拝啓 闇の中から欺瞞が見えた(Bパート)
帝都イヴァン南西地区、自由市場ヘイヴン外れの小さな借家に、レドは訪れていた。この借家の主に頼み事をしようと考えたからであった。
「まずいでしょ、それ……」
「まずいか」
「絶対まずいよ。君だって知ってるでしょ」
羽ペンで線を引いたような糸目で、鼻にそばかすを浮かべた青年が、ひそひそとレドに自分の考えを伝えるべく耳打ちした。レドは赤錆色の瞳を、目を伏せたまま、差し出されたココアに手をつけようともしない少年へと向けた。彼の名前はエイトと言うらしい。今年で十歳になると言う。
「ジョウ。別に引き取れと言うんじゃない。この子の目の前で親が攫われたんだ。憲兵団に顔を出すのと──親が見つかるまで、お前に預かるのを頼みたい」
ジョウはハンチング帽を取ると、肩にかかりそうな金髪に手櫛を通し、頭を掻いた。レドの指摘の通り、この青年の特技はあらゆることをつなぐことだ。伝言、急な人手不足、人探し、非合法な情報──彼が『つなぐ』物は多岐にわたる。
「憲兵団に申し出るのはわかったよ。二本差しの旦那にも伝えとくけど、役に立つかどうか。でもね、その預かるってのが問題なんだよ」
その直後のことであった。ジョウの家の扉が開き、狭そうにくぐってくる者が一人。修道服に長身巨躯を押し込んだ、シスター・アリエッタである。くすんだブルーの前髪の下で視線をジョウへと向け、小さく手を振った。彼女の胸は豊満であった。
「暇なので遊びに来ましたよ、ジョウ。何か仕事はありませんか?」
「ほら来た言わんこっちゃない」
ジョウはため息混じりに肩をすくめてみせた。何か指摘するまもなく、アリエッタは目を伏せたまま悲しそうにしている、少年エイトの姿を見つけたのだった。
「あなたのお名前は?」
アリエッタは長身を屈めて、出来る限り少年の目線へと自分を合わせようとできるだけ努力しながら、優しく聞いた。正しくシスターめいた態度であった。
「……エイト」
「エイト! 素敵な名前ですね。年は?」
「十」
「なるほど。十分ですね。十だけに」
切り揃えられた前髪をかきわけると、アリエッタの赤い渦を巻いた目が怪しく光る! 何事かを察知したジョウが少年を立たせ、レドへと素早く押しやった。
「ちょっと、アリー! この子はダメなんだよ!」
「エッ。どうしてですか? 『神はすべての子に等しく愛を与えん』という言葉が……」
「都合のいい解釈しないでよ! レド、いいから連れてって!」
にじり寄ろうとするアリエッタに立ちはだかるジョウ。レドは素早くエイトの身体を抱きかかえると、そのままジョウの自宅を脱出した。ジョウはどうなるのだろうか? まさか手を出したりはすまい。レドは一度だけジョウの家を振り返る。不安げに彼を見上げるエイトの目に気づき、レドは固い笑顔を見せた。
「俺の家に来るか」
「でも、お母さんが」
エイトには父親がいないという。理由は、彼に聞いても分からなかった。おそらくは、死んだのだろう。戦争のため片親になっている子供は、イヴァンには掃いて捨てるほどいる。母親がいないことに、彼がどれほど不安を抱いているか。
レドは、昔の事を思い出していた。
突然失踪した父親。病気で命を落とした母親。体温を失っていく彼女の手を握りながら、レドは父親の真実を知った。そして、彼は一人になった。冷たい部屋で、たった一人で──。
「お母さんは必ず見つかる。だが、いつになるかは分からない。……それまでうちで、食事くらいはとっていけ」
エイトは笑った。不安そうだった表情は明るく輝いているかのようだった。レドは再び笑いかけると、彼の手を握った。温かい手であった。
憲兵団本部。帝都イヴァンの治安維持を一手に担う、帝都における重要機関である。ドモンやヤスヒコはここに所属する憲兵官吏であり──それぞれに細かな担当区域が割り振られ、常に治安維持という重要任務に身を削っている。
「先輩、どうやらヤスヒコさんに好かれてるんすね」
ニヤニヤとそう話しかけてきたのは、隣の席に座る金髪オールバックに剃り落とした眉という強烈な出で立ちの後輩、ジョニーであった。強面そのものであるが、なかなかに仕事が出来、人当たりも良い。
「なんです、いきなり」
ドモンはいつものように眠そうにあくびをした。ジョニーはそんな彼に構わず。ひそひそとドモンへと耳打ちする。
「いやあ、仲良くしとくべきっすよ。……知ってます? ウチの家内とティナさん。そんで、ヤスヒコさんの奥さんのミオさん、三人共仲が良いんですよ? 旦那同士が仲がいいと、家庭も円満になるってことっすよ」
ドモンは、向こう側のデスクに座る、黒髪を後ろで縛ったシンプルな髪型の、背の低い男──ヤスヒコを見る。テキパキと書類を片付けていく彼や、ジョニーと比べれば、ドモンの勤務態度は悪い。ジョニーによる悪意無い報告によって、ドモンの家庭の不和が幾度発生したことか。
「円満ねえ……いやなんだって構いませんけどね。僕はほら、評価がよくありませんからねえ……」
「先輩、それがよくないんすよ。何事も付き合いってのは大事っす。ましてや、旦那から伝わる情報ってのは、奥様の間で何倍にも増幅されるんすよ」
「何いってんですか、全く……でもまあ、ヤスヒコさんは本当に出来た方ですよねえ」
「全くそう思うよ」
もう一人の声に、ドモンは首を動かし人物を見る。そそくさとデスクに戻るジョニーが視界の端に移ったが、その前に巨大な顎が目に入ってくる。現場トップ、筆頭官吏のヨゼフである。精悍な顔つきに銀髪の長い髪、ともすれば美形にも見える彼であったが、アゴがでかいせいですべて台無しになっている。
「ヤスヒコ君は前途有望な憲兵官吏だ。君と違ってね」
「や、それは……そのう。確かに小官と比べると」
「比べる価値も無いよ、君には。全く、ヤスヒコ君が君の代わりに二人になってくれればいいのにねえ」
ぴしゃりとそう言い切ると、不自然なほど大きなため息をつきながら、ヨゼフは執務室へと引っ込んでいった。
「全く……アゴがデカい上に態度もデカいんですから」
ドモンがそう一人愚痴り、仕方なしに積み上がった書類へと手をのばそうとした直後の話であった。突然憲兵団の事務室への扉を勢い良く開ける者があった。黒スーツの三人組の先頭を切るのは、無精髭の中年男・ライアンである。彼は瓶の中で揺れる透明な液体を取り、口をつけ煽る。
「全員動くな! 我々は敵性生物対策室の者だ!」
ライアンと部下二人は、スラリと腰に帯びた剣を抜き、空へと掲げた。何事かとドモンを含めた憲兵官吏達は、怪訝そうに彼ら三人組を見る。
「一体何事です!」
再び自身の執務室から、ヨゼフが巨大な顔を出す。ライアンの顔を見ると、突如腰低くそろそろと動いたかと思うと、ニコニコしながら話しかけたではないか。
「これはこれは、厚生局の……何か、憲兵団に御用でも」
おお、黒スーツの襟元には厚生局所属を表す黄金色のバッジ! ヨゼフは憲兵団より上部の組織の人間には、極めて腰が低く押しが弱いのだ! たとえそれが、崖っぷちに立たされ左遷寸前の、ライアン相手であっても!
「筆頭官吏のヨゼフさんですね。私は厚生局敵性生物対策室のライアン・ベイク。……実は、我々の持つ独自のネットワークで、到底看過できない重大な問題を発見した。あなたを通して、憲兵団団長にも捜査の許可を貰いたい」
捜査。ドモンは首をかしげながら、ライアン達黒スーツの三人組と、ヨゼフの話を頬杖をついて見ていた。そもそも、彼の記憶に敵性生物対策室という存在自体が無かった。一体何の組織なのか、さっぱり分からない。彼に分かるのは、彼らが行政府付きの官僚であり、自分たちよりおそらくは高給取りなのだろうということだけだ。
「しかし、一体なんだと……」
「敵性生物対策室の意義をご存じなければ説明しましょう、ヨゼフさん。我々は人に仇なす敵性生物……その実、魔物や亜人に対し、適切な対策を施すことを目的とする組織です。つまりこの私が言いたいのは──」
ライアンは握りしめた瓶の中の液体を飲む。
「……この憲兵団の中に『敵性生物』が存在する、ということです。おそらくは亜人でしょうが──とにかく、我々は治安維持機構である憲兵団に、そうした存在がいることを許せない。……憲兵官吏全員に対して、適切な形で『捜査』を行えるよう手配を。これは、帝都のみならず帝国全土に影響する問題です。我々も、ことを大きくしたくない。内密におねがいしますよ」
「名前は、ヤスヒコ・ハタ──妻あり、子供なし。違いないな」
「左様にござる」
取調室を隔てる、魔法によって限定的に不可視となる壁の前で、ライアンと部下のメロウは、赤毛のショーンがヤスヒコを尋問するさまを観察していた。
「ショーン殿と申されましたな。敵性亜人を捜査しているということでありましたが、拙者の血筋には確かに亜人の血が混じってござる。しかしそれも四代前の話。拙者自身、こうして憲兵官吏として奉職し五年も経ち申す。帝国への忠義は誰よりも負けぬつもりですが」
「それは、我々が尋問で決めることだ。……今の妻は、三人目?」
「前の妻もその前の妻も、病弱でしてな。立て続けに、結婚して一年持ちませなんだ。今の妻には無理をさせないようにしておりますが……」
ライアンは無精髭を擦りながら、鋭い視線をヤスヒコへと送り続けている。メロウは赤い唇を撫で、上司へと顔を向けた。
「どう思う、メロウ」
「はあ。……はっきり言って、あたしにはわかりません。ライアン、あなたが対策室を残すために何かしようとしている事は分かります。……あの女性を無理やり倉庫に閉じ込めたのも、何か目的があるんでしょう」
ライアンは無言で瓶の中の液体をあおる。彼の行動は、早かった。子連れの女を一人、ショーンに攫わせて、既にしかるべき場所に監禁してある。間違いなく大事件だ。その事件を、対策室によって大々的な手柄にするつもりなのだ。
「メロウ。お前、こんな計画がうまくいくと思うか?」
「室長がうまくいくと思ったから始めたのでは」
「いや。俺はそうは思わない。俺達が相手をしてきたのは、敵性生物だ。亜人は、頭が切れる。そういうやつらを、俺達が華麗に叩きのめす。エンディングは決まってる。だからそこにいたるまでの完璧な筋書きが必要なんだ。上等な小説を書くように、慎重に」
ライアンは手をかざし、透過壁越しに怪訝そうな表情を浮かべるばかりの、哀れなる憲兵官吏へと思いを馳せた。
「つまりこれは、俺と彼との物語で──共同執筆ってところだろうな」




