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1029:MOVE(上)

★ ★ ★


1796年8月30日


日本 大坂


アジアの極東において、この日は特別な一日となった。

内戦を続けていた鉄門組の最後の部隊が全滅し、事実上の内戦状態が完全に終結したと判断されて経済首都として移転された大坂において祝賀会が開催されていたのである。

戦争に参加した公武幕府軍の凱旋と合わせて、大坂の街ではあちこちに内戦を勝利した公武幕府を称える歌などが読み上げられ、大勢の庶民が繰り出して祝い事と称し祭りを楽しんでいたのだ。


「めでたい日じゃ!これでウチらも平和になるわい!」

「武蔵野国や北の方が安定すれば、それだけでも違いますからねぇ」

「江戸も復興すれば戻ってもいいそうじゃ。そうなれば故郷に戻ることが出来る……」


日本は鉄門組との反幕府勢力との戦いにおいて、掃討戦を含めて莫大な金額を消費しており、戦後の復興を含めて目下の課題であった。

なにせ江戸などを含めた関東圏の経済状況は浅間山大噴火前の10分の1に低下していた。

これは明治維新を経て、江戸から東京になった際に人口増加と経済発展の拠点となった関東一円の経済状況が見込めない程に悪化していた証拠でもあり、さらに江戸の街では野盗などが野放しにされていたこともあり、治安の回復が急務であった。


最盛期には100万人を誇っていた大都市圏も、今では8万人程度の地方都市と同程度の人口しかいない。

これでも江戸の再整備として大坂などから派遣された大工や土木関係者などが復興のために尽力しており、この時に将軍である徳川家基の命により作った入り組んだ街並みを排除し、京都のような碁盤の目のような整備された道路と区画整備を実施することが決定されたのだ。


この区画整備計画は複雑化していた街並みと、それに伴う入り組んだ道によって浅間山大噴火の際に家屋などが倒壊し、江戸から避難する際に大勢の避難民が下敷きになって犠牲になる事例が複数報告されていた為だ。

また、多くの江戸の住民が関西圏に避難したことで武家屋敷なども廃墟化しており、これらの廃墟化した家に野盗などが住み着き、鉄門組を駆逐した後も根城にして公武幕府軍の妨害を行っていた為、入り組んだ道が治安の悪化に繋がっているという理由で排除が命じられたのである。


「華の江戸と呼ばれた街も、今では野盗などが夜を支配し……復興に尽力している庶民たちを脅かしているようであれば、徳川家康公が築いていた街の跡に住み着いて悪事を働きやすいようにしているのは腹立たしい……将軍の命により、これらの野盗が棲み処にしている元武家屋敷などを徹底的に破壊し、区画も整備する。そしてより大きな道路を作り、再び日ノ本が胸を張れるような都市に作り直すのだ」


この命に従った公武幕府軍は、本拠地の江戸城を拠点として野盗たちが未だにのさばっていた浅草や日本橋などの地区を徹底して破壊することになった。

野盗などは鉄門組の包囲殲滅の際には逃亡などをして姿を暗ましていた者もいたが、大半の者は江戸やその近郊の街を拠点に博徒などを引き連れて実質的な支配を行っていた組織が複数いたのだ。


彼らは行き場を失った流民などを抱え込み、支配的なやり方で人心掌握を行って盗みや恐喝、時には殺人にも手を出していた。

傾奇者というよりもヤクザであり、彼らは総じて浅間山大噴火に伴う混乱に乗じて好き放題に暴れていたのだ。


これに対する討伐命令も下されたことで、1796年4月から8月末までに関東圏において野盗やその系列の組織は幕府の敵であると明言され、公武幕府軍は徹底した鎮圧活動を展開した。

それまでは岡っ引などの警察組織に相当する治安組織があったのだが、江戸の放棄によって岡っ引の大部分は大坂や京都に移ってしまい、軍が主体的に鎮圧を行うことになったのである。


その鎮圧活動は関係者だけでなく、関与の疑われた住民諸共斬首や縛り首なども行うといった苛烈なものでもあったが、治安を回復する上でやむを得ない犠牲であったと後に語られ、現在でもこれらの犠牲になった住民の供養塔などが設置されている。


江戸の復興なども合わせて、東日本地域の被害状況は甚大であった。最終的な被害状況なども公武幕府が確認するまでに実に10年以上の期間を有することになったが、浅間山大噴火による直接的な死者数が2万人であり、火山灰が広範囲に降り注いだ上野国に至っては大飢饉が発生し、3年ほどで総人口が半分以下になるなどの被害を引き起こした。


最終的な統計情報では東日本地域の20%に匹敵する人口が落命、流民となって家を失い関西圏に避難した者達を含めて、東日本地域の総人口は浅間山大噴火前の約40%程度に減少、これに鉄門組との内戦による死傷者や人口流出も加算された数も含まれており、浅間山大噴火前によって東日本地域が壊滅的打撃を被って多くの人的被害が出たものと結論付けた。


こうした状況において主導的な立場を握ったのが京都の朝廷である。

江戸の徳川家との公武合体政策を主導し公武幕府が誕生したわけだが、時の天皇が徳川家と所縁のある人物であったことから合体政策が進められ、事実上の国のトップとして確立することになった。

朝廷の京都、徳川直轄領となった大坂を中心とした関西圏に経済拠点を設けたことで大坂が江戸に代わって史実以上の発展を遂げることになるのだ。


そしてフランスからの軍事支援を受けていた公武幕府軍は、島津家などを中心とする西部方面の諸藩の活躍により、東北の諸藩を解放することが出来たのである。

公武幕府は降伏した鉄門組に関して幹部に聞き取り調査を行い、離反を行った幹部に関しては無罪とまでは行かずとも、自分達の土地から出ないという条件の下で謹慎という形で助命を許したのである。


これは公武幕府のトップであり、現時点において国家の象徴たる天皇による恩赦であった。

その天皇によって恩赦を受けた幹部たちは故郷に戻り、自分達の地域から出ないことで赦されたのである。鉄門組に参加した者の多くがやむを得ない事情で参加した経緯なども含めて致し方無い状況だった事に加えて、彼らの陳情などを聞いた天皇が涙して減刑処置を願い出たことにより、最重要手配されていた鉄門組の幹部を除いて、地域から出ないことを条件に復興を推し進めた。

人的被害が大きかったことも相まって、復興のための人員を消すのは惜しいと考えたのである。


その一方で、鉄門組の中には忠誠心に厚い者も複数存在しており、公武幕府軍による仙台大攻勢の際に降伏した本隊から脱出した一部の部隊は山岳地帯に立て籠もり抵抗を続けたのである。


この抵抗運動において彼らは「天魔軍」と名乗り、鉄門組に忠誠を誓っていた者達を集めて徹底抗戦を行って、仙台を占領していた公武幕府軍への奇襲攻撃であったり、鉄門組を裏切って幕府軍に寝返った鉄門組の幹部の暗殺などを実行に移していたのである。

まさに天魔になったつもりで裁きと称したテロ事件を引き起こしていたわけだが、彼らの抵抗は一年足らずで終焉を迎える。

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― 新着の感想 ―
この世界、最終的には多分史実より100年は先に進むだろうから1900年時点でもう「現在」レベルの様相になっちゃってる気がするのよね……。
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