076.顔の見えない人
「たくさん頑張ってくれた君に……。おなかいっぱい、たくさん食べておくれ」
暗闇の中。
どこからともなく聞こえてきた声に、アナベルは首を傾げる。
すると、目の前が明るくなり周囲がはっきりした。
大きな円テーブルがあり、その上にはアナベルの好物ばかりが用意されていた。
「まあ、なんと素晴らしい!」
ごちそうに目が輝く。と、同時に椅子も出現する。
普通ではありえない状況なのだが、アナベルは特に訝しむことなく椅子に腰かけた。疑問を抱くよりも、おいしそうな肉料理を目にしたことで、非常に強く空腹感を覚えていた。
とにかく食べたい! その感情だけが脳内を占める。
ところが、カトラリーを手にしようとしてアナベルは固まった。
「うそ。ナイフもフォークもないなんて……」
辺りを見回すも、給仕がいて持ってきてくれるような様子はない。
しかしおなかはすくばかり……。
食べたくてたまらず、目の前に広がる料理たちをアナベルはどうしても諦めきれない。でも、どうすれば……。
思い悩むアナベルの前に、突如スープを掬ったスプーンが差し出された。
「すべて、私が食べさせてあげるよ」
「え?」
いつの間にか傍らに誰かが座り、アナベルにスープを飲ませようとしている。
とても優しい気配の持ち主だった。しかし、その表情はどれだけ目を凝らしても、暗闇に覆われており視認できなかった。
「遠慮せず、口を開けるといいよ」
「…………」
いくら優しい気配の持ち主であり危険を感じないからと……誰ともわからない人間に食べさせてもらうのは抵抗がある。
なんとなく、気配も声もセインに似ているような気がするのだが、公爵ともあろう人間が他者に手ずから食事を食べさせるなどありえない。
それに、唯一見ることのできる手は細く筋張っており、セインの柔らかな手とは大きく異なっていた。
「アナベル。早く食べないと冷めてしまうよ」
「!」
カトラリーを渡してもらうわけにはいけませんか? と、問おうとしたところに響いた声を聞いた途端、猛烈な焦りが芽生える。
どうして自分の名前を知っているのだと問うより先に、アナベルは、あったかい内に目の前の料理をすべて食べつくしたいとの衝動が高まった。
その本能のままに、スプーンに口をつけていた。
「もっと、お食べ」
顔が見えない男性は、機嫌のよい声で言って再びスープを掬った。
アナベルは、五臓六腑に染み渡る絶妙な野菜スープの優しい味に感じ入る。一度その気持ちを味わうと、食べさせてもらうことに対する抵抗感など完全に吹き飛んだ。
それに、この人物にはアナベルにカトラリーを渡してくれるつもりはないようである。
アナベルは、ならばと男性の好意に甘え、テーブルにある料理を次々と指さしては食べさせてもらった。
どの料理も言葉にできないほど美味しくて、魂が身体から抜けて違う世界に飛んでいきそうな心地になるほどだった。
「美味しいです~。ありがとうございます」
「君が喜んでくれるのが、何よりだよ」
この場がどこであるのか、どうしてこの男性が自分にこんなに親切にしてくれるのかもわからない。
常のアナベルであれば、食事をするよりも先に己の置かれた状況を把握することに努めるのだが、今はまったく警戒なく見知らぬ男性の用意した食事を堪能していた。
アナベルは、この男性に強く親しみを感じる。
でも、良くしておいてもらって申し訳ないが……セインであればもっと楽しい時間をすごせるだろうに、と心に思ってしまう。
すると、周囲がさらに明るくなった。男性の表情を見えなくしていた闇も晴れる。
「…………」
ああ、やはりセインではない……。
はっきりと顔を見ることのできた男性は、一部の隙もなく整った容貌の持ち主だった。
ぽっちゃりとしたまあるいところなどどこにもない。こちらを見て優しく微笑むその姿は、美しすぎて身震いするほどである。
まるで神の作った芸術品のような男性に、しかしアナベルは心奪われて見惚れるよりも、残念に思いながら差し出されたお肉を口に入れた。
ところが、先ほどまではとても美味しかった肉料理は、なぜか急に砂でも噛んでいるかのように、味がしなくなった。
「どうして……」
驚いて目を見張ると同時に、アナベルの周囲からすべてが消えた。
◆◆◆
すべて食べ尽していないのに料理がなくなった。
そのことへ不満を募らせたところで意識が急浮上した。
「あ……夢なのね……」
目覚めたアナベルはぼんやりと呟き、そして、己の置かれたあまりの状況に愕然とした。
「え?」
知らない男がすぐ近くにいた。
アナベルの傍で寝台に横になり、優しく微笑みながらこちらを見ているのだ。
まるで芸術家が筆で描いたような美しい眉。涼しげな目元に、高くてすっと伸びた鼻梁。薄い唇。余分な肉のないスッキリとしたあごのライン……。
先ほどの夢に出てきた男性に似ていると思うも、目にしていると恐怖さえ覚えるほどの玲瓏たる美貌の主に、アナベルは慄いた。
「アナベル。目が覚めたのかい?」
誰だと問うより先に、嬉しそうに目を細めた男の手がこちらに向かって伸ばされる。額に触れたその手は、アナベルの額にかかる髪を掻きあげるようにして、やんわりと撫でた。
「あなたは、誰? どうして私に触るのですかっ!」
なぜ、自分は見知らぬ男と一緒に眠っているのだ。
しかも、男が当たり前のように自分の頭を撫でるなどとんでもない。訳が分からない。
先ほど、見知らぬ男に食事をさせてもらうことに危機感を覚えなかったのは、アナベルの意識のどこかで、これは夢だと自覚があったからだろう。
しかし、現実となればそうはいかない。
アナベルはシーツを跳ね除けるようにして飛び起きる。
一瞬で寝台の端まで下がり、男との間に距離を取った。
「誰って……私だよ、アナベル。いったい、どうしたのだ?」
全身で警戒して睨むアナベルに、男が不思議そうな顔をして困ったように問うてくる。
その声にはどこか聞き覚えを感じるものの、アナベルの警戒は解けなかった。
「声はセインによく似ているけど……セインはおでぶさんだから、あなたは違う」
見知らぬ男に添い寝されて寝顔を眺められるなど、最悪過ぎて顔が強張るばかりだった。
どうしてこんなことになっているのか理解できない。が、とにかくこの場にいるのは、精神衛生上非常によろしくない。
アナベルは寝台から床に足を下ろし、部屋を出ようとする。が、男に腕を掴まれた。
「何を言っているのだ、私がセインだ。もしや、長官から私を守ってくれたことで無理をしすぎて、その疲れが取れないのかい?」
「触らないでっ!」
魔法で男を弾き飛ばそうとしたと同時に、何かが飛んできてアナベルの眼前に静止した。
【おはよう、副隊長。ずいぶん激しく寝ぼけてるのね】
パタパタと軽快な音を立てて緑の翼が羽ばたく。アナベルの顔に向かって優しい風が送られてきた。
心地よいその風を受けて、アナベルは数度瞬きする。頭の中がとてもスッキリした。
「……隊長」
呟くように目の前の飛竜に呼びかける。
すると、ここは公爵家でいつも使わせてもらっている寝室であることが、すんなりと頭に入ってきた。
そして、自分の手を掴んでいる人も、見知らぬ男などではなく……。
心配そうにこちらを見ている姿は、アナベルがよく見知っているまんまるおでぶさんだった。
さああっ、と一気に血の気が引く。
「す、すみません! いつもいつもおかしな起き方ばかりして……」
背中を丸めて謝罪した。
食べる次は、セインに見知らぬ男の幻影を見て暴言を吐くなど最低である。
どうして大人しく起きることができないのだろう。自分が心底情けなくなるアナベルだった。
「眠っても、疲れは取れないのかい?」
きゅきゅを右肩に乗せたセインは、アナベルの無礼極まりない目覚め方を叱るのではなく、こちらの身を案じてくれた。
「いえ、疲れはないです。すっきりしています。ですが、どうしてあのようなものを見てしまったのか……それは自分でもわかりません」
強力な魔法を使ったことによる疲労が抜けずに身体に障りがある、といったことなど本当に微塵もないというのに。
幻影を見るなど我がことながら理解不能で説明できない。
「そうかい。疲れが取れているならいいのだが……触っても、いいかな?」
どこか不安げに問われ、アナベルの暴言を気にしているセインに、本当に申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
「ひどいことを言ってごめんなさい。できれば、忘れて頂けるとありがたいです。私は、セインが触れてくださるとあったかい気持ちになります」
「嬉しいことを言ってくれるね」
セインが満開の笑みを浮かべて、丁寧にアナベルの頭を撫でてくれる。その心地よい手に頬がほころぶ。
「眠ってしまった私を、ここまで運んでくださったのですね。ありがとうございます」
そうして目覚めるのを見守ってくれていたのだろうに、寝ぼけて騒ぐなど本当に失態だ。ああ、もっとちゃんとした人間になりたい。
心の内で猛省しながら己に言い聞かせるアナベルだった。
「それは当然の事だよ」
アナベルの頬に、セインの柔らかな唇が触れる。
すると、先ほど見ていた幻影と、目の前にいるセインが重なった。
「あ……」
気付いた事実に、思わず声が零れ落ちる。
「どうしたのだい?」
「い、いえ……なにも……」
幻影を見た理由はわからないが、あの幻影はセインが痩せた姿だ。
きゅきゅが美男子だと太鼓判を押す以上の姿に、アナベルは喜びよりも戸惑いを多く感じた。どうしようと心の内で葛藤してしまう。
アナベルは、今見ている姿のほうが安心する。
しかし、美しい殿方は緊張するし苦手なので、ずっと太ったまま可愛らしい姿でいてくださいなど、言えるわけがない。
だが、結婚するとなると、アナベルはあの痩せたセインの傍に生涯いることになるわけで……それはちょっと尻込みしてしまう。
「寝ていなくていいのなら、食事にしよう。今は朝だよ」
「朝……」
誘いの言葉に鸚鵡返しのように呟くと、空腹感が強く全身を支配した。
とりあえず、今はまだセインは痩せていないのだから、ここで答えを出す必要はない。アナベルはそう考えた。
【ねえ、寝ぼけて何を見ていたの?】
「それは秘密ということで……」
興味深げな眼をして問うてくるきゅきゅに、アナベルはにっこり笑って回答拒否をさせてもらう。
セインもどこか知りたそうにこちらを見ているように見えるが、言えるわけがない。気付かない振りをしておいた。
小説書籍三巻。ここから……。




