9、
「はーぁ」
澪筋はつまらなそうなため息をついて家を出た。ここ数日水潮が相手してくれない。海境が商いに出て行ってからだろうか。休憩になるとすぐにどこかへ行ってしまう。朝もご飯を食べ終わるとお先にと言って澪筋をおいてきぼりにする。
家から出てきた澪筋はいくつかの杼を手に持っていた。紡いだ糸を巻きつける、細長い板の端と端に切れ込みのあるものだが、今朝編みかごに余分を入れて出ることを忘れてしまっていた。水潮のことがよっぽど気になってるのね、と独りごちながら路地を歩き始めようとした澪筋は、道をふさがれて息を飲んだ。
とっさに反対側へ走り出したが、腕を掴まれ引き戻されてしまう。杼がからからと音を立てて足元に転がった。
「俺の顔見て逃げることないじゃないか」
波座はにやり笑った。うかつだった。最近水潮といることが多かったので忘れていた。一人でいるところを狙ってこの男はやってくる。
「俺が頭領になったらあんたは俺のものになるんだろう?」
顔を近づけられてぞっとした。はじめて嫌悪を感じた。今までただ怯えるばかりで気付けなかった気持ちだ。澪筋は自分の気持ちを無視されることに憤りをおぼえた。
──澪筋はどうしたい?
水潮の言葉を思い出す。迷ったり道に行きづまったら自分の心に問いかけてみて、と教えてくれた。どうすることもできない状況なんてそうそうあるものじゃない。追い詰められていたってどこかにきっと道はある。その道を見つけるためにも自分のしたいことをはっきり見極めなくてはならない、と。
波座の手から非力な澪筋は逃れられない。ならどうしたらいいか。澪筋は今まで波座をはっきりと拒絶することができなかった。波座を拒絶したら結婚できなくなるかもしれないと怖れていたからだ。波座ほどの男を拒絶した自分を妻にと望んでくれる人はいないだろう。でもこんなに不快な思いをするのに、それを我慢して求婚を受け入れるの? ううん、できない。たとえ結婚できなくなったとしても、波座の求婚は受け入れられない!
澪筋は大きく息を吸い込んだ。
「離してください! 私はあなたの妻にはなりません! 私は! 私は巫女や頭領といった役割とは関係なく、私が好きになった人と一緒になるんです!」
澪筋は渾身の力で叫んだ。精一杯叫んでも大した音量にならない。震えてしまって。叫びきった時、もう一つの叫び声が続く。
「波座ぁ!」
誰かが後ろから走り込んできて澪筋の肩口からこぶしを突き出す。澪筋の肩をつかみ背後へと押しやったのは波穂だった。
波穂のこぶしからかろうじて逃れた波座は口元に好戦的な笑みを浮かべた。波穂は体勢を低くして身構える。波座も構えた。その状態でしばらく睨みあいが続く。
先に動いたのは波座だった。構えを解き、腕を回して体をほぐしながら立ち去っていく。
波穂はふうと息を吐くと、腰を折って杼を拾った。
「あ、あの……」
口を開きかけた澪筋に無言で杼を押し付け行ってしまう。お礼を言いたかったのに澪筋は追うことができなかった。ただ、見えなくなった路地のむこうを見つめる。
「頑張ったじゃない」
「ひゃっ!」
いきなり声をかけられ、澪筋の体は逃げようとし前につんのめった。ひっくり返った悲鳴が口からもれる。何とか踏んばり振り返ると、水潮がこぶしを口に当てて笑いをこらえていた。
「変な叫び声」
「お、おどかさないでよ」
「以前はああやって波穂に守ってもらってたの?」
澪筋は波穂が消えた方向を振り返り呟いた。
「ううん。今みたいなのははじめて……」
いつもはただ通りすがるだけだった。波穂が穏やかでない視線を向けると、波座はあっさりと退いていった。
今のように本当に攻撃していくのははじめてだった。肩を力強くつかまれ背にかばわれて、波座に道をふさがれた時より気が動転した。
「もしかして惚れちゃった?」
「えっ?」
澪筋はうろたえながらほんのり頬をそめる。
「あたしの時もそうだったんじゃない? 澪筋、体を張って守ってくれる人が好きみたい」
水潮のからかいまじりの声を聞いているうちに澪筋はうなだれていってしまった。
「澪筋?」
「波穂はだめよ」
「どうして?」
首を傾げて澪筋の顔を覗き込んだ水潮は、澪筋の思い詰めた表情を見てにやにや笑うのをやめた。澪筋は泣きそうに顔をゆがめる。
「あの人は私が巫女だから守ってるだけなの。私を守ってくれているわけじゃないから」
水潮は顔を起こし頭の後ろを掻いた。
「あーそういえば波穂って、巫女を守るのは頭の務めだとか言ってるんだってね。……お馬鹿さんよね、まったく。子どもの頃から変わってないんだから」
「え……?」
目元を腫らしたような顔でぽかんとする澪筋に、水潮はやれやれと苦笑する。
「ま、波穂とは一度話さなきゃならないと思ってたしね。大親友の澪筋のためにも一肌脱ぎますか」
何のことやらさっぱりわからず、澪筋は目をしばたかせた。
路地を歩く波穂は、家の上に立つ人影に気付き足を止めた。
「ちょっといい?」
水潮は見下ろして言った。波穂はにらみつける。見下ろされるのは我慢ならない。
「降りてこい」
水潮はひらり飛び降りた。
「何だ?」
「澪筋のことどう思ってる?」
てっきり海走りの儀式に関するかけひきだと思った波穂は、不意をつかれて無表情をわずかに揺らした。それを押し隠し、すました様子で問い返す。
「どう、とは?」
「好きなのか?」
「くだらない話をほざくな」
怒ったふりで動揺を隠し、背を向けて歩き出す。その背に水潮は変わらぬ調子で言った。
「澪筋を守るのやめてくれないかな?」
波穂は足を止めないわけにはいかなくなった。振り返り、家の壁にもたれて腕組をする水潮を睨みつける。
「巫女を守るのは島の男の務めだ。とやかく言われる筋合いはない」
「じゃあ澪が巫女でなくなったら守ってくれないってこと?」
すかさず切り返されて波穂は言葉に詰まった。女は守るべきものだけど、巫女でない女を守る特権は特別な間柄の男にある。波穂は口ごもった。
「み、巫女であるうちは守る。だが巫女の力は生まれつきのもので、代を重ねるにつれ弱まっている。今後澪筋より力の強い者が生まれることはないだろう」
そうだ。澪筋が巫女でなくなるはずがない。確かに今までの巫女と比べたら力は劣るが、他の女たちと比べ物にならないくらいの力を持っている。もし澪筋以上の力の持ち主が生まれるとしたら、澪筋が澪筋より濃い巫女の血統を受け継いだ男との間にもうける女児──。
波穂は目を見開いた。
「おまえ──」
そうだ。ここに居る。澪筋より濃い血統を持った女が。
波穂は息を次ぐこともできずに水潮を凝視した。その視線を水潮は静かに受け止める。苦しくなるほどの時が流れてから、水潮はおどけたように両手を上げた。
「ま、巫女の選び直しなんてそうあることじゃないしね。それに島長にとってあたしは島人の数に入らないらしいし。まだしばらくは澪筋が巫女を務めることになるんじゃない?」
波穂はほっと息をついた。息をついてしまってから、水潮の訳知りげな笑みに気付く。波穂は頬を朱に染めた。だが水潮は考え違いをしている。澪筋を守っているのはあくまで島の男の務めとして、頭が率先して行わなくてはならないことであり……。
波穂が誤解を訂正しようと口を開く前に水潮は話し出した。
「あたしはね、波穂に澪筋の頑張りを邪魔してほしくないんだ。澪筋は巫女としての自分じゃなくて自分自身を見てもらいたがってる。皆、巫女はこうでなくちゃとかあれはするなとか、型にはめようとするだろ。その型の中でしか生きられないかもしれないと怯えてる自分をなくしたいんだ。澪筋が叫んだ言葉、聞いた? 巫女とか頭領とかの役割と関係なく、好きな人と一緒になりたいんだってさ。てか、巫女は頭領と結婚しなきゃならない決まりなんてないのに、誰も彼もそこんとこにこだわりすぎだよね。ともかくあたしはあの子の応援をする。あの子の願いをかなえるには、巫女の守り手を気取ってるあんたは邪魔なんだよ」
「気取ってるとは何だ!? 俺はっ!」
波穂はかっとなって我を忘れ、水潮に殴りかかっていた。頬に向けてこぶしを突き出しながらしまった相手は女だと思ったがもう遅い。こぶしはもう止められない。
ぱん!
小気味いい音が響いた。波穂は目を見開いた。
こぶしは、水潮が構えた両手のひらに収まっていた。その手のひらの隅から片目を覗かせ、水潮は強い視線を波穂に送る。
「悪い。今のはあたしの失言だった。今までの澪はあんたの助けなしにはやってこられなかった。その点は感謝する。だが、これからは不要だ。澪筋のことは澪筋自身を好きだと言ってくれる男が守る」
波穂はこぶしを降ろすことができなかった。不要と言われたことに少なからず動揺していた。何故自分が動揺しているのかわからず、波穂は混乱して身動きが取れなくなる。
水潮は波穂のこぶしからぱっと手を離し、片目を瞑ってみせる。
「でもま、波穂が澪筋自身の守り手になってくれるっていうなら歓迎するけどね」
波穂はとっさにこぶしを引っ込め飛び退った。真っ赤になり声を荒げる。
「勘違いするな! 俺は澪筋のことをそのようには」
「巫女を守るにしては波穂の頑張りは並大抵じゃないなーって思うんだけどね。かっこつけるのもたいがいにしなよ。それじゃ気を引くためにいじめてた子どもの頃と変わんないって」
「な……っ!」
波穂はさらに赤くなった顔を、腕を顔の前に上げて隠した。水潮は覚えていたのだ。波穂が澪筋をいじめた時のことを。恥ずかしい過去を暴露されて居たたまれなくなる。かといってこの場を逃げることもできず波穂は立ち往生した。
水潮はそんな波穂を “以前のように笑い者にしたり”、馬鹿にしたりはしなかった。波穂の姿など目に入ってないそぶりでぽんと手を打つ。
「あ、そうだ。話変わるけどさ。波穂はいつも無表情だか仏頂面だかわからない顔してるけど、人を率いるのに必要なのは心を悟られないようにすることじゃなくて、迷わない自分をみんなに示すことだと思うよ。迷いはついていく人を不安にさせる。迷いがなければ逆に心を見せて人間臭くしてた方が人気が出る。さっき叫びながら波座に殴りかかっていった波穂はかっこよかったよ」
水潮は背を向けると、手をひらひら振って中央の坂へと歩いていった。水潮から見えなくなったと確認してから、波穂は壁に背中を預け嘆息した。
戦ったわけじゃないのにへとへとだった。始終水潮の言に翻弄された。澪筋と同じだから十七歳か。五つも年下の女にろくな反撃もできなかった。大陸で暮らしているとああなるものなのか。
島を守るのだと言った。そのために男の格好をし、男に混じって鍛錬をしているのだという。大陸ではそうでもないらしいが、島では男と女の役割がはっきりと分かれている。女の身で男の真似をするのは容易でないと水潮も知っていたはずだ。にもかかわらず何故そのような決意をしたのだろう。水潮はどんな危機を予感しているのだろうか、あるいはすでに……。
坂に出た水潮は、斜面に座る波座を見下ろした。波座は「よっ」と軽く手を上げる。家々の屋根は低いが、長身の波座でも座れば屋根の下に隠れられる。隠れて待っていた波座に、水潮はにっと笑いかけた。示し合わせたわけではないが、水潮は波座が待っているのを知っていて、波座は水潮が知っていることに気付いていた。
「前置きは必要ないよね? ── 一勝負お願いできる?」
波座はにっと笑った。




