032.朝 食
うずくまっていようと、アナベルの意思に関係なくおなかは空腹の叫びをあげる。
止めようのないそれに、アナベルはこの場に穴を掘って頭の先まで埋まりたくなった。
ぽん、とセインの手が肩に触れる。
びくっ、と大きく身体を揺らしてしまうと、柔らかな声がかかった。
「朝におなかがすくなど当たり前のことだ。君が謝る必要などまったくない。私の態度が悪かったようだ……こちらこそすまないことをしたね。着替えて食事にしよう」
「……え?」
呆れている様子のまったくないセインに、アナベルはつい顔があがる。その姿をまじまじと見つめてしまった。
ベリルの貴族は、人前でおなかを鳴らすのは良くないことだと教えられて育つ。たとえどんなにおなかがすいていようとも、それを感じさせない毅然とした態度を保つことこそが立派な人間であると……。
礼儀正しい良い人間とはそうした者であると説く教師の授業を、アナベルは真面目に聞いた。だから、恥ずかしくて蹲っていたのだが、セインはそれを守れなかったアナベルに嫌な顔一つしない。
「遠慮せず、おなか一杯になるまで食べるのだよ」
「おなか一杯……」
それどころか、気遣って頭を撫でてくれる。
どうしてこんなに自分に都合が良すぎる人なのだろう。セインとは、アナベルの憧れと妄想が生み出した幻なのだろうかと馬鹿げたことを本気で考えてしまうほどだ。
胸があったかいものでいっぱいなる。ぽうっとして見惚れていると、額にその唇が触れていた。
「そのおいしそうな顔は、私以外に見せては駄目だよ」
「え?」
苦笑交じりの囁きにきょとんとして小さく首を傾げる。
ひもじそうな顔と言われたならわかるのだが、おいしそうな顔というのはなんだろう。
わからなくて自分の顔を両手でぺたぺた触っていると、籠の中のきゅきゅが動いた。
【私も食べる。おなかすいたわ】
あくびをしながら首をあげてこちらを見ている。
セインがその姿に微笑んで頷くと、扉が叩かれた。ちょうど良いタイミングで、侍女たちが起床のあいさつに来た。
おいしそうな顔というのは結局わからなかった。
だが、アナベルにそう言ったセインに怒りや嫌悪の感情は見受けられない。なので問題はないのだろうと、しつこく問い質すような真似はしないでおいた。
アナベルはセルマとロージーの挨拶を受ける。
着替えのための部屋へと移動し、二人の手際に感心しながら支度を整えた。
寝室のことをどうしようかと思うも、自分からは言い出しにくい。セインが上手く言っておけばよかった……と言っていたような気がするので、お任せしようと考えが纏まる。
そのまま二人に案内され食事室に入った。
すでにセインが席に着いており、きゅきゅの食事を楽しそうに見守っていた。
きゅきゅはセインの隣にテーブルが用意され、そこに置かれた大皿から野菜を機嫌よく食べている。素晴らしい食べっぷりに見惚れながら席に着くと、給仕の手によりアナベルとセインの前にも料理が並べられた。
「食べたいものがあれば、好きなだけ言うといいよ」
「ありがとうございます」
自分はとても幸せ者だと思いながら、アナベルはセインに感謝し上機嫌で食事を始めた。
爽やかな日差しが降り注ぐ窓辺に置かれた円テーブルにて、セインと向かい合っての食事。金糸で刺繍の入った純白のテーブルクロスも、食卓を彩る食器もとても美しくアナベルの目を喜ばせてくれた。
運ばれてくる料理も、昨日と同様にとても美味しいものだった。
アナベルはそれを食べれば食べるほどのおなかがすくように感じた。しかし、我慢は必要なかった。
セインはアナベルがとてもおなかをすかせていると召使たちに言ってくれたようで、厨房からは次々と料理が運ばれてきたのだ。
しかも、好物の注文などしなくとも、用意されるのはすべてアナベルの胃袋をこの上なく魅了するものばかりだった。
アナベルは食事に没頭し、至福の時間を堪能した。
満足の息を吐きカトラリーを置こうとすると、もっとお食べとセインが勧めてくれる。
その時点で空腹は満たされていたのだが、せっかくの言葉を断るのも悪いかと思いアナベルは食事を続けた。
しかし、それが三度となったところで胃袋は限界となった。
「せ、セイン……さすがに、もういいです……」
アナベルは口元に手を置き呻くようにして訴えた。
「本当に? 遠慮はなしだよ」
せっかくの言葉であるが、どんなにおいしい食事でもこれ以上食べるのは不可能である。
「充分味わわせて頂きました」
おなかが重くて苦しい。
幸せな食事も、すぎれば不幸になり変わる。
「そうかい? おなか一杯になったのならいいのだが……」
「セインのほうこそ、あまり召し上がっていないように思うのですが……」
心配そうにこちらを見ているセインに、なんとか笑顔を作って向けた。
これ以上食べればおなかが破裂しそうである。
それに、セインはアナベルに勧めるばかりで自身はあまり食べていないのが気になった。
不摂生の果てに太っているのではなく、呪いでその体型となっているのだから大食漢でなくともおかしなことはない。
ないのだが、予想よりも少ないのに驚かされた。
魔法を使わない折のアナベルの食事よりも少ないように思うのだ。もう少し食べたほうが良いのではないだろうか、と心配になる。
まさか、呪いでどこか病んでいてそれで食が細いのだろうか。
そのような事はまったく感じなかったのだが、気付かなかっただけかもしれない。しっかり診させてもらいたくて側に行こうとしかけたアナベルに、セインは意外なことをあっさり言ってのけた。
「私? 私はいつもこんなものだよ」
偽りをまったく感じない言葉だった。
給仕たちを見ても、これで普通だという顔をしている。体調を維持するには足りないから、もっと食べてほしいといった様子はまるで見当たらない。
「いつも……それが普通……」
アナベルは呆然としてしまう。
ということは、セインの食事量が少ないと感じるアナベルは、今に限らず普段の食事からしてセインよりもたくさん食べているのだ。
父や祖母はアナベルに食べすぎなどと言ったことはない。好きなだけ食べさせてくれたので、アナベルは自分の食べる量をおかしいと思ったことはなかった。
しかし、先日まで三年暮らした寄宿舎では、好きなだけ食べることはできなかった。でも、あそこは厳しい場所だからそれも仕方のないことだろうと、満足を得られないことには我慢して過ごした。
学友に不平を漏らすような真似もしなかった。
もしも不平を漏らしていれば、自分がおかしいということにその時点で気づいただろう。その上、友人たちにはきっと奇異の目で見られたはずだ。
みんな必死で我慢しているものとばかり思っていたのだが、それは間違いだった。
学友たちが寄宿舎の食事量に文句を言わなかったのは、我慢していたからではなく普通の食事量だったにすぎなかったのだ。
「どうしたのだ。何か、困ったことでもあったのかい?」
アナベルの様子がおかしいと感じているのだろう。セインの目は案じるようにこちらを見ていた。
「私、大食らい……」
その目に大丈夫です、と微笑んで見せるどころか、アナベルは知り得た最悪の事実に真っ青になった。
人前でおなかを鳴らす上に大食らいなんて……こんな淑女と程遠い人間と結婚すれば、セインは究極の損をする。
自分が心底情けなくてずーん、とさらなる落ち込みに見舞われそうになったアナベルの脳裏に、朗らかなきゅきゅの声が響いた。
【同じね、副隊長。私もたくさん食べるのよ】
「え?」
大皿一杯に山と盛られたさまざまな種類の野菜と果物をぺろりと平らげているきゅきゅと目が合う。
それは最初に見たものではなくおかわりであり、給仕が丁寧に皿に盛っている。
その小さな体のどこに入るのだろうと不思議に思うほどの量だが、肉類は見当たらなかった。
【たくさん食べるのは悪いことじゃないわ。きっと、私はセインを襲う禍を弾くために、あなたは魔法を使うために栄養がたくさん必要なのよ】
きゅきゅはリンゴを齧り、目を細めておいしそうに飲み込んだ。
「隊長。ありがとう……」
「アナベル。きゅきゅがどうかしたかい?」
きゅきゅは、セインには声を届けないようにしてアナベルに話しかけていたようだ。
その慰めに心が癒されたアナベルを、セインが怪訝な顔をして見ていた。
「私は、どうやら普段の食事もセインよりたくさん食べるようなのです。それは駄目ではないかと思っていたら隊長が、たくさん食べるのは悪いことではないと……」
「そうだね。私もたくさん食べる人が好きだ。見ていて気持ちいいからね。私の食べる量など気にする必要はないよ。どうか遠慮して食べないなど、そんな真似はしないでおくれ」
「…………」
優しい笑顔でまた甘やかしてもらった。
アナベルが、嬉しすぎて言葉が出ないでいると、セインは機嫌よく笑いながらの野菜と果物の山を堪能しているきゅきゅに眼差しを向けていた。
確かに、ぱくぱくと調子よくその身体に収めていくきゅきゅの姿は可愛らしい。
だが、どうしても一つ気になった。
アナベルが読んだ資料本では、竜は肉食のように書いてあったのだ。でも、きゅきゅは野菜と果物しか食べていない。特別な飛竜ともなればその辺も異なるのだろうか。
「隊長の食事は、野菜と果物ばかりなのですね」
【私お肉がいちばん好きよ。でも、お肉は自分で獲りに行くの。人間は、私が好きなお肉を捕まえるのは苦手なようだから。それに、そのほうがとっても新鮮でおいしいのよ……ふふ】
呟くように口に乗せたアナベルの疑問に、セインではなくきゅきゅから面白そうな声が返ってきた。
「新鮮なお肉が好き……」
なるほど。お肉に関しては、狩りに行ってその場で食べるのがおいしいということか。どのような生き物が好みであるかはわからないが、そういう姿はセインには見せないようにしているのだと納得する。
食後のお茶を味わい、アナベルはほっと一息ついた。




