371:蘭学
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1780年1月17日
日本国 江戸
ラキ火山噴火に伴う寒冷化により、日本でも東北地方を中心に冷害が発生。
天明の飢饉程ではなかったが、仙台藩を中心に村単位での陳情書が届いていた。
冷害に伴い、老中として権威を振るい重商主義を重んじて改革にいそしんでいた田沼意次をはじめとした幕府の重鎮達が以前より考えていた松前藩を含めた北方の遠国への投資事業は、暗礁に乗り上げてしまったのだ。
特に、焦っていたのは老中である田沼意次であったのは他でもない。
遠国における諸外国との貿易を進めていた田沼は、交友のあった蘭学者を邸宅に招いて密談を行っていたのだ。
田沼意次が集めた蘭学者は、江戸時代中期を代表する著名な蘭学者たちばかりだ。
エレキテルを修理し、かつ当時は地質学者として鉱山の採掘技術などに長けていた平賀源内。
オランダから持ち込まれた解剖学書「ターヘル・アナトミア」を翻訳し「解体新書」として世に送り出した前野良沢、杉田玄白、中川淳庵だ。
学者としての立場で赴いている後者三人に対し、平賀源内は自身を支援してくれている最大のパトロンである田沼意次の立場もさることながら、後に日本の命運を分ける密談になることまでは、この時想定していなかった。
最初に話題を切り出したのは田沼であった。
「安永の改革と位置付けて蝦夷の開拓を起こそうと思っていたが……やはり冷害により稲が不作とな……これもかのオランダより遥か上の地で起こった火山が噴火したことによる影響だそうだが……どう思う?源内?」
「はっ……以前にもお伝えした通り、睦月の下旬頃に大規模な噴火があったそうです。長崎奉行を通じて聞いたところによれば、オランダでは余りにも気温が寒くなり、各地で硫黄のような強い臭いがする空気がしばらく立ち込めた程だったと聞きます。陽の明かりも満月のように薄暗く、気温も上がらない奇妙な日々であったと……」
「うむ……しかし、そんな遠国……遠い地で起きたものがこの日ノ本にまでやってくるとはな……あの時、私がもっと君たちの意見を真剣に伺っておけばよかったな……」
田沼も卯月(旧暦4月)の頃になっても寒く、火鉢が手放せないほどに寒かったのを思い出し、部下に天候を心配したこともあった。
その際に、部下は源内から遠いヨーロッパの地で火山が噴火したという話を田沼に伝えた。
……が、当時は日本と遥かに遠く離れた異国の地で起きた噴火はそこまで影響のある話ではないと思ったのと、いずれ暖かくなれば天候は回復するという話の流れになってしまい、そこで話が終わってしまったのだ。
蝦夷の開拓事業を本格的に控えていた田沼は、蝦夷開拓事業で業績を伸ばしていた松前藩の松前道広と手を組んで蝦夷開拓に着手しようとしていたまさにその時に東北地方を中心とした冷害被害が発生したために、開拓事業が当面凍結してしまうという事態に陥っていたのだ。
また、開拓事業で手を組んだ松前道広という人物は素行が悪く、浪費癖も激しい人物であったことも重なってしまい、事前に幕府から預かっていた開拓事業費の一部を遊郭通い等の私的な遊興費に使い込んでしまったりと、田沼にとって目の上のたん瘤のような状態になってしまったのだ。
おまけに、彼は蝦夷開拓や冷害における対策の不備などを指摘されており、今現在は表立って大きく動けない状態である。
幸い、将軍からは頼りにされているということもあり、即座に謹慎させられたりする心配はないが、それも長く続くとは限らない。
特に外国の情勢を伺い、海外進出を図ろうとしている田沼の事を嫌っている派閥が我先にと反田沼派となって一連の不手際を田沼個人のせいであると位置付けて幕府内部で数を増やしているのもまた事実であった。
そのしわ寄せとして、田沼が予算を増やして蘭学の学びをしている事への反発があり、蘭学の研究の中止や予算削減を求める声が挙がっているのだ。
「商業改革を疎む者もさることながら、君たちのような蘭学者を排除しようとする者達が幕府内に多くいるのもまた事実だ……松平定信は言うまでもなくその筆頭よ、そうした蘭学よりも朱子学を重視せよと申しておるがな……ただ朱子学は今から五百年も前の古い学問だ。それを最も新しく進んでいる蘭学より優るような事を申しておるという……全く、外の世界を閉ざしているのもそろそろ限界かもしれんな……こうして皆に肩身の狭い思いをさせてしまっているのは私の力不足が原因だ……本当にすまない」
田沼は集まった蘭学者の前で頭を下げた。
これには流石に玄白らが慌てて田沼をフォローした。
老中が頭を下げるなんてことは殆どないからだ。
下げるとしたら将軍や皇族の方々ぐらいだろう。
「田沼様……頭を上げてください。田沼様のお立場を考えるに、相当ご苦労をなさっていると思います。我々としても蘭学をこうして学んでいけることは何よりのご支援あっての事です。田沼様が謝ることはございません」
「そうです。オランダ語の研究・解読にも田沼様は尽力して下さったことを我々は知っております」
「田沼様のおかげで蘭学はかつてないほどに発展しております。田沼様なしではここまで栄えることは出来なかったでしょう」
史実とは違い、ルイ16世が青龍を有したことにより蘭学者たちは必然的にフランスの影響を受けた。
特にフランス側から日本にいる蘭学者へサンソン医学書が「無償」でオランダ語に翻訳された状態で渡されたこともあり「ターヘル・アナトミア」以上の衝撃をもたらした。
傷の治り具合や、経過観察の状況などが克明に記されており、さらには傷口を化膿させないようにする為の「消毒」方法などが記載されていたことを知った玄白らは囚人を使った実験も行ったのだ。
結果は従来の治療よりも効果があった。
そして、加熱処理などの方法が具体的に、かつ外科手術に関しての詳細がきめ細かく記されていたこともあり、2年ほどの歳月をかけて翻訳した「サンソン新書」は蘭学者のみならず、日本の医学で中心的な存在であった。
そして、そのフランスでは起こり得る火山噴火を予測していたという話が上がる。
「……聞けばこの事態を予測して対策を練った国があったそうだな。フランス……という国で間違いはなかったな?」
「はい、オランダの隣国であるフランスです。その国の王であるルイ16世が周辺国に知らせていたとされています……聞くところによれば、これまでにも政争を勝ち抜き、オランダを含めたヨーロッパ諸国に絶大な影響力を保持しているとされております。琉球貿易で薩摩藩に莫大な利益をもたらしたのもフランスでございます」
「うむ……最近長崎奉行と薩摩藩が揉めていた琉球貿易で砂糖の売買を通じて頭角を現している国だ……そういえば玄白もフランスの使節団を経由して『サンソン新書』なる最新の医学書を譲り受けたそうだな?それもフランスからもたらされたものだったな?」
「はっ、フランスからオランダ語に翻訳されたものです。フランス側も日本に関心を寄せていると伺っております」
田沼はしばし思考を巡らせた後、フランスとの交流が出来ないか考えた。
長崎奉行と薩摩藩との対立もあったことで幕府側が大きく動くことはできないが、フランス側からも日本から来てほしいと去年の中頃から要請を受けているのだ。
それにこの要請の内容を知った息子の意知は、蘭学者をはじめとしたオランダ語に心得がある者数名を研究や調査も兼ねて特例を将軍より出してもらい使節団として派遣するのはどうかと進言を受けていたのだ。
どうせ八方塞がりであるなら、思い切った博打を打って出るべきだろう。
そう決意した田沼は決断を下した。
「ふむ……では、上様には私からお申し付けして蘭学者数名を使節団としてフランスに派遣しようと思う。表立って行うことが出来ない以上は、期間はあまり長くはできないが、医学や技術を学ぶ上では今のままではいけないからな……諸君の中からフランスに赴く気がある者がいたら申し出てほしい。期限は二か月設ける。それまでに決めておいてほしい」
田沼は極秘裏ではあるが、蘭学者数名をフランスに派遣することに決めたのだ。
そして話し合いの末に、使節団の選定が極秘裏に行われて蘭学者からは平賀源内、中川淳庵の二名が中心的人物となり、日本を出国する為の準備を開始する。
さらに、表向きは一度勉学に励む為に相良藩に出向くという事で江戸を離れた田沼の息子である田沼意知が屋敷に戻った後、追跡の目を逃れる為に「丹野意助」という偽名を用いて途中合流し、計3名が代表者としてフランスに赴くことになったのであった。




