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043.楽しい時間の終わり

「そんなに考え込まなくともよいではないか。悪事を働いたわけでもなし……」


ぽんぽん、とセインが優しくアナベルの背を叩く。

確かに悪事を働いたわけではないが……そうたやすく浮上できない。


「思い切り背中を押してもいいですよ」


今度は肩を撫でてくれているセインに、丸まったまま伝える。


「え?」

「土手を転がって、川に飛び込んで頭を冷やしたい気分です。少し考えればわかることだったのに、私は馬鹿です」


怪訝な声をあげるセインに、ぼやくように口にした。

本気で押されたとしてもかまわない。

あのチョコレートをセインに食べて貰いたかったからと、それしか頭になくなり周りを忘れた己を猛省する。


「君を川に落とすなどいやだ。私は、ああして食べさせてもらえるほうが嬉しいから、馬鹿とは思わないよ」

「……人目のあるところでは二度といたしません。学習しました」


嬉しいと言ってもらえると、悪い気はしない。

でも、羞恥心が完全に消えることはなく、同じ過ちは二度繰り返さないと固く心に誓う。


「ならば、二人きりの場でなら構わないのかい?」


声が弾んでいるように聞こえるセインに、アナベルは顔をあげて苦笑した。


「お気持ちが沈むようなことがあった場合には……セインには、いつでもお元気でいてほしいので」


自分にできることならば、きっと何でもしてしまうだろう。

それに、ああして食べてもらうのはアナベルにしても楽しかった。人目さえなければ、少しもいやなことではない。

ところが、アナベルの返事にセインは少し困ったような顔をした。


「気持ちが沈むこと、か……それは難しいな。私のようなものが頻繁に気持ちを沈ませていては碌なことにならない。苦しいことがあっても沈ませぬようにと心がけているから」

「さすがは光属性ですね。そのお心の大きさは眩しいばかりです」


ブルーノのように己を格好よく見せようと考えて、耳にした者が感心するであろう言葉を選んで言っているのではない。

自然体で素直な気持ちを語っているとわかるから、アナベルはセインに心酔してしまうのだ。

恐ろしく思えるほどに前向きで、強い……。

そうでなければ宰相として政の場に立つことも、王家と対等とさえ言われる大家の当主も務まらないのだ。

本当にすごい人だとアナベルがしみじみ思っていると、セインは悩み始めた。


「君には立派で良い男だと感心してもらいたいが……落ち込んでいるところを慰めて貰うというのも捨てがたい。うーん、困ったな……」


冗談で言っているのではなく、腕を組んで本気で悩んでいる。

立派な人なのに、どうしてこんなに可愛いらしい面も備えているのだろう。

終いには答えの出ない苦しさを吐露するかのように唸り声まであげた。それがアナベルの心のツボを猛烈に刺激する。

どんな姿でもいい。ずっと傍で見つめていたい人だ。そう、魂が囁きかけてくるように感じたその時。

きゅきゅが飛んできた。


【気持ちよかったわあ! おなかもいっぱい】


満足そうに目を細めてセインの肩に留まる。


「楽しかったかい?」

【ええ、とっても! お花がたくさん咲いたのも良かったわ】


その背を撫でながら問うセインに上機嫌で応える姿は、川遊びをしていたはずなのに濡れている様子がない。濡れても瞬時に乾く、という性質も備えているのだろうか。

ついついじっくり見てしまうアナベルだったが、きゅきゅの関心はセインが持っている花のほうにあった。


「綺麗だろう。アナベルが咲かせてくれたのだよ」


セインは、手に持つ桃色の花をきゅきゅの鼻先に近づける。

きゅきゅは心地良さげに花の香りを堪能すると、ぱくっと食べた。


「…………」


セインの手には、緑の茎と葉だけが残された。


【おいしいわ! いい香りのお花って、本当においしいのよね!】


ご満悦な様子で喉を鳴らされては何も言えない。

人間も食用の花は食べるのだから、きゅきゅが花を食べてもおかしなことではないのだ。

でも、せっかくだから食べる以外にも楽しんでもらいたい。アナベルは己の周囲の花をいくつか選んで摘む。素早く編んで小さな花輪とした。


「花は食べるだけでなく、こうしても可愛いのよ」


きゅきゅの首にかける。

きゅきゅは何かしら、と言いたげに少しきょとんとするも、すぐに機嫌のよい雰囲気になった。


【なかなか、いいわね!】

「きゅきゅは可愛いからなんでも似合う」


花の首飾りを喜ぶきゅきゅを、セインが目を細めてその頭を撫でる。

そして、自身もいくつか花を摘んで編み始めた。思わぬ器用に手が動いているのに、アナベルは感心して見入った。


「お上手ですね」


男の人が花を編んでいる姿など見るのは初めてだった。


「幼い頃、母が教えてくれたのだ。久方ぶりだが、結構手が覚えているものだな……」

「お母様が……」


セインは、懐かしい目をして楽しそうに編み続ける。あっという間に花の冠が出来上がった。

とてもきれいに仕上がっている。

しかし、ちょっと……いや、かなりきゅきゅには大きすぎる物だ。頭に載せるのはまず不可能、と思っていると自分の頭に載っていた。


「アナベルも可愛いからなんでも似合う。宝石は駄目でもこれなら受け取ってくれるかい?」

【似合うわ。お揃いね!】


二人に笑顔で見つめられ、アナベルは満面の笑みを浮かべた。


「ありがとうございます。大事にします!」


どんなに高価な宝石よりも、嬉しいに決まっている。生涯枯れないように魔法をかけておくと決めた。

心地良く美しい景色の中で、この穏やかで楽しい時間がいつまでも続けばいいのに……。

アナベルがそんな望みを抱いて幸せに浸っていると、馬の蹄と馬車の車輪の荒々しい音が近づいてきた。


「公爵様!」

「ああ、いらっしゃった……」

「良かった……」


土手の道を必死の形相で馬を駆る護衛騎士たちと馬車の登場に、楽しい時間は終わりを告げた。



◆◆◆



「おまえは本当に豪気な奴だよな。きゅきゅのことで休んだ分を取り戻すべく働いてくるのかと思いきや、早々に王宮を下がるとはな。報告が来て驚いたぞ……」


城に戻ると玄関先に、一目で機嫌が悪いとわかるジャンが腕を組んで立っていた。

朝に王宮へ向かうセインを見送った際にはいなかった。だからてっきり、今日は王宮でセインの補佐を務めるのだろうと思っていたが、この口ぶりでは違うようだ。

馬車を下りるなり、ダニエルが挨拶するより先に投げてきたその言葉にセインは怒るでなく、苦笑した。


「明日からはきちんとする。……今日は少し計算違いなことがあってな、書類仕事をする気になれなかったのだ。私もまだまだということさ」

「それで、アナベルに会いに行って甘やかして貰ったと?」


セインの後から馬車を下りたアナベルに、ジャンは一瞬だけ視線を寄越した。


「最初の予定はそうではなかったのだが、結果としてはそうなったな」


首の後ろの辺りを少し掻くようにしたセインに、ジャンは軽く頷いた。


「ま、それで気持ちが和んだならいいさ。……計算違いとは魔法使いの長官のことだろう。舐めた真似をしてくれるものだ」


どうやらジャンの機嫌が悪かった理由は、セインが王宮を早々に下がってアナベルと会っていたことではなく、魔法使いの長官が原因であったようだ。

腹立ちの感情が滲むジャンの声に、セインがひょいと片眉を上げる。


「おまえ、今日は王宮に来ない日ではなかったか。なぜそれを知っている?」

「長官の使いと名乗る者が先ほどここに来たのだ。おまえはまだ帰っていないと言うと、私でもよいと言うのでな。話を聞いた」

「内容は?」


ダニエルとモリーが左右に開いた扉をセインが抜ける。

ジャンがその右隣に、アナベルはこのまま聞いていてもいいのだろうかと思いつつ、二人の少し後ろを歩いた。


「小切手を持ってきた。お前に受けた恩をすべて返すとのことだ。金を返すのだから今日限り無関係とは、あからさますぎだろ?」


「ほう。すべてということはあの額を一括でか……。浪費家の長官がそれほど金に余裕があるとは思わなかったな。しかも行動が早い。私が今日アナベルのことを言わずとも、私と手を切るつもりだったのだな。余程良い金づるが手に入ったようだ」


苦虫を噛み潰したようなジャンとは対照的に、セインの口調はどこか面白がるようなものだった。

が、その身を覆う気配は冷ややかなものに変じており、アナベルは自分に向けられたものではないとわかっていても、緊張して足が震えた。


「金の出所に関しては調べさせている。すぐに報告がくるだろう」

「陛下のお身体よりも、己の欲を優先する長官などそのお側に置いておけぬ。そろそろ交代を考えてもよさそうだ」


ジャンに頷きながら低い声で呟くように長官の排除を口にしたセインに、アナベルの緊張は増すが、ジャンは明るく返した。


「ああそれなら……アナベルが王宮魔法使いとなれば良いのではないか。長官が匙を投げたきゅきゅを癒したのだ。間違いなく長官より力が上なのだから、初の女性長官で決まりだな。陛下もお元気になられて、こちらも親しい者が長官となる。いいことだらけだ」


最後には満足そうににっと笑う。

しかし、それを耳にしたアナベルは顔を顰めてしまった。


「私は、王宮魔法使いにはなりたくありません」


アナベルの名は挙がっているが、二人はこの話をアナベルに向けてしているのではない。

そうとわかっていてもつい、二人の背後から口を挟んでしまっていた。


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