螺旋の罠 1
エディールは、夢を見ていた。
――あなたはここから飛び立って、自由におなりなさい。
温かな湯気の立つスープを前に、そんなふうに話すのは若かりしころの母親。
スプーンで掬いながら口に運んだスープは、とても甘くておいしかった。
――たくさんの冒険をして、たくさんの世界をその目に映すの。それがやがてはあなたの糧となり、あなたを強くたくましくするわ。
でも自分がここを旅立てば、あなたはたった一人になってしまう。それはきっと寂しいに違いない。エディールが言うと、母親は息子にこう伝えた。
――大丈夫。このシルフィアの空が続く限り、あなたがどこかにいるってわかるから。あなたのことをいつも見守っているから。
――旅をしなさい。そしていつか、あなた自身の幸せを見つけるのよ……――
気がつくと、目の前で光がちらちらときらめいていた。木漏れ日が星のように瞬いて見える。
(随分、懐かしい夢を見たな)
エディールは身を起こし、周囲に視線をめぐらした。
せせらぎの聞こえる川沿いの、少し奥にある木陰になっている岩場の上で、彼は寝ていた。あのとき川に流されてから記憶を失い、今の今まで寝ていた己の不覚を瞬時に恥じた。と同時に、川縁から無意識にここまで移動できたはずはないことから、周囲に誰かがいるはずだということに思い至る。
「……誰か近くにいるのか?」
立ちあがり、誰何するともなしに呟きを漏らすと、彼の後方にある森のほうから、葉擦れの音がかすかに聞こえてきた。じっとそちらを見つめていると、やがて葡萄茶色の外套を纏った菫色の髪の少女が歩いてくるのが見えた。
「あ、気がつかれたのですね。よかった」
ミネルバはエディールの姿を見て、安堵したように笑みを浮かべた。
「きみが助けてくれたのか」
「はい。魔法の力を使ってなんとか……」
「川面に落ちる瞬間に、なにか温かい不思議なものに包まれた気がした。不覚にもその後気を失ってしまっていたようだが、あれのお陰で助かったのだな。礼を言う」
「いえ。咄嗟にできることをしたまでです。特に私の魔法は、敵に攻撃を仕掛けるよりも、どちらかというと補助とか回復とかそういう方向に強いものですから、ああいうときにこそ頑張らなくてはいけないのです。戦いにおいては、きっとみなさまのほうがすばらしい才能をお持ちなのだと思います」
どこまでも謙虚な少女の発言に、エディールは素直に優しく微笑んだ。
「きみは、すばらしい魔法使いだな。外見も美しいが、中身も高潔な花のようだ」
「まあ、そんなこと。お上手ですのね。でも、知っていますよ。エディール様はかなりのプレイボーイだという噂。たくさんの女性に対してそんなことをおっしゃっているんでしょう?」
「女性はみな、宝物だからね。女性を褒めることは男として生まれたもののたしなみのひとつだと思っているよ」
「うふふ。なにかそのことに対しての信念を感じます。そこまでくると、ある意味尊敬の念を抱きますね」
「理解してくれるのかい! なかなかわたしの周りではこうしたことに理解のあるものが少なくてね。とてもありがたいよ」
そう言ってエディールはミネルバの手を取ろうとしたが、ミネルバはすっと手を後ろに回し、笑いながらエディールと距離を取った。
「駄目ですよ。それとこれとは別です。そういうのは、心に決めたたった一人の人に対してするものですよ」
「これは手厳しいね。しかし、きみは若いがなかなか男女の機微に精通しているところがあるな。どうも男所帯が続いていたせいで、潤いがなかったのが、ここにきてかなり変わったよ。まあ、ルーフェンという例外もあるにはあったが……あれはまたかなり毛色の違ったものだからな」
「ルーフェンちゃん、可愛いですよね。私、大好きです!」
「大好き……。それは少女のとき? 犬の姿のとき?」
「両方です! どっちの姿も本当にとっても可愛い! もう、今も想像しただけでぎゅってしたくなります」
どうやら完全にルーフェンに敗北したらしいエディールは、肩をすくめて降参のポーズを取った。
「やれやれ、あんな口の悪い犬っころにこのわたしが負けるとは、悲しいね」
そんな呟きも、ルーフェンの話題で目をきらめかせるミネルバの耳には届いていないようだった。




