256:動き出す歯車
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『世界で初めて蒸気機関車が走った日』
1776年6月8日
パリ産業新聞社の女性記者であるジャレット・パトリシアは、蒸気機関車を一目見ようとパリ中央駅にいたのだが、初めて目にした蒸気機関車に圧倒されていた。
馬などを使わずに、重いワインの樽を乗せてグイグイと進んでいくのだ。
蒸気機関特有のシューッという音を鳴らしながら進んでいき、それに合わせるように子供だけでなく大人たちが目を輝かせて蒸気機関車の後を走って追いかけていく。
その時の出来事を彼女は翌日に発行された新聞の記事の中でこう綴っている。
『馬やロバといった生き物ではない、鉄と歯車で出来た乗り物が蒸気の音を鳴らしながら進んでいく。生き物ではない上に、風などの自然力学的な条件を使わずに蒸気の力で動く世界初の乗り物がパリで誕生したのだ。そんな蒸気機関車を間近で見ようとパリ市民はいつになくお祭り気分で蒸気機関車の後を追いかけるように走り出す……』
蒸気機関車の開発責任者であるキュニョー中佐を取材しようとしていたジャレットはキュニョー中佐の乗った蒸気機関車を追いかけるように走り出す民衆の後に続いた。
何と言ってもレールの上を走り、かつ生き物などを使わずに樽を牽引しているのだ。
牽引しているのはフランス東部のブルゴーニュで熟成されて樽に詰め込まれたワイン。
相当重いのに、ワインの樽を積んだ蒸気機関車は悠々と走っている。
その事についてもジャレットは書き記していく。
『ワインを満載した樽を積み、途中で速度が落ちることなく蒸気機関車は走っている。一定の速度を保ったまま悠々と走るその姿を見て、筆者が思っていた以上に馬に匹敵する力を示していた。レールの上を決められた通りに動くのであれば、馬が驚いて暴走する事故とは無縁になるのではないだろうか?』
馬車が重宝されていたものの、馬も生き物である。
音などに過敏に反応して、馬が暴走して衝突事故や歩行者を轢いてしまう事故などが多発していた。
ジャレットは蒸気機関車による鉄道網が発展すれば事故とは無縁になるのではないかという期待を込めた記事を書いて希望を寄せていたのだ。
蒸気機関の導入によって生活も変わりつつあった時代。
彼女の目に映った蒸気機関車は、多くの荷物を積むことが出来る万能な乗り物であると考えていたようだ。
勿論、それは的を射ていたものの、乗り物には事故が付きまとうもの。
それが馬車から機関車、自動車へと時代が流れても変わらない定めなのだ。
「まだまだ走り続けているわね……蒸気機関車の中はどんな構造をしているのかしら?あの予測図みたいな感じなのかな?」
ジャレットは蒸気機関車の中身が気になっていたものの、詳細は伏せられていたのだ。
というのもフランスでは蒸気機関などを新興工場向けに宣伝も兼ねて取り扱っているが、蒸気機関車に関しては幾つか情報こそ引き出せたものの、機関部の構造などにフランス独自で開発された新技術が盛り込まれている関係上、国家機密に当たる部分が含まれているとして僅かな情報しか出されていなかった。
フランス科学アカデミーとしても、情報漏洩によって先に蒸気機関車が完成されてしまうリスクを危惧していたこともあり、詳細は徹底して伏せられていた。
キュニョー中佐は勿論のことだが、開発に関わっていた担当者を含めて外出して飲食をする際には酒を飲むのを禁止にしたり、設計図などは複雑な施錠方式によって守られた金庫に逐一保管する徹底ぶりだ。
その代わりに、禁酒をする代わりに給料を倍額にしたりとアフターケアもルイ16世の指示によって行われた事もあり、不満を溢す者は皆無であった。
それでもジャレットは独自に僅かに集められた情報を頼りに蒸気機関車のメカニズムを予測し、これをパリ産業新聞に記載していたのだ。
彼女だけではなく、蒸気機関を取り扱っている工場長や科学分野を専攻している学生などを集めて、どのような形状になるのか、またどんな状態で動くようになるのか?といった科学的な視点で描かれた『蒸気機関車予測図』というタイトルで5日前に新聞の見出しに掲載したのだ。
実際の蒸気機関車との差異は幾つかあったが、基礎的な事に関しては同じであったのだ。
フランス科学アカデミーにもパリ産業新聞の事が伝わり、関係者が新聞を読んでかなり正確な予測図を描いていたとして称賛を贈った程だ。
とはいえ、ジャレットも全く蒸気機関車を見た事がないわけではなかった。
以前フランス科学アカデミーに取材をした際に半分ほどのサイズで展示されていた蒸気機関車なら目撃したので、その記憶を頼りに様々な人と共に予測をしただけに過ぎない。
唯一誤差が生じたとすれば、その縮小サイズで展示されていた蒸気機関車が実物大サイズだと思っていた。
なので彼女の予想よりも遥かに上回る大きさで動いた蒸気機関車を見て目を丸くして驚いたのだ。
ここまで大きいのかと思い、思わず息を飲みこむほどであった。
「それにしても思っていた以上に大きく作ったのが蒸気機関車なのね……展示品でも凄いと思っていたけど、あんなに大きなものが動くなんて本当に凄いわね……」
ルイ16世が率先して導入をしている蒸気機関……主に炭鉱の水汲みや工場の動力源などに使われているが、今ではフランスの新興産業を担う程に急成長している産業である。
徐々にではあるが、人々の生活にも蒸気機関が浸透し始めている。
最近では大手新聞社も蒸気機関車を使用した印刷機の開発に着手しているらしく、社長であるアルフレッド・サンズも読者の大量獲得の為に、新型印刷機が発売されたら購入を検討している程だ。
「今では蒸気機関をどんどん改良して高圧蒸気機関を作ろうとしているって言われているわね……もしそれが実現すれば、もっと凄い事になりそうだわ……」
数年前までなら考えられない出来事だ。
まだまだ蒸気機関が珍しい代物だと言われていた時に、ルイ16世はフランス科学アカデミーを通じて蒸気機関の基礎開発や改良を命じていたのだ。
それもルイ15世の国王代理として着任してから直ぐに命じていた事を知ったジャネットは先見の明があると思っていたのだ。
こうして蒸気機関車を走らせることが出来たきっかけもルイ16世が開発費用などを回してくれた事による影響が大きい。
蒸気機関車を追いかけるようにルイ16世と王妃のアントワネットが乗った馬車も進んでいく。
人々と一緒にパリ中央駅から仮設駅までの1キロを移動したのだ。
『かくして、蒸気機関車は仮設駅までの距離を走り抜くことが出来た。一度も故障や不具合を起こさずに目的地まで走り抜いた蒸気機関車に人々が群がり、大勢でその偉業を祝した。まるで花火を打ち上げたように大きな歓声が辺り一面にこだまし、パリ中で大歓声となった歴史的な一日となった』
そして無事仮設駅まで走り抜いた蒸気機関車に人々が集まって国王夫妻と共にワインを片手にお祭り騒ぎとなっている。
ここまでパリが盛り上がっているのは国王夫妻の第一子であるテレーズが誕生して以来だ。
その様子を淡々と記し、翌日の新聞に飾ろうと思っていた時であった。
後ろから満面の笑みを浮かべた女性がやってきてジャレットの前でグラスにワインを注ぎ、彼女に渡したのだ。
「そこのお嬢さん!良かったら一杯どうですか?」
「えっ、私にですか?」
「ええ、せっかく国王陛下や王妃様が乾杯をしようとしておりますし、この場にいる皆さんが乾杯したほうがいいでしょう?あっ、料金でしたら一杯目は無料ですのでどうぞ!」
「は、はぁ……それはどうも……では、一杯頂きますわ」
ジャレットもお酒を飲むつもりはなかったのだが、たまたま近くで蒸気機関車を見ていた居酒屋の女性店主が気前よくグラスにワインを注いで勧めてきたこともあって断り切れず、周囲の雰囲気に合わせて乾杯をしてワインを飲んだのである。
ほのかな香りと周囲の熱気が混じったワインの味はいつになく格別であった。




