拝啓 闇の中から縁故が見えた(最終パート)
「おや、そうでしたか。やはり、彼は生きていたと……大変ご苦労様でしたねえ。繰り返すようですが、間違いないのですね」
「そういうことになりますかね。俺は仕事と名の付くものに手を抜かない主義でしてね」
イヴァン中心部、行政府エリア内の特別ラウンジ。帝国貴族二十家に匹敵する権威を持つ者のみが、このラウンジを使うことが許される。ライト・リッチマンにとって、ここで優雅に紅茶を楽しむくらいはわけもないことだ。そして彼のボディ・ガードにも。
「彼から、噂だけは聞いておりましたからねえ。そして……『断罪人』のことも。『同じ顔を持つ者』は、そう何人もいるものではありません」
「……そんなもんですかね」
向こう側から足音。広いラウンジは、リッチマンによって貸し切り状態だ。良く響く靴音。
「どうも、ミフネ局長。お呼び立てして申し訳ありません」
「リッチマン先生、行政府でしかも昼間に会うというのは、いかがなものかと……」
「御心配には及びませんよ。人払いは済んでいます。……それより、例の公共事業の件なのですが」
ミフネにとってみれば、気が気ではあるまい。既に彼の元には、候補地における殺人事件は耳に入っている。そして、息子のメルヴィンが、早々にそれを握りつぶしたことも。
「我々は、今回の事を危険な兆候と見ています。……これではまるで、殺人が仕組まれたかのようではありませんか」
「……先生、おっしゃることはわかりますが……」
リッチマンの言葉に、ミフネは過敏に反応した。今彼に見捨てられれば、どうなるものか。公共事業、成功したあかつきに約束される出世。すべてが台無しになる。しかし、リッチマンには関係のないことである。公共事業を名目に、リッチマングループによる巨大宿場町を形成、ホテルの収益によって土地を国から買い上げる。今は、国に対してその土地を造成させているに過ぎない。リッチマンによる出資は、それ以降の話だ。彼の懐はまだ痛んでもいない。
「先生、あの時仰った『都合のよいこと』とは、この度の事件とは違うのですか」
「そのようなこと、申し上げましたかねえ。……いけませんね、忘れっぽいのは僕の悪い癖」
「先生! 此度の事件は既に、息子のメルヴィンが責任をもって対処しております。先生や先生の会社にご迷惑をかけることはないかと」
リッチマンは顎に手を当てて、ふっと笑みを見せた。
「責任。ま、そういうことなのでしょうね。今回の公共事業の失敗は、あなたが責任を取ることになるのでしょう。……しかしそれではあまりにあなたが不憫だ。……僕のボディ・ガードとして雇っている、クド君をお貸ししましょう。……分かりますか、局長。あなたはもはや失敗できないのですよ。危機感を持たねばなりません」
「はい」
ミフネの顔色は既に真っ青となっていた。リッチマンは自分を見捨てかけている。いつでも切れるのだ、と宣告したに等しい言葉の数々。彼にはもはや後が無い。
「局長、何度も言いますが、もうあなたには後がない。あなたの息子さんにもね。……僕もあなたを見捨てるような真似はしたくありません。そのつもりでクド君を貸したことを、ゆめゆめお忘れなきよう……」
局長の姿が消えた後、リッチマンはクドを見た。リッチマンのもう一つの懸念の一端を、彼は掴んでいたのだ。割りばし屋のクドの裏の顔、そしてリッチマンの裏の顔──二人の男の持つ裏は、同じものだ。そしてそれに付き従う者たちも。その裏の顔が持つ懸念。
「さて、ここからが大変でしょうねえ。……クド君、あなただけが頼りです。よろしくお願いしますよ」
「なんですって……本当なのですか、それは」
ミフネ家、応接間。ミフネ局長の屋敷は広い。魔国出身の名門であるミフネ家は、首都がこのイヴァンになった時から、この屋敷を維持し続けている。権威の証。その奥部。
「本当だ。……おそらく、もう待てぬということだろう。時間切れだ」
メルヴィンはソファに身を沈めながら肩を落とし、うなだれた。自分の心配りは無駄に終わろうとしている。そして、新たな局面に足を踏み出さねばならぬこの状況が始まろうとしているのだ。
「メルヴィン。お前にはリストと地図を渡してあるな。どうなのだ。あと立ち退きに反対するものは何人いる」
「ひ……一人だけです」
「一人……もう半年以上前から交渉を続けているからな。金ではもはやなんともならんだろう。転ぶなら既に転ぶだけの額を出しているはずだからな」
メルヴィンは喉がつかえそうになり、再びうなだれる。筆頭官吏になったのは、このうだつのあがらぬ自分の人生において、唯一のチャンスだった。優秀な兄二人といつも比べられ、
お情けで入れてもらった憲兵団でくすぶってきた自分が、筆頭官吏になれる確率など、本来なら髪の毛ほどもないはずだ。
なんとかしなくては。兄たちのように、有能さを示さねば。
「……父上、先ほど、クドという男を連れてまいりましたね」
「ああ。……『貸して頂いた』」
「ならば、どのような事もやるのでしょうね。……例えば、汚れ仕事も」
息子と同じようにうなだれていた父親は、はっと顔を跳ね上げた。息子はもはや無能者の三男坊の顔ではなくなっていた。そこにいたのは、野心に燃える覚悟を決めた筆頭官吏であった。
「邪魔ならば、消えていただきましょう。……既に一人死んでいるのです。二人とも『皇帝殺し』にするくらいなら、今の私ならたやすい事」
「マリアベルさん」
「はい?」
ドモンが喫茶やすらぎに入ると、ちょうど店は開店準備の最中であった。ドモンは思わず店の中を見回す。何も起こっていない。従業員はまだ来ていないのだろう。マリアベルも無事だ。
「君、何か身の回りでおかしなことは起こってませんか。嫌がらせとか、そういうの……」
「ドモン様が立ち退けとおっしゃるのなら、話し合う余地はありませんよ」
「そうじゃありません。知らないんですか? この先の路地で殺しがあったんです」
ドモンはさりげなくマリアベルの背中に手を添え、店の奥へと招き入れた。ここならば、余計な話は聞こえない。
「……その人は、立ち退きの返事を保留にしてた。保留です。断ったわけじゃないんです。なのに殺されたってことは……相手は相当切羽詰まってる。いますぐ、帝都を出て……」
「お断りします」
マリアベルの決意は固かった。まっすぐな、純粋な瞳が、ドモンを射抜いた。いいかえすだとか、見つめるだとかそういう次元の前に、ドモンは目を合わせることもできなかった。
「もう、帰って頂けませんか。開店準備があるんです」
「セリカに何を話したんですか」
厨房へ入っていくマリアベルの背中に、ドモンは必殺の疑問を投げかけた。自分でも、そんなことを聞かないほうが良いことはよくわかっている。言わなければ、何も起こらなかっただろうということも。
「ドモン様。生き方は変えられない。あなたに助けられたあの日から、あなたのために、それだけのために生きられたらどんなにも幸せかと思って生きてきました。誰に後ろ指を指されようと、その気持ちは変わりません。……ですからどうか、私をこのままでいさせてください。せめて、あなたにいつでもコーヒーをふるまえるような私でいさせて欲しい。ほかは、何も望みませんから……」
マリアベルの姿が薄暗い厨房へと消えた。ドモンは宙を掴みかけた手を下ろす。短剣の柄の尻が手に触れる。その冷たさにぞっとして思わず自分の手を見つめた。何もない。今、彼にできることは何もないのだ。
ドモンはゆっくりと喫茶やすらぎの扉を閉める。今自分にできることは、自分の最悪の想像が彼に及ばないようにすることだけだ。ドモンは憲兵団本部を目指し、足を踏み出した。
「そりゃ、一体どういうことですか」
「ドモンさん、落ち着いて……」
「これが落ち着いていられますか。人が死んでるんですよ!」
「先輩、落ち着いてください!」
ドモンが思わず掴みかかりそうになるのを、ジョニーが後ろから羽交い絞めしていた。それほど納得のいかぬ命令であった。筆頭官吏たるメルヴィンが下した決定、それは今回の事件について『皇帝殺しゆえ、いかなる捜査も不要である』というものであった。メルヴィンは努めて冷静な調子でそう告げるばかりであった。
「これはヨゼフ団長も折り込み済みのことですから、覆りませんよ。……それにしてもドモンさん、あなた何を必死になっておられるんですか?」
「……なんですって?」
「イヴァンで一日に起こる事件は膨大な量です。今回の殺しも些細なものだ。せいぜい物盗りのようなものでしょう。やるべきことは、もっと他に山ほどあるのでは?」
あまりと言えばあんまりな物言いであった。メルヴィンは有能な憲兵官吏と言えないかもしれなかったが、少なくとも自分ができることをしようという仕事に取り組む姿勢は、本物だったはずだ。
「あんた、そういう人間じゃ無かったじゃありませんか」
「……今の私は君の上司に当たるんですよ、ドモンさん。口を慎みなさい。……とにかく、今回の事件については捜査不要です。もしこのことを破れば、あなたの立場についてお約束はできなくなります。……意味は分かりますね?」
ドモンには守るべきものがあった。家族が、生活が、偽りの仮面があった。憲兵官吏でいるのは、ただそうした立場を守るためのものだ。捨てられるのなら全て捨ててしまいたいが、そうするにはドモンはあまりにも得すぎてしまった。
彼はゆっくりと握りこぶしを下げた。憲兵官吏のドモンには、そうするほかなかった。
小さな茶室。応接セットだけがある、特別な部屋。押し込められるように入ってきた男に、リッチマンは声をかけた。
「お初にお目にかかります。あなたが傘屋のレドさんですね。……さあ、どうぞおかけになってください。紅茶はお好きですか?」
レドは差し出された紅茶を見向きもせずに、目の前の男──ライト・リッチマンの目を見た。目じりの下がった笑顔。作り物の笑みの奥の闇を見る。少なくとも、堅気ではない。
「……失礼ですが、あなたはいったい何者ですか」
彼はかなり警戒していた。それも無理はない。いきなり家を出る直前に、馬車に乗りつけられ、屈強な剣士数人に取り囲まれ、乗れと強要されたのだから。彼は腕の立つ殺し屋であるが、正面切って数人の男を殺せるほどの腕は持っていない。
「警戒せずとも大丈夫ですよ。……僕はあなたのことをよく知っている。あなたのお父上の事もね」
ただの傘屋だった目が、殺し屋特有の暗い赤錆びた瞳に変わる。レドは間髪入れずに言った。
「……三度は言わない。何者だ、あんた」
「レドさん。あなたは殺し屋。それもあの『断罪人』の一人だとか。……お父上は、あなたの事を心配しておられる。そして、あなたの事も探しておられた。……僕の友人の一人が、君を見つけ出してくれたのは、何かの縁なのでしょうねえ。ああいけない。お節介を焼きたがるのが、僕の悪い癖」
リッチマンはそう笑ったが、レドは既に身に着けている黒い着流しの懐へと手を突っ込んでいた。父親が探しているとは、本当だろうか。一抹の迷いが生じる。この男を本当に殺してよいものかどうかを。
「……その得物は、出さない方がよいでしょう」
レドはまるで縫い付けられたかのように、手を止めた。
「この部屋の外には、僕のボディ・ガードが山ほどいます。勝ち目のない戦いを挑むのは賢い者のやり方ではありません。何より、そのような事であなたが命を落とすことを、お父上は望んでおられない」
「俺の親父はどこにいる」
彼にできることは、少しでもこの状況から情報を引き出す以外になかった。断罪人であることも、父親の影を追って殺し屋になったこともすべてこの男はお見通しだ。敵か、味方か。それを見極めねばならない。
「お父上は、いずれあなたに会いにイヴァンに来ることでしょう。僕もそれを支援している立場です。……悪いことは言いません。断罪人など、辞めておしまいなさい」
「なぜそんなことを言う」
「決まっています。……お父上もまた、殺し屋ですから。仲間でない殺し屋は、いずれ全て駆逐せねばなりません」
「あんたも『それを支援』するのか」
「そこまではお答えできかねますねえ」
湯気だっていた紅茶が冷める。
こいつは敵だ。
レドは直感的にそう考えた。いずれ、ジョウや、アリエッタや──ドモンを殺しに来る。それがいつになるかはわからないが、そう遠くない日に来る。
「……悪いが、あんたの言うことが本当かどうか信じられない。親父があんたの仲間だってこともな」
「そうですか。……とても残念です」
レドは意を決して立ち上がり、狭い出入り口へと向かった。殺しはしない。今は、ほかの三人の事が気がかりだ。
「ああそう、最後にひとつだけ」
茶室の主人は笑顔でおおげさにそう言った。
「あなたたちは、殺しの事を『断罪』と呼んでいるとか。……近々『断罪』の依頼が入るはずです。ほかならぬ、私のせいで」
「何?」
「……国土開発局のミフネ局長。僕のビジネスパートナーだったのですが、困ったことにそれで権力を持ったと勘違いし始めましてねえ。筆頭官吏の息子も使って、地上げまがいの事を。……殺し屋まで使っているとか言う噂もありましてね」
「なぜ今、それを俺に言う」
優雅に紅茶を口に運びながら、リッチマンは笑みを見せて言った。
「君のお父上と僕は、切っても切れない縁です。つまりは息子である君ともそのはず。……何より君に、僕が敵ではないということを知ってもらいたかった」
レドは顧みもせず、茶室の外へと出て行った。これでよい。リッチマンはかぐわしい茶葉の香りを楽しむ。そして、ミルクポットから冷え切ったミルクを紅茶に入れた。まじりあい、底は見えなくなる。
「本当の目的は見せてはならぬもの。たとえそれが、誰かの犠牲と共にあったとしてもね」
ドモンは結局、メルヴィンを説得することはできなかった。
普段ならば、そのまま家に帰るような時間になっても、ドモンの姿はヘイヴン近くにあった。コーヒースタンドと、閉店直前だったホットドッグの出店。それぞれの主人を小突いて、袖の下替わりの食料を補給。乗り込むことにした。
喫茶やすらぎは、夜遅くまで開いている。
昼間はその名のとおり、コーヒーや軽食を出しているが、夜はこじゃれたバーになるのだ。最近は従業員を減らし、バーはマリアベル一人がやっているという。
狙われるとすれば、その時間帯以外にあるまい。既に周りに人通りはなく、魔導式ランプがおぼろげに夜道を照らしている。ドモンは構わず、扉に手をかけた。鍵がかかっている。よく見ると、閉店の札が扉からぶら下がっているのだが、明かりはついているのだ。妙であった。ドモンは直感的に腰に帯びた長剣を抜き、扉を蹴り開けた!
「……てめえら!」
椅子に縛り付けられていたのは、マリアベル。そして、そこに剣を携えた男が二人。ドモンの気迫に気圧されたか、剣士達は振り返りざまに剣を抜く! ドモンは一人目の剣士の刃を受け流し、二人目に体当たりを食らわせ、マリアベルの元へとすり抜けていった。男たちはしばらくじりじりとドモンの様子を窺っていたが、やがて逃げるように踵を返し、外へと駆けて行った。
「大丈夫ですか」
剣を納めると、ドモンは椅子に縛り付けられていたマリアベルの縄を解いてやった。頬は赤く腫れ、口の中を切ったのかわずかに口端から血の筋が流れていた。
「ドモン……様」
「分かったでしょう。……君はもうこの街にいられない。僕ができるのは、君を生かすこと以外にありません」
彼は有無を言わさず、マリアベルの手を引っ張った。二人は等間隔で照らされた夜の通りを駆ける。たった二人の逃走劇。滑稽だという者もいるだろう。無様だと罵る者もいるだろう。嘲る者もいるだろう。だが二人は走った。お互いの信頼だけを担保に、生きるために。
「この時間帯、大門はどこも開いてませんよ」
走り続けた二人は、大門近く、城壁のあるあたりまでたどりついた。マリアベルは手をつき、息を整えながら言った。
「分かってますよ。……一晩、どこかで身を隠しましょう」
「……ドモン様、なんで、私を」
マリアベルにとっては、当然の疑問だろう。ドモンはどこか自虐的な笑みを浮かべながら、言葉を返した。
「……僕は、カミさんの事、愛してるんです。世間への建前だろうって言われても、仕方のない扱いかもしれませんがね」
「なら、奥様に言って差し上げたらどうですか」
「確かにそうかもしれません。でも──」
ぱきり。空気が砕ける音。木が割れる音。風が一陣駆け抜ける。マリアベルが膝をつく。まっすぐにこちらを見つめたまま。
「……マリアベルさん?」
返事はない。頭を塀にゆっくりと押し付け、体ごとよりかかったまま、マリアベルは動かぬ。ドモンは何が起こったのか全く分からず、ただマリアベルを抱き寄せた。まだ温かい。
「……あんたが悪いんだぜ、ドモンの旦那」
暗闇の中に影が居た。漆黒の丸眼鏡をかけた、背の高い男。白いストライプのスーツを着込んだ、やせた男。血の付いた、鋭い割りばしを握り込んだままの男──。
「上の人間は、あんたの動向をよく見てたって事さ。手段は選ばない。──駆け落ちの末の自殺なんて、よくあることだろう? ……死んでもらうぜ」
男がマリアベルの血で濡れた割りばしを振り上げるのを、ただ見ていた。マリアベルの力は抜けきり、どこか軽くなったかのようにすら思えた。こんなことは嘘だ。ありえないことだ。殺されようとしている自分を省みもせず、ドモンは口の中で呟く。
その時であった。闇夜を裂いて、殺し屋の目の前を何かが通り過ぎた。市松模様の羽がついた、鉄骨が塀に突き刺さっている。殺し屋は舌打ちすると、月明かりでわずかに消えた闇にたたずむ男の姿を見た。その男も、自分を見た。
クドは、その男の正体に気付いた。男も、クドの正体に気付いたようであった。クドはそれに笑いながら、闇へと消える。
すべてが一瞬であった。ドモンはマリアベルに慰めの言葉すらかけてやることができなかった。優しい嘘でさえも、彼は吐いてやることをしなかったのだ。
君の事を愛してる。一緒に逃げよう。
嘘でもそう言ってやれば、彼は考えを変えたかもしれない。間に合ったかもしれないのに。
ドモンの中に渦巻いたのは、マリアベルへの後悔の感情。そして、こらえようのないすさまじい怒りと、殺意であった。涙は出なかった。彼の悲しみは、既に枯れて久しかった。いや、そう思うようにしていたのだった。
「……あんたは、悲しくないのか」
暗闇から現れた闇。彼にとって、レドの姿はそう映った。レドは冷静に塀に突き刺さった鉄骨を抜く。市松模様の羽をパズルのように変形させ、ネクタイピンへと戻す。よどみない動作。機械的な男。
「大事な人だったんだろう」
「……悲しいですよ。悔しいです。……でも、なんででしょうね。何も出てこないんですよ」
「我慢するな」
レドの言葉に、ドモンは顔を挙げた。作り物のような、陶器めいた肌。しかしその眼は確かに、人間であった。
「殺し屋に、誰かを悼む気持ちがあってもいい。……違うか?」
彼はどんどん体温の失われていくマリアベルの体を抱き寄せた。涙が一筋流れた。人間性という水源を絞り上げて出てきた一滴のしずくのようであった。
鬼になろう。
ドモンにとって復讐の代行──断罪人は、職業だ。金を稼ぐ手段だ。殺しが趣味なわけでは断じてない。
しかし、今度ばかりは、事情が別だ。僕は喜んで人を殺すだろう。そのために、鬼になろう。他ならぬ自分の復讐のために、地獄の炎で身を焼く鬼になろう。
「……つなぎはもうついてる。一歩遅かったが──代わりにからくりは見えた。二本差し。あんたもやるべきだ」
ドモンは自身のあだ名である『二本差し』の象徴──腰に帯びた長剣と短剣の柄にそれぞれ手を触れる。ぞっとするほど冷たい柄が、にわかに熱を帯びたように思えた。
「……行きましょうか」
彼はマリアベルの体を背負い、言った。許しは受け入れてもらえぬだろう。マリアベルの体の重さは、おそらく自らの罪の重さなのだ。
廃教会。折れた巨大十字架オブジェ。割れたステンドグラス。神のおわす場所。そう信じている、かしずくシスター。
レドは自らが見聞きしたことを、仲間たちに言って聞かせた。ミフネ局長と筆頭官吏のメルヴィンの企み。──そして、似たような友人と思っていた男──割りばし屋のクドの正体。
「レドの情報の裏はもう取ってある。……今回、旦那が地上げを担当してたろ。現在の進行状況を知ってるのは、旦那が報告を挙げてたメルヴィンだけだ。つまり、彼がクドにマリアベルさんを殺すように指示したってことになる。それに今回の事で工事入札の準備は整ったんだけど、リッチマングループは工事入札の参加を見送るらしい。依頼人は、工事による利益でリッチマンが増長するのを懸念してたらしくて、これはこれで問題ないってさ」
「では、そのリッチマンと言う男の言い分を信じるのですか?」
見上げるような長身巨躯。くすんだブルーの前髪で瞳を隠したシスター・アリエッタは、どこか納得のいかぬといった様子でそう述べた。
「リッチマンは、工事から手を引いた。つまり今回のことで利益なんてこれっぽちも得てないんだ。……そりゃ、怪しいは怪しいけど、疑わしい者にまで断罪するなんて、僕らのやり方じゃない。違う?」
ジョウは肩から下げたカバンから金貨を取り出し、腐りかけの聖書台へと並べた。その数二十枚。ドモンは誰よりも早くそれに近づき、手を伸ばした。
「……旦那。ミフネ親子は自分達のやったことを理解してる。どっからか、傭兵を五・六人雇って自宅を警備させてるみたいだ。……クドとかいう殺し屋も一緒にいる。闇雲にとびかかっていくのは……」
金貨を手に取り、いつものように羽織ったジャケットの右袖の中にある隠しポケットへとしまい込む。ドモンは振り返り、ジョウを見た。深い隈に覆われた、闇より深く暗い瞳で。
「……メルヴィンは、僕の同僚です。それに、どこか他人みたいな感じがしないんですよ。まるで、もう一人の自分を見ているような……だから、野郎は僕が殺ります。誰がいようと、関係なんかありませんよ」
ドモンはそれだけ言うと、廃教会の扉を押し開け、屋根の崩れた聖堂から出て行った。言葉にせずとも、彼の怒りの残滓が空気に漂っているような気すらした。
「……行きましょう、ジョウ」
いつの間にか、レドも居なくなっていた。自分の取り分をとったアリエッタは、ジョウの取り分を手に載せて差し出していた。
「アリー、色街には行かなくていいの」
ジョウの言葉にアリエッタは悲しげに頭を振る。彼女を待つ者は、あの歓楽街にはもういない。
「今はドモンさんのほうが心配ですから」
そう静かに述べると、心優しきシスターはふっとろうそくを吹き消した。暗闇が聖堂を呑み込み、後には何も残らなかった。
「……父上、なぜそのように警戒なさるのです。我々は目的を達したのですよ」
ミフネ局長は、うろうろと部屋の中をうろついていた。何かが落ち着かない。リッチマンの願いはすべてかなえた。工事入札の準備も整っている。しかし、何かがおかしい。リッチマンは何も言ってこない。それが気味が悪かった。
「だいたい、あのような傭兵どもをどこから雇ってきたのです」
「クド殿にわたりをつけてもらったのだ。帰るというので、この身が不安でな……。それにお前も憲兵官吏なら、知っているのではないか? 断罪人の噂を……」
断罪人。金で殺しを請け負い、恨みを晴らしていくという殺人鬼ども。メルヴィンは笑う。既に彼は、うだつの上がらぬ一憲兵官吏ではない。目的のためなら命も取る、有能な筆頭官吏なのだ。
「ばかばかしい。……父上、考えすぎです。そんなものは都市伝説にしか過ぎない。だいたい、そう名乗るやつらは七年だか八年だかに、憲兵団で全滅させたのですよ」
「しかし……」
「父上、後の事は私にお任せを。……筆頭官吏には、それなりにやることが多いですからね。今回の事に関しては、特に……」
そう述べると、メルヴィンは部屋を出て行った。応接室のすぐそばに、傭兵どもの控室があるようであった。どうにも騒がしい。多少の酒を与えたようで、どんちゃん騒ぎをしているのだ。
「ばかばかしい……」
メルヴィンは中を覗かなかった。覗けば、傭兵たちに睡眠薬入りの安酒をふるまう、金髪で鼻の頭にそばかすを浮かせた小柄な女──化けたジョウの姿を見ることができただろう。
応接室から窓の外を覗く。周りには誰もいない。屋敷の中には傭兵がいる。リッチマンの願いはすべて叶えた。貸し借りなしだ。
「これで……これでよいのだ。この身だけは安全のはず……」
ミフネはランプの灯を消し、カーテンを引いた。もう寝てしまおう。寝室へ向かおうとした彼の目の前に、巨大な影が伸びる。カーテンの裏に誰かがいる。巨大な誰かが。
「く、くせも……」
カーテンを破り、何者かの手が伸びミフネの顔を掴む! ごり、ごりと骨が砕ける音が脳内に響く。
「神の慈悲の届かぬ場所へ、ご案内いたしましょう」
女の声であった。叫ぼうとしたその瞬間、顔を掴んでいた手が口に張り付く! 悪鬼のごときその姿。赤く渦巻いた両目を晒した、シスター・アリエッタの姿! されるがままにひきずられ、あれよあれよという間に屋根の上へ!
アリエッタはミフネの頭を片手で持ち上げると、そのまま屋根に頭を強かに叩きつける! 頭蓋陥没! そしてそのまま両足をがっちりと両脇に固めると、まるで地面から生える風車のごとくミフネの体を回転させ始めた! これぞ現代で言うジャイアントスイングである!
「たすけてくれーっ! はなしてくれーっ!」
「お望みとあらば、そういたしましょう!」
断末魔が夜空へ伸びる。ミフネは結局屋根から吹き飛ばされ、遠く離れた通りに落下し、全身の骨を砕かれ即死!
クドは任務を達した。しかしそれに何の感慨も無い。彼は仕事を仕事と割り切っている。私生活と区別をつけることが、彼の流儀なのだ。
「……レドじゃないの」
通りの中央で、彼は立ち止まる。白いソフト帽をに手を当て、紙巻きたばこを咥える。
「よくわかったな」
レドが、まるで闇から生まれたように姿を現す。クドと対を成すような、闇夜に溶ける黒いスーツに赤ネクタイ。
「俺を殺しに来たかい、断罪人」
「だとしたらどうする」
「殺す。俺も殺し屋なんだ。無抵抗に死ぬことはしねえさ。……敵対されたら親でも殺す主義でね」
クドの黒い眼鏡に、レドの白い顔が写る。彼は袖の内からケースを取り出し、中から真新しい割りばしを取り出し、口にくわえた。そのまま力を込めて手で割る。ノミのように鋭い割りばしを、右手に握り込む。
レドもそれにこたえるように、持っていた赤い傘の留め具を外す。
「……親父さんは生きてる。それに、お前に会いたがってる」
クドは割りばしを握り込んだままそう言った。レドは動かぬ。眉一つ動かさない。風が二人の間を駆け抜ける。二人は一歩ずつお互いへと近づいていく。
「親父さんは恐ろしい人だ。殺ると決めたら必ず殺る男だ。……だが、味方になったらこれほど頼もしい人もいないぜ」
「何が言いたい」
数歩先にお互いがいる。踏み込めば、殺しの領域に入る。一瞬ですべての決着がつく。
「仲間になれよ、レド。親父さんもそれを望んでいる」
レドは傘のハンドルを右手で握りしめる。傘の本体を左手で。
「断る」
返事の代わりに、クドは割りばしでレドの腹を狙う。しかし、レドはクドの腕を握りしめた傘で受け止める! ハンドルを捻じると、本体からハンドルが外れ、鋭い針が現れた! その針を、クドの首へと叩きこむ。深々と突き刺さる針。割りばしを取り落とすクド。レドが針を抜く。真っ赤な血染めの針を傘の本体へと戻し、きれいに傘をまとめて留めた。
クドは前のめりに倒れる。そのわきを、何事も無かったかのように歩いてゆくレド。ころころと紙巻きたばこが転がっていった。風に吹かれ、クドの白いソフト帽が巻き上げられ、闇へと消えた。
まだまだ寒い夜が続いている。
メルヴィンは憲兵官吏の証である白いジャケットを羽織りなおし、一息をついた。父親の手前強い態度に出たが、彼は疲れ切っていた。なれぬ仕事の連続だからだ。
街路樹の下に、男が一人立っていた。吐く息が白い。首元には紫色のマフラー。
「……ドモンさん?」
「や、メルヴィンさん……ああ、失礼しました。筆頭官吏のメルヴィン様。いやあ、まだ呼び名に慣れませんねえ」
ドモンは両手を擦り、へらへらと笑いながらメルヴィンに近づいてきた。こんな夜更けに、いったい一人で何をしているのだろう。
「こんな時間にどうしたんです」
「や、まあいろいろと。……分かるでしょう? 筆頭官吏のメルヴィン様なら。出世したから何でも思い通りになるって野郎を待ってたんですよ」
ドモンはメルヴィンのわきを通り過ぎ、後ろへ背を向けて立つ。妙な雰囲気だ。
「何が言いたいんですか、ドモンさん」
「だから。……ああ、分かんないんですかね? 金のためなら、人ひとり消しちまえってウジ虫野郎を待ってたんですよ」
メルヴィンはようやく自分の腰に帯びた剣の柄に手をかける。気づかれている。この男にすべて。自らの手で、今すぐ殺さねば。彼は剣を抜いた。背中から切り裂いてやると振り下ろすが、ドモンは既に短剣を抜いており、刃を受け流した。体勢を崩し、剣を話してしまうメルヴィン。地面に這いつくばる彼の頬に、ドモンは刃をぴたぴた当てた。
「ド、ドモンさん、私じゃないんです。これは、何かの間違いで、その」
見上げたドモンの顔は、完全な無表情であった。冷たい、ゴミでも見るような目をしていた。それはすべてメルヴィンへと注がれていた。
「刃を抜いたんなら、それ以上何か聞く必要はねえんだぜ、筆頭官吏のメルヴィン様……」
思わず跳ね起き、尻をついたまま後ずさる。立てない。
「待って、待ってくださいよ、ドモンさん……あな、あなたは憲兵官吏を……いや僕を殺すんですか。嫌だなあ、友人じゃありませんか、ドモンさん……」
涙を流しながら、メルヴィンは笑っていた。ドモンは短剣を逆手に持つと、背中に手を回しながら心臓めがけて短剣を突き入れる!
「関係ねえ。地獄に、落ちやがれ!」
刃を抜き、振って血を飛ばす。ぱたぱたと地面が血を吸っていく。ドモンは振り返りもせず、その場を去っていった。
ドモンが家に帰ると、珍しくリビングにはティナの姿しかなかった。ソファへと腰かけ、何やら縫物をしているようであった。
「セリカはどうしたんです?」
「お義姉さまなら、今日はもうお休みになりましたわ」
「そうですか」
ドモンはコートかけにジャケットをかけると、ティナのそばに腰かけた。ティナはそれがあまりに物珍しかったのか、まじまじとドモンを見た。
「……あなた。どこか、体調でも悪いのですか?」
ドモンはおもむろにティナを抱き寄せた。まるで離さぬと言ったように固く、彼女のことを。
「い、いったいどうなさったのですか?」
「……僕は、君の事、愛してるんですよ」
「はあ? ……き、気味が悪い……やはり、体調がおかしいのでは……」
そんなことを言いながらも、ティナはどうやらまんざらでもないらしく、ドモンの事を振りほどこうとはしなかった。今はそれでよかった。彼は自分の事を、既に人間であるとは思っていない。
だが、こうして帰る場所があって良いではないか。それが、恐ろしい嫁と妹がいる自宅でも、構わないじゃないか。マリアベルの最後の言葉を、彼は守って見せたのだった。
ドモンはしばらくそうしていたが、結局ティナが暑苦しいと振りほどき、その日は何もなく終わったのであった。そうして、いつもの夜がいつものように更けていった。
拝啓 闇の中から縁故が見えた 終




