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第八十二話「生魚を食べたい」

 今にして思えば、俺は配慮が欠けていた。

 この世界の常識を理解していなかった。いや、理解しようとしていなかったのだろう。 

 考えればわかることだった。


 白く光るそれを指で摘み、黒の中にわずかに赤みを帯びた液体を潜らせ、口に運ぼうとする。


 それは俺にとって当たり前のことだったが、フロンにとってはそうではなかった。

 俺のその光景を見たフロンは大声で叫んだのだ。


「ご主人様、ダメですっ!」


 俺はその声に驚き、それを落とした。

 ズボンの上に落ち、黒い染みが広がる。


「あ……」

「ご主人様、お願いです、早まらないでください」

「え? フロンさん、なにを……」

「この島で辛いことがあったかもしれませんが、お願いですから、私を置いていかないでください」

「え? え?」


 俺は混乱した。

 ただ、刺身を食べようとしただけなのに。


 せっかく魔石と交換した醤油、そして、うどんが毎日倒してきてくれているドロップアイテムのラムフィッシュの切り身がある。

 魔物から出る切り身は非常に新鮮で、鯛やヒラメのような白身魚だった。

 テルさんから聞いたところによると、モトナリさんもラムフィッシュの身は生で食べていたということで、もう刺身で食べるしかないと思った。

 フロンにいきなり食べさせて不味かったら申し訳ないので、まずは俺が味見をと思って食べようとしたら、フロンが泣いて止めたのだ。

 ここまで取り乱すフロンは非常に珍しい。


 ガメイツに身柄を拘束される可能性があるときですら、もっと冷静だった。


「フロン?」

「ご主人様、お願いです。死なないでください」

「死なないから、なんでこうなったんだ?」


 俺はフロンを落ち着かせ、事情を聴いた。

 なんでも、人間は生の魚を食べてはいけない。食べればお腹を壊して死ぬこともある。

 そう母親から教わったらしい。

 フロンの母親は、彼女にいろいろなことを教え、彼女がそれを忠実に守っていることは知っている。


「あぁ、フロン? これは生魚だけど、ドロップアイテムだから安全だぞ?」

「ご主人様は知らないかもしれませんが、ドロップアイテムの魚を食べて死んだ人がいると聞いたことがあります」


 フロンは引かない。

 ドロップアイテムとして出現した魚、地面に一度落ちたものを食べたのか、出現したあとずっと放置していて腐ったか、元々毒のある魚だったか、いろいろな可能性が考えられる。

 だが、今回に限って言えば、食べられる魚で、しかも出したばかりだから清潔、新鮮。

 俺も手を洗っている。

 問題があるはずがない。


 しかし、フロンは頑なだった。

 刺身が食べられたら、酢飯の上にのせて海鮮丼を――と思っていた俺の計画の第一段階がもろくも崩れた。

 この調子では、タタキにしても食べられないかもしれない。

 せっかくの新鮮な魚があるというのに。


 うーん、安全とわからせればいいのではないか?

 たとえば、フロンに毒見と称して食べさせる……いや、ダメだ。

 食に対して無理強いはよくない。

 例えば巨大ダンゴムシの丸焼きを出されて、美味しいからとフロンに渡されたら、俺は食べるだろう。

 たとえ巨大ダンゴムシでも彼女の手料理を粗末にはできない。

 でも、絶対に食べるからこそ辛いのだ。

 フロンも同じだ。

 毒見という理由があれば、彼女は生魚を食べる。

 しかし、それはフロンの望みではない。

 死を覚悟して、刺身を食べてほしくない。


 弱った。


 とりあえず、落ちてしまった魚の切り身は、ちょうど仕事から帰ってきたうどんが美味しく処理した。


 フロンと話し合ったが食文化の差というものは非常に凄い。

 なんと、生で食べることが許されているのは、果物だけだというのだ。

 新鮮な野菜も生で食べることはほとんどなく、煮込み料理にしたり、ピクルスにするのが普通らしい。

 生で食べられるものは生で食べてみたいと思う日本人とは大きな違いだ。


 ちなみに、フロンが堅く生食を禁止されているのは、魚介類の他は卵と小麦粉だった。

 本来は水も生で飲むのを禁止されていたそうだが、迷宮から出てくる水は別とのことで、問題ないらしい。


 迷宮から出てくる水はOKで、食べ物はNGという理由がわからないが、しかしこれは問題だ。

 とりあえず、生で食べることは安全だと証言してくれる人を探そう。


 俺はそう思い、みんなに質問をした。


「魚は足が速いですから、燻製にするか塩漬けにしますね。生には商品価値はありません」


 とシャルさん。


「儂はなんでも焼いて食べるな。焼けば食べられるってのが儂の信条じゃ!」


 とガモン爺。


「昔、生で貝を食べて腹を壊したことがあってな。それから焼いて食べるようにしてる」


 とサンダー……特にサンダーの証言は参考にしてはいけない。

 ますますフロンが生魚を警戒する。

 最後の便りはテルさんだ。


「ということで、助けてください、テルさん」

「いや、私も生魚は食べない。父が好きだったが、母は絶対に私に食べさせようとはしなかった」


 まさかの全滅だった。

 ダメなのか?

 カルパッチョで食べる漁師とかいないのか?

 いや、いたとしても、「それは魚の専門家が大丈夫だと判断したからです」と言われそうだ。

 俺がいまするべきことは、ラムフィッシュを生で食べても大丈夫だということを理解してもらわないといけない。

 ただ、動物学者のテルさんでも証明できないし、生魚でお腹を壊している人がいる以上、生魚が安全だと証明する本などもあるはずがない。

 迷宮に詳しく、生魚を食べる文化にも理解があり、そして誰もが信用できる人。

 そんな人、この世界にいるのだろうか?


「あぁ……そうか、そんな人、この世界にいないのか」


 俺はそう言ってほくそ笑んだ。

 つまり、最後の手を思いついたのだ。


   ※※※


「ご主人様、言われた通り、釣ってまいりました」


 彼女はそう言って、桶の中にある鯵のような小魚を俺に見せた。


「ああ、ありがとう」

「あの、昨日のことは……」

「わかってる。俺は生で魚を食べないよ。フロンを悲しませるようなことをするわけがないだろ」

「そうですか……わかってくださいましたか」


 フロンは少し涙を流した。

 そこまで俺のことを心配してくれていたのか。

 でも、その心配ももう必要がないんだ。


「それで、ご主人様はなにをなさっているのですか?」

「ちょっと料理をな。俺たちが食べる料理じゃないよ」


 そう言って、俺は小魚を三枚に下ろし、叩いて潰す。

 刺身を食べるためなら、魔石も使う。

 まず、用意したのは丼、ご飯、そして鶏卵だ。

 丼の上に、ご飯を盛り、その上に潰した魚、そしてラムフィッシュの刺身を敷き、真ん中に鶏卵の黄身だけを落とす。


 特選海鮮丼の完成だ。

 涎が出てくる。

 しかし、食べるわけにはいかない。

 ここで俺が食べようとしたらフロンが止める。

 彼女の制止を振り切り食べたらフロンが泣く。

 フロンを泣かせることはもうしたくない。


 俺は完成した海鮮丼、そして魔石と新たに交換した日本酒とカップを持って地上に行った。


「ガモン爺、できてるか?」

「ああ、できてるぞ。女神像は用意できなかったがな」


 そう、俺はガモン爺に頼んだ。


「広場に祭壇を作ってくれないか?」


 ガモン爺は「儂は大工というわけではないのじゃが」と言いながらも、日本酒一本で引き受けてくれた。

 立派な祭壇だ。

 俺はそこに海鮮丼と日本酒を置く。


 女神様に祈りを捧げたら、日本酒はみんなで飲もうと言ったためか、サンダーとガモン爺も来ていた。


 そう、俺の考えは、この海鮮丼をトレールール様に召し上がっていただくということだ。

 島で飼っている犬、ケルとベルが匂いに釣られて舌を出しているが、これを食べさせるわけにはいかないので、切り身をそのまま食べさせた。

 骨がないので喉に刺さることはないだろう。


 俺はトレールール様に祈りをささげた。

 さぁ、極上の海鮮丼です! どうか召し上がりに来てください。


 まぁ、これはほとんどダメ元だった。

 多分、こんなことでトレールール様が現れることはないだろう。

 悪だくみというよりかは、悪あがきだ。

 ただ、この場所をトレールール様が現れた地として名を売る以上、祭壇は必要だろうと考えていたので、せっかくの機会だから実行しただけだ。


 女神様が現れなかったら、この海鮮丼はマシュマロとゴーヤに食べてもらうか。

 あいつらも毎日頑張っているからな。

 そう思ったとき、空から光が降り注いだ。


「トレールール様、来てくださった……ん……え? 誰?」


 俺が思わずそう尋ねた。

 現れたのはトレールール様ではない。似ても似つかない、ふくよかな女性だった。

 似ているのは服くらいだが……と思ったら、ガモン爺もフロンもサンダーでさえもその場に跪いていた。

 まずい、これは俺も跪かないといけない流れか……と思ったとき、その女性は言った。


「かしこまる必要はないよ。私の名前はコショマーレ。まぁ、トレールールの上司みたいなものさ」


 その女性は、少し疲れた口調で俺にそう説明したのだった。

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