宴 7
ユヒトは、少し静かなところへと行きたくなり、広間から張り出したバルコニーへと足を向けた。広間のほうは宴もたけなわといったところである。
夜空にかかった少し欠けた月が、青い光を放っていた。吸い込まれるようにそちらへと顔を向けていると、後方から声が響いた。
「お前も月の魔力に魅入られにきたか」
振り向いた先に、菫色の髪の少年の姿が青い光のなか浮かび上がった。
「マリク。姿が見えないと思っていたら、ここにいたのか」
「俺はああいう騒がしいところは苦手でね。外のが落ち着く」
「なんとなくそれはわかるよ」
マリクはユヒトの隣に移動すると、ユヒトがそうしていたように、自分も月に視線を向けた。ユヒトもまた先程と同じように月を見つめる。
「お前の父親、名前はオーゲンというのか?」
「……うん。やっぱり、きみたちの師匠と一緒だったのって、僕の父さんだったんだよね」
旅先で父親の行き先をずっと訊ね歩いてきたユヒトだったが、具体的に父に会った人物の話を聞くのは、もしかすると初めてかもしれなかった。
「我が師、ダリウスと共に人間の旅人が北へ向かった。その男の名はオーゲンといった」
「きみのお師匠さんはその旅の途中でシャドーに殺されたんだよね。そのとき僕の父さんも一緒だったなら、もしかして……」
ユヒトはその先の言葉を言うのをためらい、唇を噛むと視線を下に向けた。そんな彼を安心させるかのように、すぐにマリクは言葉を続けた。
「そのときの戦いで見つかったのは、我が師ダリウスの亡骸だけだった。付き人が後で確認したときには、オーゲンという男の姿はすでになかったらしい」
「え……? じゃあ」
「お前の父親はまだ生きている可能性がある。少なくとも死んだという情報は受けていない」
ユヒトは顔をあげた。その表情には、少しずつ希望の色が差し、明るさを取り戻していた。
「父さんは北へ向かった。それなら、これから僕らが行く方向と一緒だ」
ユヒトは遠い空の向こうに思いを馳せた。ハザン国の聖王へ親書を届けるという役目を果たした彼らには、特に次の指示が与えられてはいない。けれど、ユヒトの心はすでに行き先を決めていた。
北の国ノーゼス。
彼の国では魔物がはびこり、王都はすでに魔物に乗っ取られてしまっているのだという。その国にいる魔物たちを排除しなければ、シルフィアは暗黒の世界に浸食され、飲み込まれていってしまうだろう。
三国が同盟を結び、決戦のときは目前まで近づいてきている。
「シャドーは死んだ。だが、そのシャドーを操っていた親玉はまだ生きている」
マリクが呟く。静かに。
「これからまた大きな戦いが始まるんだね。魔物たちに乗っ取られた北の国を相手に」
「ああ。今度起こる戦は先日の比ではない。それこそ世界の存亡をかけた大きな戦争だ。そこにはたくさんの犠牲が伴うだろう。大きな悲しみが人々を襲うだろう」
「だけど、避けては通れない戦いなんだよね。魔物たちに勝たなければ、この世界自体が失われてしまうかもしれないんだから」
少年たちは、すでに覚悟していた。これから起きる戦いに、自分たちが赴くことになるのを。過酷で壮絶な戦いがそこに待ち受けていることを。
「お前は、自分の運命から逃げたいと思ったことはないのか? これほどに困難な、重すぎる運命から逃れたいと思ったことはないのか?」
マリクの問いに、ユヒトはくすりと笑って答えた。
「……それは、いっぱいあるよ。今だって、臆病な心が胸の中で暴れ出しそうなのを、必死で抑えているんだ。だけど」
ユヒトは隣にいるもう一人の少年に顔を向けた。彼もそれに気づき、その視線に己のそれを合わせる。
「この世界を護りたい。絶対にそれだけは譲れない。きみだってそう思うだろう?」
ユヒトの言葉に迷いはなかった。この世界を護りたい。シルフィアに生きる誰もがそう思っている。そのためにみな戦っている。
マリクはうなずき、ユヒトの言葉に己の言葉で語り返す。
「確かにそうだ。逃げている場合じゃない。どんな困難なことがこの先に待ち受けていようとも、それを乗り越えなければ俺たちに明日はないんだ」
「うん。だから一緒に乗り越えよう。僕たちの力で」
「乗り越えなくちゃならない山は、随分高い山だがな」
二人の少年は互いに笑いあった。少年たちが見つめているのは、同じ未来。同じ希望。
その希望を抱いているのは、彼らだけではない。シルフィアに住む人々みなの意志だった。
王宮内からは、楽師らが奏でる賑やかな音楽と、人々の笑いさざめく声が響いていた。
明日で第三部終了です。




