060.かわいい人
「アナベル……」
「…………」
セインは二、三度瞬きし、少しかすれた声でアナベルの名を呼んだ。しかし、アナベルのほうは返事をするどころではない。その姿を間近に捉えたまま、狼狽えるばかりだった。
魔法をかけるというもっともらしい理由を使い、無防備な相手に好き放題ペタペタ触って堪能していた。己の図々しいを遥かに通りこしたおこないに、どんどん顔色が悪くなっていくのが見なくともわかる。
セインは眠るアナベルに不埒な真似をしないと言ってくれたのに、こちらはしているなど酷い話だ。
セインが目覚めたことでそれを自覚するというのも間抜けとしか言いようがないが、やはり我慢しておけばよかったと後悔してももう遅い。
頬に触れている手を引っ込めなければ、といくら思えど、焦れば焦るほど身体が上手く動かない。
アナベルはセインの頬に触れたまま顔を強張らせ、頬には冷汗まで伝った。
【それじゃ、お休みなさい。ふたりとも良い夢を】
暢気なきゅきゅの声が響く。可愛くあくびを一つすると、己の寝床に飛んでいこうとした。
「た、隊長待って! ここで眠らないの?」
慌てて呼び止めるも、こちらを振り返ることなく声だけが返ってきた。
【私、あちらの方が好きだもの】
「そんな……」
だったらなぜセインの傍で眠っていたの! とアナベルが疑問を叫ぶより先に、きゅきゅは己の寝床で丸まってしまった。
【セインはね、他人の気配に鈍感な生き物じゃないわ。もっとも、あれだけぺたぺた触られていれば、どんな鈍感さんでも気づいて目が覚めるわよね~】
「うっ!」
面白がっているとしか思えない声が届き、アナベルはあまりの羞恥に全身が熱くなった。
とはいえ、自業自得である。きゅきゅに言いたいことはあれど、ぽよぽよの誘惑に勝てなかったアナベルが一番悪いことに変わりはない。
「も、申し訳……」
「おかえり。今日もちゃんと私のところに帰って来てくれたね。ありがとう」
身を窄めて謝ろうとしたのを遮ったセインに、怒っている様子はまったくなかった。それどころか、アナベルの右手を取り嬉しそうに微笑んでいる。
「どうして、怒らないのですか? 私は眠りの邪魔をしたのですよ」
寝込みを襲うような真似をされ、眠っているのを途中で起こされるなど、さぞ不愉快なことだろうに。
「邪魔などしていないよ。とても優しく触ってくれていたね。おかげでとても心地よかった」
上機嫌でアナベルの右手にキスをしたセインに、首を傾げた。
「セインは優しすぎませんか? どうすれば、そのような良い人間になれるのですか?」
己の図に乗った無礼を許してくれるのはありがたいが、なんでも許しすぎのようにも思う。
魂が光属性だから寛大なのだ、と言ってしまえばそれまでなのかも知れないが、それにしても出来すぎではないだろうか。
少々見習った程度ではこうはなれないと思う。セインは良い人すぎて後光まで差して見えそうだった。
「大切な求婚相手に優しくするなど当たり前のことだ。だが、無理して怒らないのではないよ。本当に、君が撫でてくれていたのが嬉しかったから、幸せだと思った気持ちをそのまま言っているだけなのだ」
セインはアナベルの心をくすぐる笑みを浮かべた。その、どこから見ても幸せそのものの微笑みに魂まで持って行かれるように感じる。ますます体温が上がってどうしようもない。
「セインは、私を甘やかす天才だと思います」
アナベルが喜んで嬉しくなるツボをすべて知っているのではないだろうか。そんなことを大真面目に考えてしまう。
「君が私を幸せにしてくれる天才で、私が君を甘やかす……ちょうど、バランスが取れて良いね」
「セインを幸せ……」
頭を撫でてくれながらの言葉に、それが自分にできれば最高だ、との思いが胸いっぱいに膨らむ。
「そうだよ。君ほど私を幸せにしてくれる人は……」
そっと顔を寄せてきたセインの唇が、アナベルの額に触れる手前で、そうだと気がついた。
「私、魔法屋で、もしかするとセインのお役に立てるかもしれません。幸せを運ぶお手伝いが……」
「え?」
きょとんとしてアナベルを不思議そうに見るセインに、昂ぶる気持ちのまま笑いかけた。
「美容魔法をかけてほしいと貴族のお嬢様たちがお客として来ているのですが、魔法の対価として社交界の情報を話してくれるのです。まだ、これといった有益な話を聞くことはできていないのですが、明日もたくさんいらっしゃいます。どなたかはきっと、セインが気持ちよく政務をおこなえるようになる、良いお話を持って来てくださるのではないかと思います」
この先、まだ二十数名に魔法をかける。その内の一人くらいは、王太后に関するものや、悪徳貴族たちを懲らしめるのに役立つ情報を持って来てくれると信じたい。
ところが、明日からの情報収集に気合を入れるアナベルとは対照的に、セインは少し険しい顔をして首を横に振った。
「私は、君にそんな真似をさせるために結婚してほしいと言っているのではないよ」
何もしなくて良いのだよ、とぽんぽんと優しく肩を叩かれる。
「迷惑ですか?」
薔薇に関する助言は余計なお世話になると思った。
でも、魔法屋で情報を集めていれば、何か一つくらいは役に立てるのではないかと期待していただけに、拒否というのはがっくりして気持ちが萎んでしまった。
セインほどの人物となれば、情報収集に関して高度な手段を持っていて、アナベルの集めてくるようなものは何の役にも立たないのだろう。それでも残念でならない。
「迷惑などとんでもない。違うよ。そうではなくて、真面目な君の事だから、私を喜ばせようと情報を得るために平気で無理をするのではないか。令嬢たちがとてもいい情報の代わりに高度な美容魔法を求めれば、君は自分が疲れることなど後回しにして、それをかけるだろう? 私は、その姿を見るのが嫌だ」
「セイン……」
セインがこういう人だから、無理でも何でもして役に立ちたくなるのだ。
でも、それをここで言ってしまえばますます強く止められるだろう。
疲れないから大丈夫、と言ったところで、疲れて眠りこけたりたくさん食事を摂る姿を見られている後だ。言葉には何の信憑性もないと信じてもらえない筈だ。
「私は君に陛下を癒してほしいと願っている。その点では、君の言葉に甘えてたくさん頼るだろう。だが私の政敵の始末まで頼ろうとは思っていないよ」
「まったく、少しも頼って頂けないのですか?」
アナベルは途轍もなく寂しい気持ちになった。
思わず寝台の上に身を起こし、膝をつけて座り込むと横になったままのセインを凝視した。
「妻となる人に、政に付き纏う汚い闇など見せたくはないよ」
心持ち眉を下げて苦笑したセインに、アナベルは少し身を屈めるようにして顔を寄せた。
「セイン。私は上級白黒魔法使いです。何でも可能とまでは言いませんが、わりと便利な存在だと我ながら思います。それでも頼らないとおっしゃる?」
上から覗き込むようにして、黄金の瞳をじいっと見据えるアナベルに、セインが少したじろいだ様子で身を退くようにした。
「いや、その……政敵の対処は、私のすることだから……」
しどろもどろに返してくるセインの肩にアナベルは右手を置いた。強く掴むことはしないが、後ろに下がって自分と距離を置かないようにしてほしくて、自然とそうしていた。
「頼るのを限定されては、寂しくてお嫁に行けません」
アナベルは互いの鼻先が触れそうな位置まで顔を寄せ、心にある思いをそのまま伝えた。
「アナベル?」
「迷惑でないのなら、遠慮するのではなくよろしく頼むと言って下さいと、私はそう申し上げた筈です。私はあなたに幸せになって頂きたい。そのために、自分にできることがあるなら何でもしたいのです。あなたと結婚してこの大きなお屋敷で甘やかされ放題に甘やかされて、何もせずに一方的に頼って暮らしたいとは思いません」
セインの苦労は自分には関係ないと知らぬ顔をして、求婚だけ受け入れて安穏として暮らす。たとえセイン自身がそれをアナベルに望んだとしても、そんなことは到底受け入れられない。
「そうだね。君は、マーヴェリット公爵夫人となっての贅沢暮らしよりも、何も持たない私の手を取って養ってくれると言った。私という人間と共に歩んでくれる人だったね」
嬉しげな目をしてしみじみと語ったセインにこくりと頷く。
町で小さな魔法屋を営み、自分とセインときゅきゅの三人で暮らす、というのはとても心躍ることだ。アナベルはそうできるのであれば、公爵夫人となるよりもそちらのほうを躊躇いなく選ぶ。
だが、ベリルの民の生活をその背に負う宰相マーヴェリット公爵を相手に、それを手にするのは不可能な夢であるともわかっている。
だから、アナベルは己の無謀な夢をセインに求めることはしない。
「私にはセインが生きる政治の世界も、お仕事の詳しい内容もわかりません。ですから、闇というのも想像するしかできませんが……私と結婚して生涯を共に歩むと思って下さっているなら、少しで良いのであなたの見ているものを私にも見せていただけないでしょうか?」
それがどんなに汚いものでも構わない。
知らないままでいるほうがよほど嫌だし、それでは幸せにはなれないと思う。
カウリー伯爵家の血統を守るための大嫌いな男との結婚という人生は、婚約破棄にて終わった。
自由になったこれからの人生は、自分で選んだ道を大切な人の笑顔を守りながら歩んでいきたい。
ところがアナベルの願いに、セインは承諾ではなく渋る様子を見せた。
「だが、そんなことをすれば、君は私に便利に使われていると思わないだろうか。超常の技を可能とする魔法使いはとても有益な存在だ。私は強い人間ではないから……きっと甘えて、頼りすぎる」
そうなれば嫌われてしまう、とこちらから目を逸らし、俯き加減で小さく呟かれた言葉も、アナベルは耳を寄せてしっかり聞き取った。
胸に何か言いようのない熱い物がジーンと込み上げてくる。
「かわいい……」
両手で口を覆ったアナベルは、悶えながらそれしか言えなかった。




