第六十五話「フロンといなり寿司」
フロン。
それは私の名前であり、私が持っているいくつもの一番の宝物です。
一番なのに複数あるというのも、宝物と言っているのに名前だというのもおかしいということはわかっていますが、仕方がありません。
私にとってご主人様との思い出の全てが宝物であり、この名前もその思い出のひとつだからです。
「フロン、ちょっといいか?」
そう仰ったのは私のご主人様――ジョージ様です。
私がご主人様のことを名前で呼ぶことはありませんが、しかしジョージ様の名前を忘れたことはありません。暫く一緒にいるうちに、実はジョージ様ではなくジョウジ様であることに気付いたのですが、暫くしてご主人様は自分の名前をジョージと名乗るようになっていたので、あえて訂正することはしないことにしました。
ジョージ様は迷宮師という、恐らく世界でも例に見ない職業の持ち主であり、迷宮を自らの手で作り出し、管理、成長させることができる不思議な力を持っています。
「はい、ご主人様。なんでしょうか?」
「これから海に行こうと思うんだけど、一緒に行かないか?」
「はい、お供します」
私はそう言うと、ご主人様からいただいた手鏡でささっと身だしなみを整えてから、手を念入りに布で拭います。
そして、ご主人様と一緒に海に向かいます。
本来、従者である私はご主人様の後ろについていくべきですし、従者ではなく護衛に徹するのであれば前を歩くべきです。
ですが、ふたりきりの時はこうして横に並んで、しかも手を繋いで歩かせていただいています。
これは手繋ぎデートというものであり、恋人同士が一緒に歩くときはいつもこうするものなのだそうです。
「フロン、今日は海で何をしようか?」
「ご主人様が望まれることならなんでも」
「――じゃあ、蟹でも集めるか」
「はい」
私とご主人様はいつもの浜辺ではなく、磯に向かいました。
このあたりは小さな蟹を見かけます。
「うーん、もっと大きな蟹とかいないかな」
ご主人様が鍋に小さな蟹を入れながら言いました。
「大きな蟹というとブルーライトクラブでしょうか?」
「ブルーライトクラブ……青光蟹か。大きいのか?」
「高さはミノタウロスくらいでしょうか?」
「そりゃでかいな」
「討伐難易度Bランクですから私たちにはまだ倒せませんね」
「マジか……」
ちなみに、ブルーライトクラブは、右の爪だけが大きく青いのが特徴の蟹であり、とても美味だそうです。
「海に迷宮を作れば出てくるかもしれないな。討伐難易度Bなら相当深くしないと無理だろうけど」
「海の迷宮を作ることができるのですか?」
「この島は広いからな。海に続く洞窟とか、海底洞窟とかあるかもしれん。うどんに海の中を探してもらうか?」
「うどんはリクガメですから海の中は泳げないと思いますよ」
「あぁ……そういえばそうだった」
「その前に私たちが強くならないとダメですね」
「俺が強くなるのは無理だろ。そこはサンダーにでも任せるよ」
ご主人様はそう言って笑いました。
そうおっしゃるご主人様の強さは、もうランクC冒険者相当です。サンダー様がBランクに近いCランクだとするのなら、ご主人様はDランクに近いCランクですが、それでも平均的な冒険者よりはかなり強いんです。
恐らく、ゴブリン相手なら五体同時に相手しても負けることはないでしょう。
戦いに役立つスキルをあまり持っていないという欠点はありますが、それ以上にご主人様の成長速度は目を見張るものがあります。
多分、テンツユ、マシュマロ、うどんの三匹が魔物を退治したとき、魔物が罠にかかって死んだときなどに得られる経験値が大きいのに加え、迷宮師の基礎能力が高いのでしょうね。
と思いご主人様を見ると、ご主人様は私のことを見ていました。
正確には、私の尻尾をです。
私は気付かないフリをして、尻尾を二回、三回と振ります。そうするとご主人様が喜ぶからです。
ご主人様は私の尻尾が好きで、一緒にお風呂に入る時、まずは私の尻尾から洗ってくださります。
また、毎日ブラッシングをしてくださいます。
私に与えてくださったブラシですが、柄の部分についている匂いは私のものよりご主人様のもののほうが強く残っているくらいですから。
「蟹はこの程度でいいか……ちょっと昼飯にするか」
「はい」
ご主人様が昼食として取り出したのは魔石でした。
ご主人様は魔石から物を生み出すという、またしても不思議な力があります。
そして、ご主人様が食器代わりに亀の甲羅を取り出し、その上に魔石と交換した昼食を並べました。
「――っ!?」
そこにあったのは、私にとっての宝物のひとつ――そう、いなり寿司です。
食べるものなのに宝物というのもおかしな話ですが、しかしこれは宝物と断じなければなりません。
いなり寿司――甘味と旨味と酸味、すべてがひとつに合わさった至高の料理です。
「フロン、いなり寿司好きだからな。毎日はどうかと思うが、三日に一度くらいはこれでいいだろ」
「三日に一度もっ!? そんなによろしいのですか?」
「別に高いもんじゃないしな。もしかして三日に一度じゃ多いか? なら五日に一度くらいに」
「いえ、三日に一度でお願いします!」
私は語気を強めてそう言ってしまい、羞恥で顔を赤くした。
「申し訳ありません。いなり寿司はご主人様が召し上がりたいときにお願いします」
「ははは、じゃあいまが食べたいときだし、一緒に食べよう」
「……はい」
失敗した……と私はしょげてしまいましたが、そんな悲しい気持ちを一瞬でいなり寿司は洗い流してくれました。
私の髪や尻尾と同じような色の油揚げという食材――なんでもこれは大豆から作られているそうです。私が東大陸にいた頃は、養鶏場から安価で仕入れた大豆が主食でしたが、あのときは味なんてほとんどない、パサパサした豆だという印象しかありませんでした。それでも命をつないでくれた大切な食べ物には違いありませんが。
あの大豆がこのような料理の素材に化けるなど思いもしませんでした。
そういえばご主人様は、いなり寿司はキツネと関係のある料理だと仰っていました。
なるほど、大豆が見事に化けた結果生まれたのが油揚げというわけですか。
いったいどのようにすれば大豆が油揚げになるのか――私はそれを考え、さらに味わっていなり寿司を食べました。
形だけなら、油揚げより中に入っているご飯の方が近いのですが。
と私は亀の甲羅の中に手を伸ばし、空を切ったことに気付きました。
「あれ?」
気付けば私の分のいなり寿司が無くなっていました。
不思議に思い、食べたいなり寿司の数を数えますが、夢中になりすぎていくつ食べたのか覚えていません。
どうやら、夢中になって全部食べてしまったようです。
「フロン、どうしたんだ?」
「いえ、なんでもございません」
いなり寿司はとても美味しいのですが、しかし量が少ないのが残念です。
もっとも、私が東大陸にいたころは基本一日一食か二食、時には三日くらい食事がないことすらあったので、むしろ昼食が食べられるだけありがたいと思わなければならないのです。
「……にがりは海水を煮詰めたら出来そうだし、サンダーが大豆を持っていたんだよ。大豆と水とにがりがあれば豆腐ができるから、基本的な油揚げは作れるから、調味料で味を調えて、一緒に手作り油揚げでも作ってみないか?」
「手作り油揚げですかっ!? はい、是非お願いします!」
私は尻尾を振ってご主人様に懇願したのでした。
いなり寿司は無理かもしれないけれど、夕食に油揚げが食べられると思っていたのですが、大豆を水に浸す工程に一晩を必要とすることを知るのはまだ先のことです。
その日の夕食の蟹入り潮汁は、いつもよりしょっぱく感じました。
久々の更新ですみません。
本当は更新ストップして完結マーク出すつもりだったのですが、このキャラたちが大好きで。
他の作業の合間にもうちょっと続けようかと思います。




