拝啓 闇の中から隙間が見えた(最終パート)
二日が経った。ケインは何度か『題材』を物色したが、良い『題材』は見つからなかった。彼の女の好みはしばしば変わった。描きたい題材は一定するものではない。当然のことだ。だから、彼のおめがねに叶わぬ場合は、絵は描けない。当然のことだ。彼とミンジーの誘いに乗り、強引に女を犯す事に金を出す連中も、無駄足を踏むことになる。だが、ケインにとって重要なのは、描きたいという欲望を満たすことであって、金は何かと便利なミンジーをつなぎとめる手段でしか無い。
ケインが自宅に戻った直後、射抜くような速度で、声がケインの身体を射抜いた。忌むべき声。父親の声であった。
「いますぐ、ダイニングに来い」
「ご飯なら外で……」
「黙れ。今すぐ来るんだ」
ケインは父親を憎んでいた。彼は自分の絵を──自分を認めてくれないからだ。だから、できることなら彼の言葉になど従いたくなかった。しかし彼にとって父親は恐ろしい存在でもあった。彼は父親に一時的に屈することを認めねばならなかった。母親は彼のとなりでうなだれたままであった。どうやら、協力は期待できそうにない。
「貴様、この男を知っているだろう」
エシオがつきだした男は、顔を数発殴られ、ひどい有様であった。ミンジー。たった数時間前に別れたはず。腕利きの殺し屋に頼んだから、父親もおしまいだ、と話し合ったはずだったのに。
「あまり俺を舐めるな、ケイン。これは貴様の絵だろう。……お前の部屋のスケッチブックを見た。本に使った絵まで残していたのは、浅はかだったな。女をたぶらかし、他人に犯させている最中を描くだと? 正気とも思えん。貴様それでも男か? ローゼンバウムの恥晒しめが」
そう言い放つと、心底失望した表情で、エシオは出回っているエロ本と、ケインのスケッチブックを床に投げ捨てた。絶望と共に彼に沸き上がってきたのは、怒りであった。僕のスケッチブックを、床に。
「心底失望したぞ、ケイン。人様に迷惑をかけ、あまつさえ俺の顔に泥を塗ったな。分かっているのか。文部科学局は帝国の公序良俗を文化的に守る部署だ。それを貴様、分かっているのか!」
エシオは立ち上がり、ケインを殴った。床を転がり、ケインは赤く腫れた頬に触れ、鼻血が流れている事に気づいた。ケインにとって、もう何度か分からぬ父親からの叱責であった。彼の中で何かがぷつりと切れ、彼はふらつきながら立ち上がり、腰に帯びた剣を抜き、背中を向けていた父親に斬りかかった!
部屋着のままのエシオに、対抗する術は無かった。振り向きざまになんとか殴りつけようとするも、それより早くケインは刃を突き入れた。ケインの持つ剣の刃に、父親の暖かな血が伝った。
父親は刃を掴んでいた。生きようとする執念であった。唸りながら半死半生となった父親は滑稽に見えた。しかし、ケインは手を離そうとした。ほんの一瞬だけ、彼の中に後悔の念が去来したのだった。
手は離れなかった。誰かが固くケインの手を握っていた。手から剣の柄は離れなかった。ミンジーではない。彼は殴られた顔で地べたに転がったままだからだ。
「あなたが悪いのよ、あなたが」
その呪詛は誰に向かって放たれたものなのか、もはや誰にも分からなかった。ケインの剣を握っていたのは、ヨシノであった。唇の色は紫色、真っ青になったまま、彼女はケインに覆いかぶさるように、後ろから握りしめていたのだ。二人分の体重でずぶずぶと、ゆっくりと飲み込まれていく刃。失われていく父親エシオの命。彼は膝を付き、そのままうなだれ、動かなくなった。
「ケイン。あなたは何も悪くないのよ。あなたは、絵の才能を持って生まれてきたの。それを発揮したからといって、なぜ憲兵団に突き出されなきゃならないの?」
「……父さんは、僕を憲兵団に通報する気だったの?」
ヨシノは汗で張り付いた髪をかき分けながら、頷いた。母親はいつでもケインの味方であった。ヨシノも、ケインのためならばなんでも甘やかした。彼女の献身は、またも彼の人生を変えたのだ。ヨシノはケインのためなら何度も、何度でも人生を変えるだろう。
「げほっ……奥さん、しかし早まっちまいましたね」
エシオの死をようやく確認してから、ミンジーは太った身体をなんとか起こした。二人さえいなければ、エシオを蹴りつけてやりたいくらいだ。
「……あなたがケインのお友達ね」
「いや、悪友でさあ……それより、奥さん。旦那さんを殺っちまったのはまずい。憲兵団になんて説明するつもりなんですかい」
ケインもヨシノも、人殺しの経験など無い。今回とて、何か算段があってやったことではないのだ。ケインの胸中に焦りが生まれる。どうすればよい。どうすれば。
ヨシノは息子とは打って変わって、努めて冷静であった。既に普通の人間ではなくなってしまった。長く連れ添った夫を、殺したのだ。それも、愛する息子を天秤にかけた結果だ。後悔など微塵もしていない。
「あなた達、本を作りなさい」
「はあ? なにを……」
理解できぬといった様子のミンジーをよそに、ヨシノは息子を抱きしめた。正しく、二人は親子であった。たった今父親を殺したことを除けば。
「ケイン。あなたはこのようなつまらないことで人生を棒に振ってはなりません。あなたは絵で身を立てるのです。立派な絵師におなりなさい」
「でも母さん。まだ新作は描けてないんだ」
それもそのはず、ケインは新しい題材を見つけていないのだ。これでは新作を描こうにも描けない。女の体を想像で書いても、人の心に訴えかけてくるものは描けないのだ。
「あなたの父親は、まさにあなたの本を摘発しようとしていたのですよ。……しかもあの本は、よりにもよって憲兵団が手に入れたものとか。勘の良い者なら、あの人の死とあなたの本を結びつけるのは時間の問題です」
「しかし、一体どうしたら」
「簡単な事です。ミンジーと言いましたね。お前、前に作った本の余りはあるのですか」
ミンジーは懐からハンカチを取り出し、顔を拭いながら思案し、口を開いた。
「余りは作ってませんが、工員共にムチをくれてやりゃ、すぐに売り物になりまさあ。しかし、前の本と同じものになっちまいますが」
「構いません。とにかく本を刷りなさい。憲兵団の捜査のめくらましをするのです。……あの人さえいなくなれば、文部科学局がこのような本にとやかくいうことはなくなるでしょう。この苦境さえ乗り越えれば、ケイン、あなたは堂々と絵を描き本を作れるのよ」
三人の暗い算段を、さらに暗がりから覗く者がいた。黒い着流しの裏から、赤い生地が闇を裂いて動いた。闇から覗いた赤い閃光は、再び闇へと消えた。
その日、街に本があふれた。
あの時と同じ、ミハルの痴態が思う存分描かれた本が。以前と違ったのは、その本の冊数に制限がないことであった。彼女の痴態は、際限なく拡散した。
もちろん、文部科学局との合同捜査期間の内は、憲兵団も積極的に販売店の摘発や本の取り上げに躍起になったが、期間が終わってしまえばそんな義理はなくなる。取り締まりの手が緩まった途端、あっというまに、ミハルの本はイヴァン中に広がったのだった。
いつしかミハルがトレイン商会の女将である事は、周知の事実となってしまった。トレイン商会は陸運業ギルドのギルド長の座を追われ──取引先は風評被害の波及を恐れ、ひとつ、またひとつと離れていってしまった。
そして、ある日、ミハルは首を吊って命を断った。
「……こりゃ、自殺でしょうねえ」
ドモンは憲兵官吏として、その検分に立ち会った。駐屯兵がゆっくりと吊られた遺体を下ろすのを見つめられず、これで二人目の女房を失ったトーマス・トレインは、まるで一気に老いてしまったように意気消沈し、うなだれたままドモンに言い放った。
「女房の何が悪かったのですか」
「何って……」
「女房は騙されたのです。それが、こんな。こんなことが、こんな……」
壊れた機械のように繰り返すトーマス・トレインの小さな背中を、ドモンは遠巻きに振り返ることしかできなかった。やがて、トーマス・トレインも失意の後命を断った。看板が降ろされ、入り口が塞がれるトレイン商会の建物をみながら、ドモンはやりきれない思いを抱くのであった。
その日の深夜。
ドモンは寝ぐせだらけの収まりの悪い黒髪を、いつもよりつよく掻きながらため息をついていた。彼は今、南西地区の廃教会へと向かっていた。
彼は役人である。既に今日は仕事は終わっている。彼のもう一つの稼業──即ち、人々の復讐を代行する『断罪人』としての時間はこれからなのだ。
しかし、そんな稼業より彼は妻・ティナの事が気になって仕方がない。妹のセリカによれば、現在彼女は実家に身を寄せているらしい。ティナの実家は女の園。母親に二人の姉がおり、理由はともあれドモンの味方など期待できぬ。何につけても手厳しい妹のセリカですら、今あそこに近づくのは得策ではない、と言い切る程だ。時間が必要だろう。頭が痛かった。
「……一体なんだってんですか、全く」
傾きかけの扉を強引に開けると、ドモンは目の前の状況に目を見張った。レドが殺しの衣装──黒スーツに黒いシャツ、赤いネクタイを市松模様の鋭いネクタイピンで止めている──に身を包み、崩れかけの教会の壁へ背中をつけている。それはいい。しかし、そんな彼の喉を、アリエッタがわし掴んで壁に押し付けているのである。ただごとではない。
「何の騒ぎです、こいつは……」
ドモンの行き先を、ジョウの手が遮った。彼はハンチング帽をいつもより深く被っていた。まるで見られるのを拒んでいるかのごとく。
「旦那。……レドが勝手に依頼を受けてたんだ」
「依頼を?」
「ああ。それも『外道仕事』さ」
外道仕事。断罪人の掟には、金を貰って人を殺すという大前提と共に、生きていても世の中のためにならぬクズだけを殺すというものがある。いかに金を積まれても、身勝手な理由でクズでない者を殺せば、断罪とはいえぬ。……そして、掟を破ったものには、死あるのみ。
「レド。僕はつなぎ屋だぜ。このイヴァンでつなげない情報なんかあるもんか。勝手に依頼を受けるのは別として、外道仕事までやられちゃこっちの名折れになるんだよ」
レドはまばたきひとつしない。命を握っているはずのアリエッタのほうが、どこか緊張していた。このまま喉を握りつぶせば、レドは死ぬだろう。だが、本当にそれで彼は死ぬのか。得体の知れぬ恐怖であった。人はここまで、冷たくいられるものなのか。
「誰を殺ろうとしたんです」
「すでに殺ったあとさ。文部科学局のエシオ・ローゼンバウム」
レドはその名前が出てから、ようやく静かに口を開いた。
「俺は殺ってねえ」
「はあ?」
ジョウは細い目をさらに細めつつ聞いた。レドはアリエッタの存在をまるで感じぬがごとく、そのまま普段通り喋り始めた。
「エシオ・ローゼンバウムの殺しを依頼されたのは本当だ。金貨三枚で受けた。……だが俺が依頼人の事を調べている途中に、息子のケインが殺った。俺の依頼人とエシオの妻……確かヨシノとかいったが、そいつもぐるでな。憲兵団の捜査をごまかすために、本を作りまくれと言っていた」
聞き逃せぬ情報であった。ドモンはジョウを押しのけ、アリエッタの背中をたたき、手を離させた。
「本ってのはなんです」
「ご禁制のエロ本だ。……二本差し。あんたならよく知ってるんじゃないのか」
ドモンより先に驚きの声を挙げたのは、他ならぬジョウであった。彼はトレイン夫妻の無念を知っている。調査を行ってはいたが、どうしても本の版元がつかめずにいたのだ。それを偶然とはいえ、レドが。
「じゃ、じゃあまさか、題材の女をたぶらかしてたのは」
「ケイン・ローゼンバウムだろう。父親がそんなことを言っていた。俺の依頼人──ミンジーってのが人を使って本を作ってるらしい」
ジョウは確信とともに、腐りかけの聖書台へ、懐から取り出した革袋の中身を撒いた。金貨が雪崩て落ち、黄金の光を孕む。その数四十五枚。大金!
「調査経費でちょっと使っちゃったけど、充分でしょ」
「誰からの依頼です」
「トレイン商会の社長さん」
ドモンの脳裏に、あの小さな背中が蘇った。理不尽に妻を失ったトーマス・トレイン。根こそぎ全てを失い、自らの命も落としたあの老人。
「的は、ケインとヨシノ、ローゼンバウム親子。そして本をばら撒いてたミンジーって男の三人になるわけだ」
レドはスーツの裏ポケットから、金貨を三枚取り出し、同じように聖書台に置いた。彼の受けた依頼金だ。
「俺の依頼は無しになったが、本人に返す義理もない」
久々に両替のいらぬほどの大きな依頼に、三人は沸き立った。アリエッタは真っ先に自分の取り分十二枚を集めると、懐に押し込み、真っ先に外へ出ていこうとした。
「ちょっと、アリー! 君、どこ行くのさ!」
「決まってるでしょう?」
アリエッタは、殺しも辞さぬ奔放な──赤渦を巻いた瞳をのぞかせながら、言い切った。
「『喜捨』に行くの。もう馴染みの店に一ヶ月も行けてないんだもの」
ジョウはそんな彼女に呆れながら、自分の取り分を集め、去り際にレドに小さく「ごめんね」と言い残すと、一気に夜闇に消えた。レドは特に反応も示さず、ゆっくりと自分の取り分を集める。
「傘屋」
低い声であった。ドモンの手は、自分の剣の柄にかかっていた。鍔を押し出し、鈍い銀色の刃が埃っぽい闇に浮かぶ。レドも左手に持った傘をにわかに持ち上げ、右手をゆっくり動かした。彼が鉄骨を繰り出すのが早いか、ドモンが彼を斬るのが先か。それは殺ってみねばわからない。
「今度同じような依頼を受けやがったら──僕は理由を聞きませんよ」
レドは振り向きもしなかった。
「俺は自分のところに来た依頼を断る気はねえ。あんたらに都合よく回す気もねえ。……だが闇雲に受けても損するだけなのは、良くわかったつもりだ」
レドは側にあったろうそくを吹き消した。二人の断罪人は、闇へと溶けた。
ティナはとぼとぼと北大門近くの夜道を歩いていた。実家の姉や母親は、これ以上の実家への逗留は、夫──ドモンの出世の妨げになると許してもらえなかった。
あんなものに興味を示すのに、なぜ自分には興味を示してくれぬのか。もちろん、愛してもらっていないわけではない。愛情表現──そもそも感情自体が淡白なところがある人だということも分かっている。それでも彼女は絵如きに嫉妬してしまったのだった。
「失礼」
「はい?」
彼女が振り向くと、そこにはにこやかに笑みを浮かべる青年が立っていた。腰には剣。身ぎれいな男だ。
「警戒なさらないでください。僕は帝国貴族のはしくれでして、芸術──絵を描いているのです」
「絵、ですか」
ティナはなんとなくぴんとこないといった様子であったが、男は気にせず続けた。
「実は、あなたをモデルに絵を描かせて欲しいのですが。何、お時間は取らせません。あちらの宿をとっているので、どうぞ──」
正直、まだ家に帰りたくなかった。少しばかりの寄り道だ。芸術の題材になるのもまた、ひとつの経験であろう──。
たった今騙されていった妻の様子を、ドモンは遠巻きに見つめていた。彼は深い隈の刻まれた目元を抑え、大きくため息をついた。さらに面倒なことになった。
「……あれ、奥さん? 嘘でしょ、僕より歳上なの? 見えないなあ。旦那もやるねえ」
一緒に控えていたジョウものんきなことを言う。頭を抱えているばかりではいられない。筋書き通りなら、このままではティナは誰とも知らぬ男に弄ばれてしまう!
「……あんた、化粧道具は」
「持ってるけど」
ジョウは肩掛けバッグの中に満載した変装道具を見せつけながら言った。ドモンは彼に耳打ちし、その場ですぐに別れた。人の妻に手をだすことについて、思い知らせてやらねばなるまい。
今やホテル・ヨコヤの五階は、ミンジーの根回しもあってケイン達の貸し切りであった。やることがやることなので、騒がれては困る。そのためにミンジーの配慮であった。
「じゃあ、こちらですよ」
「……ケニー様とおっしゃいましたか。なんだか、妙な雰囲気がいたしますわね、このホテル」
女はティナと名乗った。可愛らしく背も低い。小動物のような雰囲気であったが、なんと人妻なのだという。この落差が、ケイン──今はケニーと偽名を名乗っている──の創作意欲をかきたてた。
「すぐ慣れますよ」
ホテルの部屋の前まで来たところで、ケインは妙なことに気づいた。キョロキョロしていたはずのティナが、妙に落ち着いているのだ。それどころか、俯いて何も喋ろうとしない。
「さあ、どうぞ」
ティナはおとなしくケインの誘導に従った。彼は気づかなかった。その背丈が、明らかに先ほどたぶらかした女より高くなっていることに。
「ケインさん、とおっしゃいましたね。いつもここで絵を?」
「ええ。ここで絵を描くんです。静かなほうが集中できますから」
「では、お母さんにも描いているところを見てもらっては?」
「……なんですって?」
おもむろにティナだった者が、ぐいとかつらを外した。金髪が現れる。男。少なくとも先ほど誘った人妻ではない。ティナそっくりに化粧を施した男──ジョウだ! 入れ替わっていたのだ!
「ああ、お母さんも今ついたようですよ」
突然窓が開き、夜風が吹き込んできた。誰かが窓の外に立っている。見覚えがある影。だらりとたれた腕。母親は──ヨシノ・ローゼンバウムは冷たい遺体となって、窓から転がり込んできた。その首裏には、鉄骨が突き刺さっている。再びケインが窓の外を見ると、そこには赤錆色の髪をまとめた黒いスーツの男──レドが、ゆっくりと窓から入ってきているところであった。
ケインは異常を察し、ティナに化けていたジョウを押しのけ、廊下に出ようとする。扉のノブに手をかけた直後、扉を突き破って血まみれのミンジーの顔が飛び出した!
「ぼ、坊っちゃ……ん……た、すけ……」
ミンジーの顔が再び扉から抜けると、まるで木材が叩き折れるような音がして、廊下は静かになった。部屋から見えるのはミンジーの足だけ。音もなく扉が開き、くすんだブルーの前髪から、赤渦を巻いた瞳をさらした大柄なシスターが、実につまらなそうに廊下を通り過ぎた。
「た、助けてくれえッ!」
廊下にまろびでた彼の視界の先に、シスターの姿は無かった。その代わりに彼が見たのは、紫色マフラーを巻いた、白いジャケットの男。憲兵官吏! こんなところに何故いるのかは分からないが、ともかく助かったのだ。
「憲兵官吏! 助けてくれ、僕を!」
「はあ、どうも。それより、さっきうちのカミさんをここで見ましてね。探してるんですが」
ちらと、先ほどホテルに誘った女のことが脳裏をよぎるが、今はどうでもよい! 彼は白いジャケットにすがりつき、わめいた!
「んなことはどうだっていいだろ! ひ、人殺しがいるんだぞ!」
「ああ、あんたのことですか? たしか、トレイン商会のミハルさんは、あんたに騙されて痴態を晒された挙句、首を吊ったんでしたかねえ」
「黙れえええッ!」
何かがぷつりと切れた。父親を斬り殺した時と同じように、ケインは剣を抜き、ドモンへ上段から刃を振り下ろした! 直後! ドモンは腰の大小の内、長剣をすらりと抜き払い、未熟な剣を打ち払う! そして右足を踏み込み、一気に横薙ぎにケインの身体を切り裂いた! ごぼ、と血を吐くケインの身体を、ドモンは返す剣で下から縦に切り裂く! 背中から廊下に倒れ伏し、ケインは事切れた。
「今なら赤い絵の具には困らねえだろ」
ドモンは剣を振り血を飛ばし、剣を納めた。
ティナは別の部屋でドモンの当て身を喰らい、寝ている。無かったことにしてやろう。ドモンは彼女のことをよく理解していた。お硬い性格だ。騙されたとはいえ、男に誘われてホテルにいったなどと気づいたら、家に申し訳ないとか叫びながら自刃しかねない。
だから、無かったことにすればよいのだ。
「……ここは?」
「おきましたか」
ティナはドモンの背中で目を覚ました。
「あなた、なのですか?」
「ええ、僕です。大変でしたね。君、北大門で暴漢に殴られて気絶してたんですよ」
「私が?」
信じられないといった様子であったが、ドモンは気にせず続けた。
「ま、とにかく間に合ってよかった」
「……怒って、いないのですか?」
「何の話です?」
二人は同時に口をつぐんだが、先に口を開いたのはティナの方であった。
「……義姉様はなんと」
「心配してました」
「あなたもですか?」
「そりゃ、僕は君の旦那ですから」
二人はぎこちなくそうしたやりとりを続けた。二人を気にせず、天には変わらず星が瞬いていた。一つに重なった影は、通りの先まで小さくなっていき──やがて見えなくなった。
拝啓 闇の中から隙間が見えた 終




