092.交通事故
「イブリン嬢のことは信じるが……この先、もし我慢するようなことがあれば、隠さず、どんな些細なことでも話してほしい」
ぽよぽよの身体以上に、アナベルの心を柔らかく包み込んでくれる、快い言葉が耳に落ちてくる。
「はい。正直に話します。その時は、解決方法を一緒に考えてもらえますか?」
「もちろんだとも。どんなに難しいことでも必ず解決できるように考えるよ」
セインが、アナベルの手を取ると自身の口元に持って行く。その指先にキスする共に、聖なる誓いのように囁いてくれた。
アナベルは、大きな幸福にうっとりと浸りながら微笑んだ。
「私は本当に幸せ者です」
「私もだよ。ゆっくりお休み」
眠りに誘うセインの言葉。
魔法など何もかかっていないのに、その優しい声音を聞いているとアナベルは不思議と眠くなって目蓋が下がってくる。
噛むのだけは無し。
それだけは無し。と、固く念じながらアナベルは、高貴すぎるクッションを独り占めさせてもらった。
◆◆◆
とうとう、寝ぼける前から抱きついて眠るという、まったく想像もしない事態を突き進んだ翌朝。アナベルは本日もセインのお見送りをすませると、魔法屋で令嬢たちを迎えていた。
「……五年保証のつやつや魔法でお願いします。あの、聞こえていますか?」
「え? あ、……ごめんなさい。少しぼうっとしていました。五年保証ですね。すぐにおかけします」
少し大きな声で令嬢に声をかけられ、アナベルははっとして姿勢を正した。
何とか噛まずに目覚めることは出来たが……遠慮なく寝入り、結局朝までふかふかクッションにしてしまった。
どうして自分は、こうもすぐにセインに甘えてしまうのだろう……と考えている内に、目の前の令嬢からすっかり意識が逸れてしまっていた。
「本当は、社交界のお話もして他の美容魔法もかけてほしいのだけど……オリヴィア様の不興を買うのは怖いから……残念だわ」
アナベルが魔法をかけ終えると、令嬢は艶の増した自身の髪を撫でながらため息交じりに言った。
「オリヴィア嬢がどうかされたのですか?」
「……昨夜、晩さん会にお呼ばれしたの。そこで招かれた令嬢たちに……『己の美しさは魔法で手に入れるものではなく、ましてや、社交界の出来事を市井の魔法屋で話して手に入れるなど、品のないさもしいことはおやめになったほうがよろしくてよ』 と……」
「市井の魔法屋……品のない……」
アナベルは令嬢の言葉に眉がピクリと動く。
間違いなくオリヴィアは、アナベルに何も話すな、と令嬢たちを集めて釘を刺したのだ。
「あなたはまだ、正式にマーヴェリット公爵様と結婚されているわけではないかから……。公爵夫人となれば、オリヴィア様に充分対抗できると思うのだけど。今は、オリヴィア様の言葉に逆らって、あなたの魔法を求めるのは報復が怖いの」
令嬢は寂しげに苦笑し、テーブルに代金を置くと一礼して去って行った。
すると、次の令嬢も……その次の令嬢も……皆、最初の令嬢と同じ態度を取った。
「いくら、特別な魔法使いでマーヴェリット公爵夫人となるからと、オリヴィア様とは敵対しないほうがいいわ。彼女が公爵家の令嬢たちよりも力を持っているのは、実家がお金持ちというだけの理由ではないの。社交界一麗しい彼女には、昔から信奉者が多くいるのよ」
「信奉者……」
十年保証のつやつや魔法を選択した令嬢は、アナベルに忠告してくれた。
「傍系だけど王族の方に……上級貴族や豪商。著名な芸術家……。陛下は、お身体の具合さえ良ければオリヴィア様を妃に迎えたでしょうから……マーヴェリット公爵様くらいだと思うわ。彼女に笑顔を向けられても袖にし続けた男性は」
「公爵様だけ……」
アナベルの頭を優しく撫でてくれるセインの姿が脳裏をよぎり、ほわんと心が弾む。
「オリヴィア様の機嫌を損ねれば、信奉者の方たちに嫌がらせをされて、ひどい噂を流されたり、社交の場で恥ばかり掻かされることになるわよ。……たとえマーヴェリット公爵様でも、すべてに目が行き届くわけではないわ。守ってもらえると安易に考えているなら、その考えはなくしたほうがいいと思うの」
「なるほど……オリヴィア嬢は女性の取り巻きがたくさんいらっしゃるだけでなく、有力な殿方も数多く味方に付けているということですね」
オリヴィアは、まるで大輪の薔薇のような艶やかな美貌の持ち主だ。
アナベルにしても、あれほどの美女は見たことがなかったので、多くの者が彼女に魅了されてその傍に侍るというのも、納得である。
しかも、性格も苛烈ではっきりしている。力強い女性を好む殿方であれば、彼女はまさに理想だろう。
そのオリヴィアが、自身に懸想する殿方たちにアナベルを不愉快だと一言言えば、セインの目のないところで攻撃してくる……。
どうやら、魔法で蹴散らす相手が増えるようだ。
「そういうこと。マーヴェリット公爵様とラッセル侯爵様の関係は最悪だけど……あなたたちまで不仲となって敵対する必要はないと思うの。オリヴィア様には必要ないものでしょうけど、私はあなたに美容魔法をかけてもらいたいわ」
一日でも早く親しくなってくれることを願うわ……と、言い置くと、彼女も代金を置いて去って行った。
「親しく……難しいわね……」
アナベルは、腕を組んで独りごちた。
オリヴィアはアナベルの支配を望んでいる。その上、共感できることもない。
そのような相手と親しくなるのはかなり難易度が高いことだ。
しかも、この先セインは必ずラッセル侯爵を断罪する。
アナベルはその助けとなりたい。
オリヴィアは逆に、父親に付くであろうし……現状では、親しくなれる要素は皆無だ。
結局、最後の令嬢も、社交界の有力情報を話してくれることはなかった。
「地方から出てきたばかりの私に、社交界でオリヴィア嬢を出し抜くなんて無理な話よね。情報収集は上手くいかなかったけど、明日は第一王妃様にお会いできる」
情報収集失敗は残念でも、明日の謁見が成功すればいい。必ず、第一王妃の心を掴んでみせるのだ。
アナベルは、気合を入れて椅子から腰を上げた。
機会を作ってくれたプリシラに感謝していると、入り口の扉が激しく叩かれた。
「すみません! すみません。こちらに、アナベル・グローシアさんはいらっしゃいますか! アナベルさん。アナベルさんっ! いらしたら出てきてください!」
呼び鈴があるのに使おうとせず、バンバン扉を叩き、大音声でアナベルの名を呼んでいる。
乱暴であるが必死の叫びに、アナベルは首を傾げつつ、衝立を回って扉を開いた。
「私が、アナベル・グローシアですが……」
そこにはアナベルと同じくらいの身長の、少しおなか周りがふっくらしている中年の男性が、息を乱して立っていた。
焦燥感の多大に滲む男性の顔には、滝のように汗が伝っている。
初対面は確かだが、どこか親しみを覚える容姿だった。
「あ、あなたが、アナベルさん?」
「そうですが、どちらさまでしょうか? お客様でしたら中にどうぞ」
立ち話もなんなので促すと、男性はいきなりアナベルの足元に跪いた。
ぎょっとして立つようにと声をかけるより先に、男性は大きな声で懇願してきた。
「娘を。どうか、娘を助けてください! 馬車に轢かれて死にそうなのです。医者には匙を投げられました。もう、あなたしか縋れる人はいないのです!」
「娘さん?」
交通事故の治療依頼。ならば、男性が焦っているのもよくわかる。ただ……。
「お願いします!」
「依頼を受けるのは構いませんが、どうして私をご指名なのですか?」
何度も頭を下げる男性に、アナベルは祖母へ依頼しない理由を問うた。
「え?」
「この魔法屋の主は祖母です。私は、ちょっとした事情で貴族のお嬢様たちに美容魔法をかけてはいますが、まだ正式に魔法屋の登録をしていません。なぜ、アナベルという魔法使いがここにいるとご存知なのですか?」
この男性は美容魔法をかけた令嬢の知り合いで、話を聞いてきたのだろうか。
それならいいが、ブルーノがアナベルに報復しようとしてここを突き止め、この男性に嘘を吐かせておびき出そうとしているのであれば、話を聞く必要はない。
不信感が、アナベルの男性を見る眼差しを険しいものとしていた。
「そ、それは……申し遅れました。私は、ポール・レイン。私の娘の名はプリシラと言います。先日こちらを訪ねたそうで、あなたはとても優しくて素晴らしい魔法使いであると教えてくれました。お礼は何でも致しますから、どうか娘を!」
男性から娘の名を聞いたと同時に、アナベルは愕然として顔色が変わった。親しみを覚える容姿と思ったのも当然である。
「プリシラはどこにいるのですか。頭に思い浮かべてください!」
「お、表通りのロンサール診療所に……」
レイン男爵は詰め寄るアナベルの勢いに押され、仰け反りながら答えた。その名は表通りにいくつかある診療所の内の一つであり、西区で最も大きなものだった。
『風、集え! 私たちをロンサール診療所。プリシラの許に!』
アナベルは男爵の意識からプリシラの現在地を見せてもらう。そのまま彼の腕を掴むと移動魔法を使用した。
「え? な、何……わああっ!」
男爵が驚きの声をあげた時には、二人はロンサール診療所内……寝台に横たわるプリシラの傍に立っていた。
「プリシラ。なんてこと……」
アナベルは、あまりに痛々しい姿の親友を前にして立ち尽くした。




