1057:スコーン(上)
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1797年2月10日
旧プロイセン王国 現フランス併合地域 ヴェストファーレン自治政府首都 ケルン
ケルンの街中で行き交う人々には笑顔が見受けられた。
プロイセン王国の領土であったこの街では、すでにプロイセン王国時代にハイパーインフレーションを経験しており、これまで使用していた通貨が贋金として価値のないものになった事で大騒ぎとなり、石で作られた通貨が流通するぐらいの事態に陥ったのである。
その後、オーストリアの通貨であったりフランスの通貨が流通するようになってからはハイパーインフレーションも治まり、今ではフランス本国よりも若干物価が高い程度で収まっている。
戦争後の賠償として併合地域となったケルンは、現在ではフランスの併合地域……租借地としての扱いを受けているが、この地域において主力の産業となりつつある炭鉱業においては、フランス資本の惜しみない投資によって急速に発展しつつあり、プロイセン王国時代と比較してもその差は歴然であった。
「今日の給与見たか?先週の1.4倍に増えたぜ!」
「新しい炭鉱が見つかったからな、それに蒸気機関を動かす燃料として石炭が必須になってきているらしいぞ」
「あの煤だらけになる鉱石がそれだけの利益になるとはなぁ……先のプロイセン王国時代ではあまり重要視されていなかったもんな」
「それに、フランスが俺たちの土地で採掘された石炭を買い取ってくれているんだ。おまけに併合地域になっても言語の強制変更であったり、住民の強制移住をしないあたりかなりマシな統治をしているだけありがたいよ」
「全くだ、今頃ベルリンの連中は悔しがっている頃合いだろうな……」
フランスの統治としては、地元自治組織の市長などを保護した上で、市民の生活に悪影響を及ぼすような強制力のある住民移住であったり、言語の刷新などは行わずに駐留するフランス軍も守備隊が巡回したり街の警備として任務に就く役割を担っていた。
これは苛烈な統治をすれば、その分プロイセン王国への帰属意識を助長させることになり、反って悪影響であるというルイ16世の判断により、自治政府を認めるなどのこれまでの占領政策とは打って変わって穏健なやり方を通したのである。
占領当初はケルン市内の多くでフランスへの帰属と従属を強いられるのではないかと怖がっていた市民であったが、食糧支援であったりハイパーインフレーションを引き起こしていたケルンへの支援金としてリーブルやテレジア・ターラーと呼ばれるオーストリアの通貨が流通したことにより、プロイセン王国中を襲っていた通貨が安定し、ケルンを中心に経済が復活したのである。
ケルンの市街地の多くで掲げられている旗の多くが、フランスとオーストリアが共同で採択した『ヴェストファーレン自治政府』の旗であり、フランスの国章とオーストリア大公国の配色、これに加えてケルンの紋章を加えたものであり、蜜月の関係であるフランスとオーストリアの間で産まれた自治政府として周辺諸国から承認されることになったのである。
自治が認められたのも、ケルンの大司教や大学、それに商工会で結成された代表者たちが欧州協定機構への降伏を決めて、市内に駐留していた薔薇十字団の軍勢と対峙したことが要因の一つであり、同時にケルンの歴史的文化や東欧地域を結ぶ重要都市拠点としての地位を確立したことにより、この地域を発展させることがフランスやオーストリアへの将来的な利益に繋がる事を踏まえた上で自治政府の誕生が許されたのである。
そして、占領政策においてはケルンを重工業化地域と位置付けて、炭鉱の石炭採掘に必要な蒸気機関の生産拠点を置いたのである。
拠点を置いたのがフランス資本が大多数であり、これらの地域で採掘する石炭の選別であったり、蒸気機関で使われているポンプの製造などをケルンの町工房で現地生産などを携わっていくうちに、ケルン製の蒸気機関工場が稼働し、今現在までに市内だけで4箇所、炭鉱の近くを含めると7箇所の工場が稼働もしくは建設が進められている状況でもあるのだ。
この工場建設を促進したのもフランスの国有企業が中心となって実行したものであり、石炭採掘によって生じた利益などを、プロイセン王国との戦いで国土の半分が戦場となってロッテルダムなどが破壊されたネーデルラントへの復興事業費と戦後賠償金に割り当てることで、ケルンの人々への利益を守りつつも、戦後賠償としての資金を確保し、この資金を担保として傷痍軍人や戦争孤児への養育費などを含めた社会福祉費用を捻出することに成功したのである。
結果論となってしまうが、ケルンの工業化政策はプロイセン王国の首都であったベルリンよりも発展させる機会を産むことになった上に、ベルリンでは戦争による市街地の損壊と、その後に発生したペストの流行によって人口が大きく減り続けた。
今ではベルリンの人口も10万人を下回っており、数でいえばケルンよりも大幅に人口が減っているのだ。
ケルンにおいては人々の望んでいた安泰の生活が戻り、日々の暮らしもプロイセン王国時代よりも劇的に改善傾向が見受けられているのだ。
何と言っても、時の国王が薔薇十字団という組織に傾倒してしまった影響により、国内のプロテスタント派の教会などもその影響下に置かれてしまい、彼らに対する批判が許されない状況に陥ってしまったのである。
戦争中に白旗を上げて無血開城をしたケルンは都市機能を維持したまま発展することにより、多くの住民の間ではフランスへの従属に対して嫌な感情をむき出しにすることは殆どなかったのである。
これに加えて、大学や商工会のメンバーの多くが経済政策の復興を重視し、贋金事件によって引き起こされていたハイパーインフレーションを抑えるために、リーブルなどの外国通貨を導入し、経済を安定化させたりと即席の自治政府ながらも経済の牽引を行ったことが評価され、複数の代表者からなる自治政府としての地位を確立したのである。
自治政府は実質的なフランスの併合地域を統括する傀儡政権という扱いではあったものの、完全なる自治を失ったわけではない。
税金の収支システムであったり、フランスから供与された集計機材を使用した銀行システムを導入し、自治政府独自の経済システムを構築することに成功していたのだ。
経済力だけで比較するのであれば、戦争による荒廃から復興を進ませていたネーデルラントに匹敵する経済力を有するようになったのである。
これに加えて後押ししたのが中欧ヨーロッパ経済圏構想を掲げるオーストリア側の支援であり、テレジア・ターラーをはじめとした通貨にする支援も合わさって、ケルンの周辺地域ではリーブルと並んで使われる通貨となり、オーストリア資本の活動も活発になっていたのである。
プロイセン王国が衰退したことにより、神聖ローマ帝国の権限を獲得したハプスブルク家は、中欧ヨーロッパ地域において影響力を拡大し、このケルンにおいても自治政府を通じて発言権を拡大させていたのである。




