298:レモン
……。
ガレットとチーズを食べて終えてから、アントワネットと共に雑誌を読んだり談話をしながら過ごした。
久しぶりに夫婦水入らずの時間だ。
丁度フランスに嫁いで来た頃のように、お互いにウキウキしているのだ。
何というか……最近は時間がとれなかったこともあってか、本当に久しぶりに二人っきりの時間を過ごしているのだ。
テレーズとの時間も大事だが、アントワネットと過ごす時間も大切だ。
「……それでお母様は言ったのですよ。それはまだ早すぎるって……なのに急いで食べないと好きなケーキが無くなるのだと思って慌ててケーキに突き刺して食べてしまったのです」
「ハハハハハ、確かに、好きなケーキは一番に食べたいもんね!気持ちは分かるよ!」
「そうなのですよ!今となっては笑い話ですが、お母様もさぞかしハラハラしたでしょうね……」
アントワネットと昔話をすることになり、彼女の話を聞いているが、中々面白いエピソードを直に聞くことが出来た。
自分の好きなケーキを真っ先に食べたいと思うも、イチゴが無かったので庭に生えている野いちごを取ってきてケーキの上に突き刺して食べたという話だ。
ハウス栽培で採れたてのイチゴとは違い、この時代ではヨーロッパ原産の野イチゴが主流なので、そこら辺に生えていたイチゴを分捕ってきてケーキに突き刺して食べたのだという。
何というチャレンジ精神、そして直ぐに実行するタフネスさ。
話を聞いていて思わず笑ってしまったほどだ。
「それで……そのイチゴの味はどうだった?」
「それが美味しかったのですよ!もう見た目で選んでこれがいいかな!と思ったのを三つほど摘まんで刺して食べたのですが、ケーキと相俟ってとっても美味しかったのです!まぁ、その後でお母様が『その辺に生えている野イチゴをケーキに刺して食べるとは何事ですか!』と怒って小一時間お叱りを受けてしまいましたが……」
「あははは……でも美味しい野イチゴで良かったね。野イチゴの中でもヘビイチゴは物凄くマズイ事で有名だから、もしアントワネットがその時食べたイチゴがヘビイチゴだったり、手に取ったイチゴが痛んでいたりでもしたら多分……イチゴにトラウマを植え付けられたかもしれないよ」
「そうですね……今思えばもしマズイイチゴだったり痛んでいたりでもしたら……今後イチゴを食べるのを控えたかもしれないですね」
「でも、何でも挑戦してみようとするアントワネットの心意気はスゴイと思うし、俺もそうした所を見習わないといけないなぁ……」
互いにアハハと笑いながら話を弾ませる。
なんだかんだ言ってアントワネットの話は面白いし、人を魅了させる力がある。
話し上手な人とは何時間でも喋りたいし、逆にこの人とは話したくないなぁと思う相手ほど短い時間でも長く感じてしまうのだ。
イチゴのエピソードの下りを聞いているだけでも面白い。
ここ最近は暗いニュースや出来事が頻発していたこともあってか、あまり笑った事がないのだ。
アントワネットの妊娠の時は喜んだが、それ以外は基本的に仏頂面状態だった。
なので今はこうして二人で話をして、思いっきり笑おうかな。
後ろ向きでいちゃだめだ。
彼女といるときは明るい話題で満たしておきたい。
フルーツの話題はまだまだ続く。
「イチゴといえば……そこの試験農場でオランダイチゴの品種改良が行われておりますね。冬場でも栽培できるようにと来年に向けて温室小屋を作っておりますが……やはり、冬場でも南国原産のフルーツを食べられるようにする事が目的なのでしょうか?」
「うーん、外貨や富裕層向けの生産も視野にはいれているのもあるけど、本命はイチゴじゃなくてレモンなんだ。それも長期航海を行う船乗りや海軍軍人向けの病気予防の為に作っている最中なんだ」
「船乗りや海軍軍人向け……ですか?」
「そうだよ。海上では陸地と違って何時でも野菜が食べられるわけじゃないからね。野菜や果物を食べないと健康を損ねて壊血病という恐ろしい病気が引き起こされる危険性が高くなるんだ。イギリス海軍の人で今年の初めにニースに寄港して、イギリスの情勢を鑑みて出航を停止しているジェームズ・クック艦長から壊血病予防の為の食事レシピなどを貰った際に、レモンなどの柑橘系のフルーツをジュースにして飲ませた事で長期保存と壊血病予防に効果があったと報告してくれたんだよ」
「なるほど……それでフランスでも作れるようにと温室栽培を目指しているのですね」
「まぁ、流石にパリだと厳しいかもしれないけど、モンペリエとかフランスでも比較的暖かい南部で栽培できれば国内で流通させることも不可能ではないよ」
ジェームズ・クック……名の知れたイギリスを代表する探検家であり、壊血病の原因がビタミン不足によるものだと実践を通じて証明させた人物だ。
本来であれば第三回目の世界一周航海をする予定であり、史実では大西洋を経由して太平洋に向けて調査航海をしている最中であり、二年後に寄港先のハワイ諸島で先住民の人達とトラブルになって殺害されるという悲しい結末を迎えるに至るハズであった。
……が、なぜそんな人物が今現在フランスにいるのかというと革命によるバタフライ効果の影響だ。
まず出港する直前にロンドン革命が勃発するも、直ぐに混乱は治まるだろうと判断したクック艦長は予定通りにレゾリューション号に乗って出航し、最初の目的地であるカナリア諸島を目指して大西洋を航行していた。
しかし、補給の為にスペインのカディスに立ち寄ると、革命の悲惨な情報が嫌でも耳に入る。
おまけにイギリス各地で大規模な混乱が起こっているとなれば、クック艦長は大丈夫でも船員たちの間で不安は増すばかりであった。
カディスからカナリア諸島に向けて出港する直前に、船員たちの大部分がクック艦長に直談判して航海を中止するように求めたのだ。
中止してイギリスに戻るか、はたまた第三国でイギリスの混乱が収束するのを待つか、もしくは探検を強行するかの三つの意見に分裂し、航海どころでは無くなってしまったのだ。
さらに停泊していたカディスの行政府がイギリスの情勢不安を見越した上で補給金額の値上げを請求したのだ。
政府が信用できないと判断された以上、現物の現金や金貨などの資金を有している船舶から巻き上げたほうが踏み倒しをされないという合理的だが些か厳しい措置が執られたのだ。
精神的なストレスに晒されたクック艦長は航海長のウイリアム・ブライなどの意見を聞いた後に探検の強行を諦めて、第三国を通じて混乱の収束を待ってから探検を再開するという方針を決定する。
カディス行政府に少なくない金銭を支払った後に、停泊して過ごす第三国としてフランスが選ばれて地中海側のモンペリエに寄港した……というのが事の顛末だ。
「イギリス海軍で壊血病予防として使われているレシピや、その実践運用を行ったクック艦長がどんなレシピを使ったのかとか大変興味深いんだよね。医学的にサンソンもだいぶ興味深いと言っていたし、今後長期航海をする際に病気の予防として使われるのであればどんどん推し進めてみようと思うんだ」
「それはいい事ですねぇ!レモンも酸っぱいですが、未だにイタリア半島産のものしか手に入らないですものね……おまけに物凄く高いですし」
「レモンは気候が寒すぎると栽培できないからね。欧州だとイタリアやスペイン辺りで栽培できるものさ……だからフランスでもモンペリエ辺りであれば栽培できるはずだよ。……パリは多分温室栽培でもギリギリ栽培できるかもしれないから結果は来年待ちかな」
レモンやオレンジの類はフランス南部であればギリギリ栽培可能ラインだ。
比較的フランスでも温暖な地域と言われているモンペリエも、緯度でいえば北海道の釧路辺りと同じ……。
もっと暖かい地域となれば、フランスにはサン=ドマングと青龍しかない。
つまり温室栽培に頼らないと木が越冬する事ができないからだ。
現代のようなビニールハウスで育てるのではなく、暖気を逃さないように家みたいなのを木の周りに囲って暖をくべて温度管理をする方法を取る予定であり、これはイタリア半島で栽培されているレモンの越冬方法と同じやり方だ。
レモンは常温だと持って二週間が限度と言われているので、コーヒーといった豆類と違い保存があまり効かない食べ物でもある。
故に、ヨーロッパでは栽培地域が限定されている事も相まって価格も高価だったこともあり、レモンは富の象徴とさえ言われる程だったのだ。
「レモンやオレンジといった柑橘系の食べ物やジャムを食べれるように出来れば、食卓ももっと賑やかになるねぇ……また今度、レモンが入ったら何かデザートでも一緒に作ってみるかい?」
「いいですわねぇ!その時は私もどしどし作ってみせますよ!」
レモンの話題で盛り上がれるのはいい事だ。
温室栽培で一定の栽培効果が見込まれて、船乗りや海軍軍人向けに支給出来るようになれば長期航海における病死者の数も減らせるだろう。
レモンやオレンジは今のご時世で数少ない明るい話題の一つであったのだ。




