける。
「ジェ、ジェイク様の腕を掴んで、よろしいので?」
ローズが思わず確認すると、ジェイクは当然のように頷く。本人の許可があっても、王子様に気安く触れしまったら不敬罪を言い渡され、首を跳ねられてしまわないだろうかと怖くなり、ローズは後ろにいるイヴァンテの顔色を肩越しに確認する。すると、イヴァンテは素晴らしいといった様子で、涙を目に浮かべて、ジェイクとローズを見ていた。
イヴァンテがどういう感情なのかは読み取れないが、無礼だと怒られることはなさそうだと判断すると、逆に、ジェイクの厚意を受け入れない方が失礼にあたるのではという考えが生まれる。
「そっ、それではお言葉に甘えまして……失礼いたします!」
これまで自分から男性に触れる機会がなかったため、ローズは緊張感に襲われる。
恥ずかしそうに頬を赤らめ、慣れない手つきでぎこちなく腕を掴んできたローズを、ジェイクは穏やかに見つめて、「しっかり掴んどけよ」と優しい声で囁きかけた。




