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016.キスと純情

「財務大臣殿がお見えだ。おまえ、政務も放っていたからな。かなり機嫌が悪いぞ」

「それは会わねばならぬな」


やれやれと言いたげにセインは首筋を掻いた。

そうして、モリーに目を向ける。


「モリーの用件はなんだ?」

「こちらにアナベル様がいらっしゃると聞きまして……今宵のアナベル様のお衣装なのですが、採寸しての制作ではございませんので微調整が必要になります。これより試着して頂きたいのです」


モリーの用件を耳にした途端、セインの表情は一変し、朗らかなものとなった。


「アナベル。夜会用の衣装が決まったようだ。だが、気に入らなければ正直に言ったので構わない。すぐに別の物を用意させる」

「衣装……あ、お世話になります」


確かに、今着ている飾りのほとんどない若草色のワンピースでは、夜会で纏う礼装とするには不充分だ。

この姿では招待状を持たぬ町娘が紛れ込んだのか、と不審者扱いされるのが関の山だろう。

夜会まで日数があるならアナベルは裁縫が得意なので自分で仕立る。もしくは、町の仕立て屋に注文が出せるのだが、今宵ではそれは不可能だ。


アナベルは伯爵家を出る際、一般の民として生きるなら着ることもないだろうと仕立てていた夜会用のドレスは荷物に入れなかった。もしもの為の換金用にと考えもしたのだが、あまり大きな荷物にしたくなかったので、やはりやめた。

なので、今宵のドレスはセインの好意に甘えるしかない。


「ではアナベル様。どうぞこちらに」


モリーがにっこり笑って促してくる。

アナベルは席を立ち、その傍に歩み寄った。


「ではセイン様。どうぞこちらに」


ジャンがモリーを真似て言う。

セインはものすごく嫌そうな顔をしつつも、席を立った。


「……財務大臣の用件というのは、外務大臣とその取り巻きたちが、潰した貴族たちから没収した財産の使い道に関してしつこくい下がってくることについてだろう?」


没収した財産の使い道……耳に入った言葉にアナベルはピクリと肩が揺れた。

貴族の財産を没収できるのは、ベリルでは国王ただ一人だ。

だから使い道を決めるのも国王だと思っていた。

まさかそこにしつこく口を出している貴族がいるとは……なんとも嫌な事実に眉根が寄る。


「そのとおり。弱者対策に使っても何の益にもならないから考え直して頂けるよう上奏すべきだ、と取り巻きたちを引き連れて、それはもううるさく説き続けるのだそうだ。おまえが王宮に来ないものだから、一人で延々聞かされたとそれはもうお冠だ」


ジャンが頷くのを見て、セインは渋面になった。


「没収した財産は、すべて貧しい地の整備と生活困窮者の救済にあてるというのは陛下のお考えだぞ。それを益にならぬから考え直せなどとは、あの男はいったい何様のつもりだ……」


怒りの感情が滲むセインの言葉に、アナベルもまったく同意だ。

王が間違ったことを言っているならいざ知らず、国の為となる素晴らしい発案にケチをつけるなど、臣下の貴族がすることではない。

胸がムカムカしていると、ジャンが苦笑していた。


「陛下のお考えが実行されたなら、自分たちの懐に一銭も入らなくなるからな。お前と司法大臣が推し進めた貴族潰しに外務大臣殿が待ったをかけなかったのは、没収したその財産を、王家と上級貴族で分け合うと勝手に勘違いしていたからだろ。おまえが上手いこと言って、そう思い込ませたのだったよな?」


「外務大臣を潰せる証拠はまだ揃っていないからな。私の邪魔をさせないためにそうしたのだが、やはり邪魔だ」


何とかしなければな、と呟くように口に乗せたセインに、ジャンはにやりと笑った。


「そんなおまえに朗報だ。司法大臣殿の側近から良い連絡を貰った。もう少し堪えれば排除できる証拠が揃うとさ。それさえ手に出来れば、お前や財務大臣殿の頭痛の種はなくなるぞ」


「お、そうか! ならば財務大臣の愚痴を聞くのも多少は楽というものだな」


セインの声音が重苦しいものから明るいものへと変わった。

アナベルはなんだかほっとする。


「上級貴族だけが潤えばいいという外務大臣殿やその取り巻きたちの考えでいては、ベリルに良い未来などない。とされる陛下のお気持ちに誰より忠実に従う宰相……無視して悪辣な貴族たちをのさばらせておいたところで、マーヴェリット家が潰れるわけでもなし、それどころか余計な恨みを買わずに済むというのに……。お前はそれをわかっていて敢えていばらの道を行く。本当に、ベリルは良い宰相を持ったよな!」


ぱん、と少し強くジャンがその肩を叩く。

ぽよん、とお肉が揺れるのが服の上からでもわかるが、アナベルはセインという人間に心底感動した。


所領持ちの貴族の中には、充分に財産を持ちながらもさらなる蓄財や贅沢を考え、領民から過剰に税を取ってはその暮らしを極貧に追い込み苦しめている者がいる。

そういう話を学院で数多く耳にし、アナベルは何度も嫌な気持ちになったものだ。


その中にマーヴェリット公爵の名が入ることはなかった。

逆に、領民にとても慕われている領主だと耳にしていた。その彼が宰相となったと知った時、悪辣な領主の下で苦しむ国民が少しでも減るといいと期待した。

期待通りに悪辣な真似をする領主たちが厳しく罰せられていくのに、とても嬉しく思ったものだ。


アナベルの父も領民に憎まれるようなことはしなかった。

身分にあまりこだわりを持たず、一般の民である母を妻とした父は、領民も自分と同じ人間であり領主として守らねばならない大切な存在ときちんと心得ている人だった。

だからカウリー伯爵領は豊かとはいえないが、領民たちが貧困にあえぎ不満を爆発させるといったことはなかった。

そのような領主であった父に、アナベルはブルーノとの婚約を決めた以外で不満を抱いたことは一度もない。

忙しいであろうに、時間が出来るとすぐにアナベルを呼んで会話の時間を持ってくれた。母がいない寂しさを感じさせないようにと心を砕き慈しんでくれる気持ちが、言葉にされずとも伝わってきた。

優しくあったかい人だったのだ。

高等学院を卒業して領地に戻った暁には、孝行として領地を豊かにするような魔法を使おうと考えていた……。

それがまさか亡くなってしまうとは、夢にも思わぬことだった。


セインはその父よりももっと大勢を守ろうとしている。

ジャンの言うとおり、己の利益だけを考えた方が楽に暮らせるだろうに。

それでベリルがすぐさま崩壊するようなことはないだろうに。


セインはどれほど悪辣な貴族たちから恨まれ呪いの攻撃を受けようと、遠い未来のことまで考えて目先の利益に走らないのだ。


これは、ますます気合を入れて守らねばならない。


アナベルが心の内でそう誓っていると、セインの肩にいるきゅきゅが首だけ動かしてこちらを見た。

その表情は、どこか満足して笑っているように見えた。


「違う。私は良い人間などではない。財務大臣や司法大臣と同じく、陛下のご命令に従っているに過ぎないのだ」


褒められるのは苦手なのか、セインはジャンの言葉に顔を顰め、少し唇を歪めるようにして否定した。


「そうだな。おまえは誰より陛下に忠実な臣下だ。それが王太后様と第一妃殿下に伝わらないのがまったくもって残念だ」


最後は不満げにジャンは眉を顰めた。

すると、今度はセインがその背を叩いた。


「陛下が快癒されれば、お二人とも私のことなどなんとも思わなくなる。気にする必要はない。王家の方に対する不平は零すな!」

「ぶっ! その手で力を入れて叩くやつがいるか! あの状態がそう簡単に快癒など……」


ジャンが思いきりむせながら前につんのめる。

それでも不平の声をあげかけて、何かに気付いたように言葉を切った。素早くアナベルの前に移動してくる。


「白黒上級魔法使い。宮廷魔法使い長官でさえ匙を投げたきゅきゅを癒した……陛下も治癒させられるのか?」


妙に熱の篭った眼差しを向けられ、アナベルは眉を下げて曖昧な笑みを浮かべた。


「やってみない事にはわからない、とセインには言っています」

「ぜひとも頼みたい! セインは王位に欲など抱いてはいないのだ。それなのに、事あるごとに疑われる。陛下がお元気にならない限りそれはずっと続く……下手をすれば、王家とマーヴェリット家の諍いになるかもしれないのだ」


セインの身を案じて焦燥を募らせているのが良く見て取れるジャンに、アナベルはこくりと頷いた。


「全力で頑張ります」


アナベルとて、王家とマーヴェリット家の諍いなど見たくはない。セインがとても苦しむのがわかるからだ。


「本当かい! ありがとう!」


ジャンに両手を握られる。

ぎょっとするアナベルにお構いなく、ジャンは握った手を軽く上下に振るようにして喜んでいた。

満面の笑みまで浮かべたその喜びように、セインのことが心より大切なのだと感じて嬉しくはなるが、手は放してほしい。

困ったわ……と思っていると、セインがジャンの腕を掴み離してくれた。


「いくら嬉しいからと、彼女に触るな」


機嫌の悪さがはっきりしているセインの声音と表情に、ジャンは少し不服そうな顔をした。


「感謝の気持ちを伝えていただけだ。口説いていたわけでもないのに……まったく。男の嫉妬は醜いぞ~」


最後はからかい口調となったジャンの言葉をセインは右から左へと聞き流し、アナベルだけを見ていた。


「それでは、夜会の前に会おう」

「はい。支度を整えてお待ちしております」


セインの仕事がどのような難しい内容であるか、アナベルに推し量ることは出来ない。

それでも、お仕事頑張ってください、との思いを眼差しに込めて微笑むと、それは伝わったようだった。

セインは幸せそうに微笑み、少し顔を傾けるとアナベルの頬に厚ぼったい唇で触れた。


「とても楽しみだ」

「え?」


お肉がたっぷりで柔らかいそれが、ふよんと頬に触れる。

いや、とは思わなかったが、これはキスなのかしらと困惑した。

どうしてセインが自分にキスをするのだろうと疑問が脳裏を巡ったアナベルは、こちらを見ているジャンとモリーとばっちり目が合った。


「あ……」


アナベルはセインの婚約者ということになっているのだから、親密な関係にある人間なのだ。

ジャンやモリーはそう思っているわけで……よそよそしい態度を取る方がおかしく見える。

さきほど、抱きついていません、などと言い切ったのは拙い対処だったのだ。

あの時の二人が見せた不思議そうな表情の理由を、今になってアナベルは思い至った。


偽装であることをセインはこの二人にも話さないようだから……知られないためには、今度こそ間違ってはいけない。


アナベルは、つま先立ちになると思いきってセインの頬に自分からもキスをした。

ぷるん、としてとっても柔らかかった。


「え?」


今度は、セインが驚きの声をあげる。

お肉で目蓋が垂れすぎて普段は細くなっている目が、少し大きくあいている。

美しい黄金の瞳がよく見えるセインに、アナベルはにっこりと微笑む。


「いってらっしゃいませ」


挨拶のキスであっても父親以外にするなど初めてなので緊張するも、顔が強張らないように気を付けた。


「あ、ああ……いってくる」


セインは頬を赤らめ、ぎくしゃくとした動きで部屋から出て行った。

動きがおかしい。

怒っているようには感じないが、自分はまた間違ってしまったのかと不安を覚えつつ、アナベルはその背を見送った。


「三十過ぎの男が、見ているこちらが照れるような純情ぶりを発揮するんじゃない。笑える!」


ジャンが言葉通りに廊下で大笑いし、セインに頭を叩かれきゅきゅに髪の毛掴み攻撃を食らった。


「いたいっ! きゅきゅ、私の美しい髪が減ってモテなくなったらどうしてくれるんだ!」

「モテなくなった方が間違いなく平和だな」


ジャンの抗議にセインが冷静に応えながら居間より遠ざかっていく。

あのキスで親密であることを表現したかったのだが、笑える、との感想がつくということは駄目だったのだ。

慣れないことはうまく出来ないものだとアナベルが心の内でがっくりきていると、モリーが優しく微笑んでいた。


「では、私たちも参りましょう」


婚約者と親密であると誰が見てもわかるようにするには何をすればいいですか、などと訊ねるわけにも行かず、アナベルは無言でその後ろを歩くしかなかった。


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