8、
集会所から大きな布袋をかついで出てきた海境に、子どもたちがわっと寄った。我先に手を伸ばす。
「まーて。待て待て。ちっちゃい子から順番だ」
海境のところから戻ってきた子どもたちは手に何かを持って頬張っていた。
手を伸ばす子どもたちがいなくなると、海境は大広場の端に集まった女たちの方に丁寧なおじぎをする。
「おまたせいたしました。ご婦人方もどうぞ」
女たちは友達同士連れ立ってうきうきと、けれどもはしたなくならないようゆっくりと歩いていく。
「これは何なの?」
「甘食ですよ。甘く味付けした菓子パンです」
「パンってなぁに?」
「大陸で主食として食べられているものですよ。麦を粉にしたものから作るんです」
「あら。前にくれたクッキーっていう食べ物もそうじゃなかった?」
「大陸では麦の粉はいろんな食べ物に使われるんですよ」
「この間のビスケットっていうお菓子もおいしかったわ。またお願いね」
「覚えておきますよ」
女たちは海境が配るものを受け取ると、礼を言いつつ散っていく。最後の女たちが去ったところで、大広場の壁にもたれて立っている澪筋のところまでやってきた。ずいぶんと減った袋を下げてくる。
「巫女様、まだじゃないですか?」
袋を探り、中から手のひらより少し小さくて丸い、真ん中がもりあがった茶色いものを出して渡す。澪筋は受け取ってにっこりと笑った。
「ありがとう」
「お口に合うとよいのですが」
にこやかに口上を述べると、海境はすぐに隣にいる水潮に目をぱっと顔を輝かせた。
「君、もしかして水潮? さっき聞いてびっくりしたよ。生きてたんだなぁ、よかったよかった。それにしてもホントは女の子なんだって? すっかりだまされてたよ。僕のこと覚えてる? 目立つ方じゃなかったから覚えてないかな? 何度か一緒に遊んだことあるよ。あ、そうそう。水潮もどうぞ。それ食べて精をつけていい子を産んでくれよー」
一方的にまくしたてて、水潮が礼を言う間もなく行ってしまう。
「何? あれ」
水潮があっけにとられて海境の姿を目で追っていると、澪筋は口を押えてくすくすと笑った。
「そんな情けない顔はじめて」
「え? 情けない?」
「どう反応したらいいのかすごく困ってる」
澪筋に情けないと評された弱った顔を、水潮は甘食を持っていない方の手でぺたぺたと触った。
「あれ、海境よね? いつも誰かにくっついてて、くっついてた相手の影に隠れてたのを覚えてるわ」
「……水潮、その記憶の仕方ってちょっとあんまりだと」
「あはは。ちっちゃい頃考えてたことだから。……で、あいつが今、一人で商いしてるの? それにこういうの、前にはなかったはずだけど」
水潮は甘食を持ち上げて示した。
「海境が、長老たちを説得して調達してくれるようになったの」
澪筋は誇らしげに説明した。
八年前の襲撃の後、商いに出ていた者の一人が抜けることになり、後継者も育てなければならないということで、当時まだ十代だった海境が加わることになった。襲撃から二度目の航海の折、商いの船が二ヶ月も帰島を遅れ、帰ってきたのは海境一人だった。賊に襲われて海境以外の者は殺されてしまったという。海境もひどい怪我をしていた。帰ってくることができたのは、親切な商人が通りかかって助けてくれたからだった。怪我の手当てをしてくれ、帰島するために自分のところの用心棒を漕ぎ手に貸してくれたのだという。今はその商人と商いをしている。島の特産品を独占した商人は特産品を欲しがる人間に高く売りつける分、島から高く買いつけてくれるのだという。それで島の生活に必要な分を買い入れ、余ったお金で甘い菓子など今まで買い入れたことのないものを買ってきてくれるようになった。
「海境のおかげで栄養のある食べ物を食べられるようになって、元気になっていった人も何人かいるのよ」
「へえ……」
水潮は感嘆の声を上げる。海境を見直した様子の水潮に、澪筋は得意げに話し続けた。
「一度ひどい目に遭ったら二度と大陸に行きたくなるなると思わない? なのに海境は商いの役を続けてくれて、しかも四年前にも同じ目に遭ってるのに、それでもやめないでいてくれるの」
「へ──」
今度の声はわずかばかり低くなった。澪筋はその微妙な差に気付かず満足げに言う。
「すごいでしょ! 島長には勝手なことをしてって叱られたみたいだけど、他にもよく効く薬を買ってきたりして、島のためになることだから島長も何も言わなくなったの」
「……すごいね」
水潮はもらった甘食を一口かじった。ふかふかで、噛むと口の中でとろけるような感触があり、甘さの中に小麦と卵の風味があった。澪筋も一口をよくよく噛みしめて堪能する。
「おいしいね」
「……うん。そうね」
満面の笑みで言う澪筋に、水潮は小さな声で答えた。
澪筋は自分が嬉しいものだから、水潮も嬉しいものだと思い込んで気付かなかった。元気をなくした水潮の悲しげな笑顔。
水潮はこの菓子を知っていた。食べたのも初めてではないし、作った事もある。味とともに思い出がよみがえる。
それは幸せな記憶ではなかった。
波穂は路地を曲ろうとしたところで人とぶつかりそうになった。
「悪い」
謝ったのに相手は会釈だけで行ってしまう。貨物船の漕ぎ手の一人だ。海境を助けてくれた商人が厚意で貸してくれているというが、波穂はどうも好感を持てずにいた。掟にのっとって上陸したわけではないのに、好き勝手に村の中を見て回る。恩があるから文句が言えない。それに不気味だった。彼らの声を聞いたことがない。水潮と同じ黄ばんだ白い衣を身につけているが、彼らの陰気な様子は暗色で全身を包む服の方が似合いそうだ。それは思い出したくないあの日を連想させた。
三日月はとうに西の空に沈み、島内は深い闇に包まれていた。黒い石でできた村は輪郭さえ見分けられない。こんな夜は砂浜の白だけが星明りを集めてほのかに発光する。
林の中の、その明かりがちょうど届くぎりぎりのところで海境は背に光を受けて、闇を作る木の陰に向けて言葉を発した。
「癖なんだろうけどさぁ、そういうことされるとこっちも警戒するしかなくて面倒なんだよね。──姿、見せろよ」
凄みをきかせた声が消えてから少し置いて、陰から人が姿を現した。
逆浪だった。
海境は逆浪が自分の言葉に従順に従ったことに満足して口の端を吊り上げる。それからいつものおどけた口調で話の口を切った。
「水潮帰ってきたんだね。びっくりしたよー。生きてただけでもびっくりなのに、それが帰ってきてしかも女の子だったなんてさぁ」
海境の双眸が暗く光った。
「昔から知ってたんだって? どうして知ってたのかな? それに夫婦の約束までしちゃってたなんて、どういう間柄だったんだよ?」
逆浪は答えなかった。突っ立って足元の砂にじっと視線を落としている。言葉に問いかけを用いたが、海境は別に答えが欲しかったわけではない。
「まぁいいけど。ともかく水潮のことは報告に行ってくるよ。何かしらの命令が下るだろうからそのつもりでいてくれよ」
逆浪の肩を軽く叩いて横をすり抜けていった。
砂を踏む音が遠ざかり消えても、逆浪は微動だにせず佇んでいた。髪だけが、浜から吹き上げてくる風になびいていた。
翌日の夕方、男たち総出で商いの荷の準備をしていた。島の男が荷を頭の上に持ち上げると、漕ぎ手たちがそれを引っ張り上げる。
海境は大広場から船の下まで荷を運んでいた。荷を持とうとした時、水潮の姿が見えて体を起こす。
「あれ? どうしたの」
「船のところまで荷を運べばいいのね?」
「ちょ! 女の子には無理──」
止めようとした海境は、海草水が満タン入った男の胴回りもある樽を軽々と持ち上げた水潮にあっけにとられた。
「何?」
操舵には自分の何倍もの重さを支える腕力が必要なのだから、女であっても水潮はかなりの腕力があることになるのだ。そのことを思い出して、海境は口を濁した。
「……いや、何でも」
一緒に歩きながら水潮は訊いた。
「こんなに早く行かなきゃならないの?」
「や、今回は早くほしいってせっつかれててさ」
「でも昨日はそんなこと言ってなかったじゃない。どうして?」
更に突っ込まれて海境は困った笑みを浮かべる。
「やー、はは。うっかりしててね。漕ぎ手の彼らに言われて思い出したんだよ。無理言うことになっちゃって皆には申し訳ないけどさ」
「あ、ごめんなさい。責めているわけではないの。……その、海境怖くないの? 大陸で二度も賊に襲われたって聞いて……」
海境はかすかに体を揺らした。水潮は樽を片手に抱えて、指先で海境の腕に走る幾筋もの筋の一つをなぞる。
「これ、そのときの傷? 痛そう……」
海境はぎょっとしてその指を勢いよく避けた。水潮が目をしばたかせて海境を見ると、海境はしまったというような顔を笑顔にして取り繕う。
「女の子がそういうことするのやめようよ。男によっては勘違いして襲っちゃうぞ。俺だったからよかったもののさ」
いたずらっぽく目をくるくるさせて、水潮は海境の顔を覗き込んだ。
「海境は襲わないの?」
「こーら。そういうこと言うと襲っちゃうぞー」
がーっと口を開いて水潮に噛み付く真似をした。水潮はきゃーっと悲鳴を上げてわざとらしく逃げる。二人同時に笑い出した。
「襲ってみる?」
「……いや、遠慮しとくよ。水潮ちゃんには意中の人がいるんでしょ?」
それを聞いた水潮は、不意に笑うのをやめ真剣な面持ちでじっと海境を見た。
「ね、海境は困ってたりしない?」
「え……?」
ひとしきり笑った後、不意に心配げな表情をした水潮に、海境は思わず驚いた呟きをもらす。
「その、何か困ったことあるんじゃないかなって思って。あたし、大陸での暮らしが長いから結構相談に乗れると思うよ。ほんと、困ったことあったら相談しに来てね」
海境は内心ぎくっとしながら、いつもの調子で答えた。
「やさしいなぁ、水潮ちゃんは。そういえば昔っから面倒見がよかったよね。今も皆に武術や操舵を教えてるんだって?」
それからは島の様子や昔話などの雑談を交わしながら船の下まで並んで歩く。
荷の積み込みはすぐに終わり、数人の男たちに押されて船は浜から離れた。櫂で船を回し進行方向を変え、帆を張って風の力で沖に出る。
水潮は大きく手を振って見送った。
「甘食おいしかったよ! ありがとう! 無事帰ってきてね!」
「行ってくるよー!」
海境も両手一杯振って元気に返事する。
入り江を出たところで、海境は船首へと移動した。航路を指示する海境の定位置だ。遠くを見渡す顔からは、さっきまでのゆるんだ表情はなかったかのように消えていた。
船が入り江から出ていって、人々は村へと帰りはじめた。水潮は一番後ろを歩く。その表情は海境と話していた時のなごやかなものと打って変わって、厳しいものになっていた。




