大蜘蛛
その日はなんでもないただの非日常という名の日常だった。
昨日俺とシーナの間で起きた騒動は鳴りを潜め、俺らはいつも通り朝起きてメシを食って、そして午前中いっぱい街の外で狩りをした。
そしてちょうどシーナがレベル13になった頃になって昼メシを食おうと街へ引き返した。そんな他愛のない普通の日常。
そんな日常の中に1滴の毒、いや、1匹の毒蜘蛛が混じった。
その毒蜘蛛は俺らの日常を脅かし、毒で犯して、そして喰らう。
なぜ今なのか、どうして出てきたのか。
そんな疑問を幾度もすれど、明瞭な答えはどこからも返っては来ない。
ただただ目の前の現象こそが現実。この非日常こそが日常。
この残酷な災害をどうして神は何の前触れもなく俺らに降り注いだのか。
あるいは誰かの策略か。何処かではびこる陰謀か。
それは今の俺らには誰もわからない。
唯一つわかっていることは、2番目の街、セカンディアードは今、1匹の大蜘蛛に蹂躙されているということだけだ。
俺らが午前中の狩りを終えて街に戻ると、1匹の大蜘蛛が街の中を襲っていた。
「くそっ! 誰かあの蜘蛛を止めろーーーー!」
「ダメだ! こっちのパーティーもやられた! 復帰できるのはいつになるかわかんねえ!」
「なんなんだよあいつは! あんなの今の俺達に敵うモンスターかよ!?」
走っている最中大きな広場で大勢のプレイヤーが運び込まれているのを発見した。
既にそれなりの戦闘時間が経っていたらしく、かなりのプレイヤーが治療を受けている。
俺らが街に戻った時、街の中は大混乱が生じていた。
無理もない、街の中にモンスターが現れたというんだから。
俺らはモンスターが出現したという2番目の街の中にある教会跡地に向かって走っていた。
俺の中で一つの予感めいたものと、一つの後悔がないまぜになってグルグルと俺の心を掻き乱していた。
「リュウ! 少し落ち着くんじゃ! モンスターが現れたのはお主のせいではない!」
「だがっ! くそっ!」
俺は必死に教会跡地に向かう。
なぜこんな単純な可能性を見落としていたのか。
始まりの街を突如襲ったあのブラックゴーレム。
あれは街の教会跡地の地下から現れたモンスターだ。
だったらこの2番目の街にある教会跡地にも同様にモンスターが眠っている可能性はないか?
俺はそんな可能性を失念していた。
そして今の事態が発生した。
「わしもこうなることは予想できんかった! 他の者達もそうじゃ! じゃからお主が気に病むことはないんじゃ!」
「わかってるさそんなことは! でもなあ! 誰かがその可能性に気づかなきゃいけなかったんだよ!!!」
「リュウ……」
「……悪い、現場に急ぐぞ」
「……うむ」
「……あんた達、なんかあったの?」
俺とバルの問答に1人シーナはついていけていなかった。
まあ無理もないか。
コイツは始まりの街での騒動が起きる前に2番目の街に来ちまったからな。
それなりに時間が経ったからこっちの街でも始まりの街の出来事がそこそこ聞くようにはなってたが、あまり興味深く聞いてなければ街の中でモンスターが出たという程度しか知らないだろう。
「……今は詳しく話してる暇はねえ。唯一つ言えることは、この先にいるモンスターを倒さないといけねえってことだけだ」
「……ふーん。まあわかったわ。それくらいシンプルなら私も集中して目の前の敵と戦えるわ」
「気をつけろよ。多分この先にいるモンスター相手にはHPの保護が効かない。街の中でも死ぬ可能性があるってことだからな」
「ええ、わかったわ。どんな攻撃がきても絶対にかわしてみせるから見てらっしゃい!」
「その意気だ。俺は後ろから全力で攻撃する! その間俺を全力で守ってくれ!」
「うむ!」
「ええ!」
そうして俺らは教会跡地にたどり着いた。
「……グッ!」
教会跡地は死屍累々といった有様だった。
あたりに転がるプレイヤーと街の住民であろう騎士達の食い散らかされた死体の数々、その上に更に新たなる死体が降り注いでいる。
まだ生きて戦いの構えを解いていないプレイヤー達も皆満身創痍でかろうじて立っているといった様子だった。
そしてそんなプレイヤー達を嘲笑う声が目の前にいるモンスターから聞こえてきた。
その目の前にいるモンスター、8本の脚を持ち、8つの目を2列に並ばせた頭胸部と袋のように膨らんだ腹部、そしてその全身からは黒々とした光沢を放つ、全長3メートル以上はあろうかというほどの大蜘蛛が蜘蛛の糸にぶら下がっていた。
『うふふ、もう終わりかしら? 新人類というのも案外弱いものねえ』
目の前の大蜘蛛は人語を話していた。
いや、これは驚くことじゃないか。あのブラックゴーレムもカタコトだが喋れていた。
だがこの被害者の数はなんだ?
さっきの広場のをあわせると既にブラックゴーレムの時より被害者の数は多いかもしれない。
「くそっ、おい今来た奴ら! 絶対不用意にあの大蜘蛛に近づくんじゃねえぞ!」
不用意に近づくな?
どういうことだ?
俺がそう疑問を抱いたが、それは現実に起こることで回答が出された。
「ヒッしまった!」
汗が目に入ったのか、最前列で目元を拭った男に向かって大蜘蛛は糸を吐いた。
そしてその糸は男の全身に纏わりつき、男の動きを完全に止める。
『うふふ、油断はいけないわよボウヤ』
そして動けなくなった男の目の前まで蜘蛛はやってきて……その男を頭から齧り殺した。
「くっ! 大蜘蛛から距離をとれ! あいつの吐いた糸にも絶対触るな! 仲間が糸に捕まっても見殺しにしろ! まとめて食われるぞ!」
最前列にいた男のパーティーメンバーだったであろう男が涙をこらえた目で震えながらそう叫んでいた。
「……何がなんだかわかんねえけど、ここのやつらであの大蜘蛛にダメージを与えられた奴はいるか?」
俺は周囲にいたプレイヤー達にそう聞くと、プレイヤー達は全員首を振った。
「いや……最初は血気盛んな奴らがあの大蜘蛛に積極的に攻撃をしてたんだが……全部跳ね返されちまった。精々かすり傷がいいとこだ……」
「そうか……」
ここにいるプレイヤーの攻撃が殆ど通らない。それはある程度予想していたことだ。
ブラックゴーレム戦でもそうだった。今回もそうなんじゃないかとは思ったが、まさかその通りだとは。
「バル、わかってるな?」
俺はバルに覚悟を聞いた。
「うむ、わかっておるわい!」
バルは俺の問いかけに即答した。
やっぱりコイツは頼りになるな。
これなら安心して前だけを向ける。
「シーナもいけるな?」
「……え? ええ……」
…………。
俺は鉄の矢を持ち弓を構える。
そして現時点での俺の全力をぶつけるべく、1つのスキルを発動させる。
「これが俺の全力だ! 『オーバーフロー』!」
俺の周囲を赤いオーラが漂い始める。
全身に溢れんばかりの力が漲る。
そして俺の視界の右上に『オーバーフロー 残り時間59秒』と表示されているのを確認し、俺は大蜘蛛目掛けて最大出力で矢を解き放った。
『グギッ!』
矢は狙い通り大蜘蛛の腹部に命中し、大蜘蛛は苦悶の声をあげた。
『誰かしら今の矢は? すごく……すごーーーーく、痛かったわよおおおおおお!』
弓に備わった武器スキルのクールタイム10秒を待っている間に、大蜘蛛はそう言って突然周囲に糸をばら撒いた。
「う、うわあああああああああああ!!!」
「ひいいいいいいいいいい!!!」
「ッ!!!」
いきなりの大蜘蛛の範囲攻撃に大蜘蛛の近くにいたプレイヤーが全員捕まってしまった。
『ねえ、いまのボウヤ? それともボウヤあ?』
「ち、違う! 俺じゃない!」
「あっち! 弓で攻撃したのはあっち!」
糸に捕まって身動きがとれず、大蜘蛛に至近距離から訊ねられたプレイヤーは次々に自分じゃないと言い俺の方を向く。
なんだコイツ?
この蜘蛛、俺が見えてないのか?
「こっちだ馬鹿蜘蛛! 俺を見ろ!!!」
そうして俺は第2射目を放つ。
『オーバーフロー』は1分間攻撃力を4倍にするスキルだ。
弓の武器スキルのクールタイムが10秒である事と実戦ならではの予想外な時間的ロスがあることを考慮すると、『オーバーフロー』の間に放てる矢の数は6発あるいは5発といったところか。
ブラックゴーレム戦を考えるとその6発で倒せるとは思えねえがやるしかない!
第2射目を受けた大蜘蛛は更に怒りを声に滲ませる。
『痛いって言ってるじゃないのオオオオオオオオオオオオオオオオ!!!!!』
大蜘蛛は俺のいる方角に向かって地面を物凄い速さで這いずりよってきた。
「いかせぬ! 『ロイヤルガード』!」
大蜘蛛の前にバルがスキルを発動させて立ち塞がる。
青いオーラを纏ったバルはそのまま大蜘蛛がやってくるのを盾を構えて待ち受けた。
「ぐううぅ!」
バルは大蜘蛛の体当たりを盾で受け止めると、足に力を入れて大蜘蛛の前進を完全に止めた。
『どこよ! さっき弓を撃った奴はどこにいるのよオオオオオオ!!』
バルに抑えられた大蜘蛛は怒り狂ったかのように叫び続けた。
「俺の姿が見えていない?」
どういうことだ?
俺とあの大蜘蛛とはまだそれなりに距離は開いているが、視認するのに問題となるような距離でもない。
俺からは大蜘蛛の巨体が鮮明に見える。しかし大蜘蛛からは俺の姿が見えていない。
……考えられる要素が1つだけある。
「……案外あの祝福ってマジのガチスキルだったのかもしれねえな」
俺があの形容しがたいオブジェから貰った祝福、スキル『神隠し』。
効果は敵モンスターからの攻撃優先度を下げるというものだったが、どうやら攻撃されないというのは俺にステルス的な効果で身を隠すことで実現しているのか。
姿を隠すとか、『神隠し』の名に恥じないスキルだな。
そうしているうちに弓のクールタイムが終了し、俺は第3射目を大蜘蛛に当てた。
『ギギャアアアアア!!!』
「よし! こやつ、矢を受けて大分参っているようじゃ! このまま攻撃を続けるんじゃ! リュウ!!」
「おう!」
俺は矢を手に持って第4射目を撃つ準備にかかる。
しかし大蜘蛛はただ俺らにやられているばかりではなかった。
『――あまり調子に乗らないでくれる、ボウヤ?』
大蜘蛛は大きく口を開いて抑えつけているバルの左肩に噛み付いた。
「バル!」
「大丈夫じゃ! ダメージは微々たるものじゃ! それとわしはボウヤじゃないぞい!!」
確かに俺の視界の左上にあるバルのHPゲージはまだ9割以上を残している。
ほんの少しずつHPを削られてはいるが、致命傷となるような攻撃ではないようだ。
そして俺がそんな風にして気を抜いていた次の瞬間、バルの膝がガクッと地面に着いた。
「え?」
俺はただ見ていることしかできなかった。
さっきまでバルが完全に押さえ込んでいたはずの大蜘蛛が徐々にバルの上に覆いかぶさっていく。
それをバルは必死に押し戻そうとしているのに、その力関係はすでに大蜘蛛側に軍配があがる。
そしてバルは完全に大蜘蛛に押し倒された。
「バルッ!!!」
俺はバルに向かって叫んだ。
それと同時に足が勝手にバルの元へ行こうとしだす。
……しかしそれを俺はぐっとこらえる。
今俺があそこに行ってなんになる? バルの元に駆け寄って何をしてやれる?
……何もできない。俺が近寄ればあの残忍な捕食者に食い殺されるだけだ。
だから俺は弓を構える。
これが俺にしかできない仕事だ。
今は俺ができることをするだけだ! それがバルを救うと信じて矢を放つだけだ!
俺は第4射目を放った。
矢が命中した大蜘蛛はしかし、苦悶の声をあげるばかりで一向に倒れる気配がない。
『……ここは一旦引かせてもらうわ。そこのボウヤ達、命拾いしたわね?』
大蜘蛛は糸に絡め取られたプレイヤー達にそう言うと、上に糸を吐いて建物の屋上まで大蜘蛛がすばやく移動した。
『次に会うときは絶対食べてあげるから待ってなさい。何処かに隠れている弓使いのボウヤ』
そう言って大蜘蛛は俺らの前から姿を消した。
後に残ったのは弓を構える俺とさっきまで何もできなかったシーナ、糸で雁字搦めにされたプレイヤーとそれを助けようとするパーティーメンバー。
そして未だ倒れているバルの姿だけだった。




