084.偽装婚約者は一歩も退かない
「柔らかくてあったかい、ですって?」
イブリンは口元を引き攣らせ、声を震わせてそう言った。片眉を跳ね上げ、こめかみはぴくぴくと震えて青筋まで立っている。
「私も、最初は太りすぎではないかと驚いたのですが、健康状態に支障はないようなので、それならご本人のお好きなようになさったので構わないかと……触れると柔らかくて気持ちいいですし、悪くないものですよ」
アナベルは、セインの体形に対する己の正直な感想をそのまま伝えた。
「気持ちよくて悪くない……そういえばあなた、婚約を発表したその日から、公爵家のお屋敷で暮らしているそうね」
イブリンの身体が小刻みに震え、顔色がなんだかどんどんどす黒くなっていくように見える。どこか具合でも悪いのかと思いつつ、隠しても意味がないのでアナベルは素直に頷いた。
「ご厚意に甘えて、お世話になっています」
アナベルに養女となる家として選んでもらおうと、貴族たちが屋敷に訪れている。その際、セインと一緒に暮らしていることを知り……あとは、彼らの口から自然と社交界に広まっていったのだろう。
「それだけでも充分図々しい恥ずべきおこないであるというのに……あなたは寝室も一緒と聞いているわ! だから、柔らかくてあったかい……そのうえ気持ちいいだなんて堂々と口にする。その神経を疑うわ!」
これだから貴族の礼儀を知らない一般市民は駄目なのよ、と怒鳴られる。
「寝室が一緒のことまで、ご存じなのですか?」
柔らかくてあったかいと褒めることの、いったいどのあたりが神経を疑われる行為なのだろう。元貴族であるが、アナベルはそのような礼儀は知らない。
しかしそちらよりも……まさか、同じ寝室で休んでいることまで知られているとは思わなかった。それにはさすがに驚いて目が丸くなってしまう。
「マーヴェリット公爵は、ベリルで知らぬ者がいないと言ってもよい有名な方よ。彼のどんな些細なおこないでも、すぐに人々の口にのぼるわ。それが結婚に関することともなれば、皆、さらに細かく情報を集めて囀るわよ」
イブリンが何か言う前に、オリヴィアが知っていて当然の情報だとあっさり言ってのけた。
「左様ですか。私としても一緒に休むというのは少し抵抗があったのですが……婚約者は同じ寝室で眠るものと公爵家の家人たちは考えたようでして……皆がそれで当然だと思っているのを、一人抵抗するのというのも婚約者らしくないかなと……」
セインが有名人であることはアナベルも知っている。
彼の噂を頻繁に耳にして、悪辣な貴族たちを懲らしめるその活躍を楽しく聞いていた。
人々の間に流れる噂話が、そうしたものだけでなくとも、それは仕方がないということなのか……。
「私たちの語る話など嘘だ、とは言わないのね」
オリヴィアのどこか探るような眼差しに、隠して誤魔化すのは偽装婚約者らしくないだろうと、アナベルは開き直って肯定した。
「セインからもそれがいいと言われましたので、ご一緒させていただいております」
寝相が悪くて毎朝面倒をかけてばかりなのだが、その辺は正直に答えなくても構わないだろうと、口を噤んでおいた。
「そ、それがいいだなんて! まだ婚約しただけで、結婚証明書に署名はしていないのでしょ! それなのに同衾するなんて、そんな破廉恥な話があってたまるものですか!」
激高したイブリンは、とうとう席を立って火を吐くように叫んだ。
「同衾……そうですよね。それは結婚式が終わってからですよね」
ここで遅まきながらようやく理解した。
イブリンは、アナベルのおでぶさん体形を認める発言に機嫌を損ねているのではなく、セインと夜を共にするような関係だと勘違いして苛立っていたのだ。
とはいえ、勘違いを正して安心させるというのは、自分の役目上相応しいおこないではない。アナベルは、訂正を入れる必要性は感じなかった。
「何をあっけらかんと言っているのよ。あなたは地位とお金のためなら何でも我慢できるのね。この恥知らず! あんな太った男に抱かれて気持ちいいだなんて、信じられない。痩せてほしいと言うのが普通でしょ!」
イブリンは、テーブルに置いてある花や燭台、銀のカトラリーなどを手当たり次第に引っ掴むと、容赦なくアナベルに向けて投げつけてきた。
「あなたのように、金に目が眩んでなんでもはいはい言うことを聞くのがいい結婚ではないわ! 私のように、駄目なことには駄目と言う女と結婚してこそ、太った男は己の愚かさを悔いて反省し、元の美しい公爵様に戻られて幸せになれるのよ!」
イブリンは全身を真っ赤に染め、頭から湯気でも出そうな勢いで憤る。しまいには、ナイフやフォークまで投げてきた。
魔法使いに正面から攻撃を当てることは出来ないと知っているから、好きに投げているのか。
はたまた、普段から誰彼構わず、気に入らないことがあれば物を投げつけている人間なのか……。
イブリンの気配から推測するに、おそらく、後者の癇癪持ちなのだろうとアナベルは心の内で肩を竦める。素直に当たれば大怪我となるので、飛んできた物はすべて空中で受け止め、元の位置に戻しておいた。
「セインは太っていることを特別苦にしていません。身体の具合も悪くしていないのです。それでも駄目と言って強引に痩せさせることの、何が彼の幸せにつながるのでしょうか?」
「なんですって? 痩身の美青年でいるほうが幸せに決まっているじゃない。今は健康であっても、病気になってからでは遅いのよ!」
うんざりした様子でイブリンは吐き捨てると、再び席に着いた。
投げる物が一つもアナベルに当たらないことが気に入らないようで、椅子に目を向け投げ物として考えている雰囲気だったが、それは思いとどまったようである。
「病気になりそうになったら、私が何とかします。これでも上級魔法使いですから、その辺はお任せください」
「あなたに任せるなんてお断りよ! 馬鹿なことを聞かせないで。まったくこれだから……物のわかりの悪い一般市民と話すと頭が痛いわ。公爵様は、痩せてこの美しい私と結婚することで、幸せになれるの。あなたなどお呼びでないのよ!」
イブリンは、汚らわしい物を見る目でアナベルを睥睨した。
「痩身の美青年公爵が、あなたのような人と結婚すると幸せになる……」
睨まれてもアナベルはまったく怯まず、イブリンの言葉を復唱するように呟いた。すると、イブリンの機嫌が心持ちよくなったように感じた。
「足りない頭でも、ようやくわかったようね。私の公爵様に色目を使って汚い手で誘惑したおこないを反省し、さっさと消え……」
「私にはあなたと結婚しても、セインが幸せになれるとは思えません」
「なっ!」
言葉を遮ったアナベルに、イブリンが一瞬で顔色を変える。猛烈な怒りの気配を全身に纏わせ、わなわなと身体を震わせた。
「一緒に眠るというのは正直恥ずかしいです。ですが、一緒に眠るとセインは優しい笑顔で私の頭を撫でてくれるのです。あったかいその手は、柔らかくて気持ちいいですし……それに、こちらを見ている目がとても幸せそうで……あの姿を見てしまうと、別々の寝室を用意して頂きたいなんて言えません。これは私の勝手な考えですが、セインに痩せてほしいと希望ばかり押し付けるあなたに、あの笑顔が向けられることはないと思います」
セインが一緒の部屋でと言ってくれている内は、多少恥ずかしかろうとも一緒がいい。
それが、今のアナベルの本音である。
寝相が悪すぎるので、いつセインの我慢の限界を超えてしまい追い出されるかわからないが、その日までは二人であったかく休みたい……。
「あなた……死にたいの?」
イブリンの氷のような声が部屋に響く。
「…………」
どうやら、これまで以上に怒りと憎しみを買ってしまったようである。この様子では、グレアムに火魔法ではなく闇の即死魔法を本気で依頼しそうだ。
とはいえ、セインの傍から離れるつもりのないアナベルに、イブリンの心を宥める方法などない。何がこようと受けて立つだけである。
その覚悟を持って微笑もうとした時、イブリンの腕にオリヴィアの手がそっと触れていた。




