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053.バルコニーにて

デニス・ラッセル侯爵は、立派なひげを蓄えた口元を微笑ませていた。

互いに、決して相容れることのない政敵と思っているが、廊下には人目がある。どのような用件であれ、睨みながら呼び止めるといった、険悪であると自ら吹聴して人々の話のタネとなるようなことはしないのだ。


ラッセル侯爵は初老であるが、背筋の伸びた力強い立ち姿は老いを感じさせない人物である。

常に品の良い衣服を身に纏い、淡い金髪は綺麗に撫でつけ、髭も丁寧に整えている。

セインより少し背が低く一回りほど小さいが、侯爵のほうが一般的な成人男性の体型である。


「次の会議までの間……宰相殿の時間を頂戴したいがよろしいか?」


笑みを浮かべたまま話しかけてきたラッセル侯爵に、セインは小さく頷くことで承諾の意を伝えた。

すると侯爵は無言で歩き始めた。

こちらが選ぶ場所ではなく、自身の後について来いと当たり前に示すその姿に苦笑が零れる。


家格も政における役職もセインのほうが上であるのだが、亡くなった父と年の近いラッセル侯爵は、それがどうしたと思っている節が強い。

息子と言っても良い年のセインが自身の上位にあるのは、貴族の頂点に立つマーヴェリット公爵家に生れているからとしか考えていないからだ。


セイン自身としても、この年齢で宰相位にあるのをすべて己の才覚とは思っていない。公爵家に生まれていなければ、宰相に任じられるまでには今少し時を必要としたはずだ。

ゆえに、侯爵から寄せられる負の感情に、一々目くじらを立てるようなことはない。


侯爵は廊下を少し歩き、バルコニーに出ると外に向かって大きく張り出したその先端まで歩を進める。廊下を行き来する官吏や女官の目が完全になくなったことで、その顔から作り笑いは消えていた。

花のない、樹木のみで幾何学模様を描くように構成された緑の庭園が視界に入ってきた。


「おや。あそこにいるのはそなたの気に入りではないか」


侯爵は大理石の手すりに右手を置くと、緑の庭園を楽しげに飛び回っているきゅきゅに目を留めた。

きゅきゅは、会議中はセインの肩に乗らない。どこかに出かけては気ままに過ごしているのだが、今日はそこと決めたようだ。


「瀕死と聞いていたが、ずいぶんと元気そうだ」


侯爵は、死の影などどこにも感じられない溌剌として元気なきゅきゅを、眼差しを和らげて見ていた。

健康であることを歓迎している。嬉しげなその姿がなんとも意外だった。

セインは表情に出さぬようにしながらも、数回瞬きして凝視してしまった。


これまで侯爵が、王宮に来ているきゅきゅを害そうとしたことはない。いくらセインのことが気に食わなくとも、小さな飛竜は各国に聖獣と認定されている生き物だ。

無闇に傷付けるような真似をすれば、いかな上級貴族であろうと、大勢の非難を浴びることとなる。

さすがに、その程度のことが考慮できずに暴挙に走るような人物では、いくら財力があろうと七公爵に匹敵するような権勢は築けない。

だからと、今のように口元を綻ばせて好意的に見るようなことはなく、自身に一向に懐こうとせず、セインの肩にしか乗らないのを忌々しげに睨むのが常だった。


侯爵は自身が心根の美しい人間であるとの証明に、きゅきゅが利用できるのではないかと考えているようで 『他の者の肩には乗らないのか?』 と何度か問われたことがある。

自分の肩に乗れ、とばかりのそれに、セインの肩にいるきゅきゅは常に顔を背けるのだ。

セインとしても侯爵の肩になど乗ってほしいと思わないので 『私の肩が良いようです』 と言って会話を終わらせていた。

それで侯爵がセインに対する憎しみをさらに募らせようとも、痛くも痒くもない。


「おかげさまで……ご心配頂き、ありがとうございます」


これまで見たことのない態度に気味の悪いものを感じるも、侯爵はきゅきゅが元気を取り戻したことを喜んでいるのだ。

セインは余計なことは口にせず、礼を言っておいた。


「聖獣が死なずに済んだのは良きことだが、看病と称して宰相が政務を休むというのは、いかがなものかと思うぞ」

「……その節は、ご迷惑をおかけいたしました」


きゅきゅを見るのをやめた侯爵に厳しい目を向けられ、セインは素直に謝罪した。

この一件に関して王は苦笑で許してくれたが、そのぶん財務大臣にこれでもかと小言を食らっている。どのような理由があろうと政務を休むというのは良くないことだ。諫言は甘んじて受け入れるつもりだった。


「陛下が咎めぬことを私がしつこく言うのも僭越だ。それは済んだこととするが……聖獣は市井の魔法使いが治療したそうだな。その技にそなたは感動したのだろうが……だからと王宮魔法使いでない者を陛下の治療に推挙するとは、あまりに浅慮な行動ではないのか」


侯爵は、剣の宿る紅瞳でセインを睨んだ。

同じ色をしていることもあり、そういう目付きをするとオリヴィアの親だとつくづく実感させられる。この親子は人を睨む際の目がよく似ているのだ。


「……彼女ならば成し遂げられると、その素晴らしい力に少し冷静さを欠いてしまいました。性急すぎたと我ながら思っております」


長官と王太后しか知らないはずの情報がしっかり伝わっている様子に、セインは心の内で肩を竦めた。

自身の娘はアナベルが王の治療をすることを望んでいるのだが、父侯爵は失敗するとしか考えていないようだ。

おそらく長官から 『自分にできないことが他の魔法使いに可能なはずがない!』 とでも、力強く訴えられているのだろう。


「陛下あってのベリルだ。お世継ぎのいらっしゃらない今、確実にお身体のためとなる魔法でなければ、かけさせるわけには行かぬ。適当な魔法で大切なお身体にもしものことがあれば、目も当てられぬ事態となる」


セインを咎めるような口調で言葉を紡いだ侯爵は、最後に表情を変えた。鼻で笑うと侮蔑しきった目をして問うてきた。


「それともそなた……もしもの事態を待ちわびているのか?」

「侯爵殿、それは私にとって最大の侮辱です。取り消して頂けぬなら、こちらにも考えがあります。私はあなたには若輩にしか見えぬのでしょうが、陛下に対する忠誠心は誰にも劣らぬものと自負しております」


たとえ冗談であっても、黙って許せる問いではない。

険しい面立ちにて強く非難したセインに、侯爵は一瞬鼻白んだ様子を見せた。


「これは、失礼した。老爺の戯言として忘れてほしい」


喧嘩を売っているのかと思いきや……何一つ反論することなく、頭まで下げて見せた侯爵に、セインは毒気を抜かれた。


「……ところで、先ほど陛下がお決めになられたことだが……」


セインが無言でいると、侯爵は会話の内容を変えた。

だが、侯爵がセインの時間を欲した真の理由はこれなのだろうから、いつまでも後回しにして他の話題をだらだら続けられるよりはいい。


「そなた、生活困窮者など守ってやっても何の得にもならぬと、なぜわからぬのだ? 無駄な労力は割くべきではない」


侯爵は、困った者を見るような目をセインに向けていた。

二人で話をするとなると、この話題になるのはわかりきっていた。が、まっすぐに一言の誤魔化しもなくこうして問われると、本当にまったく相容れぬ相手なのだとしみじみ実感させられる。


「私はそのことに関しましては、得になる、ならないで行動しているのではありません。生活困窮者対策に貴族たちから没収した財産をあてがうのは、当然のことであるからおこなうだけなのです」

「当然のことだと?」


己に都合の良い返答をしないセインが癇に障るのだろう。侯爵は片眉をピクリと跳ね上げると口元を歪めた。


「生活困窮者が多数出ているのは、領主がきちんと面倒を見るどころか、領民を搾取の道具としか見做さず苦しめ続けたからではありませんか。それらの領地では作物が実らなくなり、だから民は貧しい暮らしを余儀なくされているのです。ですから、その領主の上位に立つ我らが責任をもって、民に幸せな暮らしを返すべきなのです」


庭園のほうから吹いてくる心地よい風がセインの頬をくすぐるように撫でた。

きゅきゅが楽しげにしている光景に思わず目が和みかけるが、肌を刺すかのような侯爵の眼差しを感じて気を引き締めた。


「綺麗ごとを抜かすな。虫唾が走る。生活困窮者など勝手に飢えさせておけばよいのだ。そうなった責任は、領民の管理ができぬ愚かな領主にあり、我らには一切関係ないことだ」


セインの言葉を侯爵は苛立たしげに撥ね退け、一片の迷いなくきっぱりと言い切った。

耳を疑うようなそれに、眩暈がしそうだった。


「飢えさせておけばよいなど……食事を摂らねば人間は死んでしまうということは、当然ご存知ですよね?」


目の前にいるのは本当に自分と同じ人間なのかとセインは真剣に考えてしまった。

あまり、頭を痛くしないでほしい……。


「すべて飢え死にさせておけば、他領に流れ出て住みつかれる心配もなくなるというものだ。私やそなたの領に悪影響が出ることはない。放っておいたところで何の問題もないのだから、没収した財産は我ら上級貴族が有効に使えばよいのだ。そろそろ素直になって偽善者の仮面などはずしてしまえ。そのほうが楽に生きられるぞ」


侯爵は腕を組み、心持ち胸を張るようにして堂々とセインを見つめた。

良い助言をしているとばかりに、自信に溢れた笑みを浮かべている。

それはしかし、セインにとってはどう考えても承服できる内容ではなかった。


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