928:兆し
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1795年7月25日
ボードゲームは楽しい。
これは歴史的にも娯楽として古代から楽しまれてきたものだ。
紀元前のエジプト時代からすでにボードゲームは生まれており、その頃から人類はテーブルなどに置いて遊んでいたのだ。
今、アントワネットとはチェスで勝負をしている。
雑談をしながらの勝負ということもあってか、穏やかな時間となっている。
「ふふふっ、これで動かしていけばルークを取らせていただきますわ」
「おっと……そうきたか……ルークから攻めるとはね……だいぶチェスが強くなったねぇ……」
「ランバル公妃とよく対戦しているんですよ?チェスも上手くなったものです」
「そうか……では、こっちはビショップでナイトを取らせてもらうね」
「あらっ!そっちから行くのですか?!」
「裏を突く形になったとはいえ、ここからどう動かしていくのかな?」
「負けてられませんわね!」
アントワネットは史実では賭け事……特に競馬とかにドハマりしていた記録をもっているが、こちらの世界では馬主であったり競馬に出場する馬を飼育するファームを王族資本で経営している。
いずれ、馬を擬人化したゲームが登場した際には、フランス王族のファームにゲーム会社からオファーが掛かってくるかもしれない。
そんな事を考えながらチェスを進めていくと、アントワネットは安堵した様子でこう語った。
「テレーズからの手紙も読んでみましたが、あの子も立ち直ってきてくれたそうですね」
「やはり精神科医のベテランを治療のために送ったのが正解だったね。あの娘が少しでも心を持ち直してくれればそれだけで助かるよ」
「ええ、私としてもほっとしておりますわ」
アントワネットはテレーズからの手紙を貰い、その内容を読んで安堵していた。
彼女は暗殺未遂事件に遭い、随行員であるアンネが死亡した事件を受けて精神的なショックを受けていた状態であった。
そんな中、サンソンからの助言を受けて史実でも精神科医としての功績が多く称えられているフィリップ・ピネル氏をメンタルヘルスケアとして派遣し、精神治療に当たらせることとなった。
最初は大きな物音にも過敏に反応していたほど精神的に滅入っていたそうだが、ピネル氏との対話や心療によって少しずつ回復していったようだ。
アントワネットに宛てた手紙には、心も少しずつ安らかにやってきており、事件のショックによる不眠症状なども改善傾向にあることが書かれていたのだ。
「ピネル氏を派遣して正解だったね……やはり精神医学の第一人者だけあって、彼の頭脳も人としての人徳も素晴らしいよ」
「ええ、治療費として金銭などもお渡ししましたが、彼は精神に問題を抱えている人々の治療のために使わせていただきますと語っておりましたわ」
「……やはり、彼はスゴイね……出生や身分を問わず治療のための志を持っている人だ。彼のような人が世の中に溢れていれば、世界は平和だろうね……」
現代精神医学においても、ピネル氏の理念などは受け継がれている上に、彼の遺した功績は21世紀でも精神治療の法律などの基礎として残っているぐらいだ。
そのレジェンドが治療を施してくれたお陰で、テレーズは精神的な窮地を脱したのだ。
本当に良かった。
「こうした平和な時がいつまでも続いてくれるとありがたいね……」
「そうですねぇ……何事も平和が一番ですよ」
ほのぼのとした空気が部屋に漂っている。
アントワネットとの水入らずで過ごせる日は早々ない。
落ち着いた様子で穏やかにチェスに興じることができるのはありがたい。
だが、そんな空気も一通の速達で変わってしまうことがある。
「陛下、緊急の要件があります」
国土管理局の係員がノックをしてきた。
緊急の要件ということは、戦争であったり災害が発生した時などに使われている合図だ。
ついに北米複合産業共同体との戦端が開かれたのかもしれない。
「構わない、入っていいぞ」
「失礼します陛下、サン=ドマングより速達が届いております」
「うむ、ありがとう」
サン=ドマングから速達で情報が入ってきた。
アントワネットと一緒にチェスに興じていた時に、国土管理局の係員が速達を持ってきてくれたのだ。
チェスの最中であったが、速達であるという事は緊急性の高いメッセージであることは明らかだ。
速達を届けてくれた係員に礼を言ってから受け取った。
「悪いねアントワネット、ちょっと速達の内容を見てみるよ」
「ええ、どうぞ……チェスの勝負は一旦お預けですわね」
「うん、どれどれ……」
速達のメッセージにはこう書かれていた。
【北米複合産業共同体の輸送船の1隻がサン=ドマングの沿岸にて乗り上げて座礁、中には乗組員と陸上軍200名が搭乗。尋問をした際に中南米地域への武器・兵器輸送とメキシコへの戦乱を扇動する目的で輸送を行っていたと説明している。作戦指令文書なども押収しており、サン=ドマングも戦争の標的になり得ると判断したため、サン=ドマングの駐留軍はスペイン及びポルトガル軍と連携を取った上で臨戦態勢に移行する】
……ついに来たか。
臨戦態勢、正式な宣戦布告はされていないものの、中南米地域への軍事物資や兵士たちを輸送していることが露呈し、しかも具体的な作戦指令の内容まで把握したそうだ。
宣戦布告なしに中南米地域へのスペインやポルトガル植民地への陽動攻撃……。
それでも、現地で戦乱を扇動する目的であれば……ヨーロッパと中南米地域への中継地点であるサン=ドマングへの戦略的な目標が一気に重要視されるようになる。
特に、スペインやポルトガルにとって、このカリブ海諸島を通じて水や食糧などを補給する重要拠点として、水兵や船の乗組員が一時的に上陸して休息を得るという意味ではとても重要な地域となっていることもあってか、行政首都であるポルトープランスは多国籍の船舶や軍艦の停泊地となっている。
確かにスペインやポルトガルは欧州協定機構の協定に則り、本国では既に奴隷制度の廃止であったり、有色人種への差別などを禁じる人権法令に署名を行っていたはずだ。
ただ、植民地においては1800年……つまり19世紀までに実施することに大筋合意していたものの、スペインはメキシコの植民地に対して経済的にも頼っている状況でもあるのだ。
メキシコの現地政府はスペイン本土出身者で構成されており、少しずつとはいえ現地出身者や現地住民と結婚した人達の採用も行っている……。
が、これでも遅いのだ。
遅いというのも、採用されている人達の多くが現地で採掘されている銀などの資源で財を成した会社などの縁故採用で行われた人事であり、それもこれらの現地住民や現地住民と結婚をして産まれた人なども、政府の要職に一人も入っていないのだ。
つまるところ、役職でも排除している上に未だに現地住民への差別的な扱いなどもあってスペイン政府も指導に苦慮しているという話を伺っていたばかりだ。
ここにきて、それが最悪な意味合いで悪化していくことになりそうだ……。




