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6、

 入り江に漂う舟の間でちょっとした騒ぎがあった。木の陰から女が顔を出しているのに目ざとい者が気付いたからだ。

「おい、あれ誰だ?」

 他の者たちも次々そちらを見る。女が林まで出てくる理由はだいたい相場が決まっている。男たちは色めきだった。

「おい、誰の女だよ」

「おまえじゃないのか? 最近言い寄ってる女が居ただろ」

 ここからでは遠すぎて女が誰なのかわからない。誰なのかわからないからこそ憶測が飛び交って盛り上がる。一人黙って見つめていた水潮が、急に舟を浜に向けて走らせた。

「あ、あれ澪筋だ」

「え?」

 男たちの驚きに答えている間などなく、水潮は浜に乗り上げ舟を放って駆け出した。澪筋は人がやって来るのに気付いてすっかり木の陰に隠れてしまった。水潮は澪筋が隠れた木の陰を覗き込んで話し掛ける。

「どうしたの?」

 水潮だとわかって明らかにほっとした表情をしたというのに、澪筋はすぐうつむいて顔をかくす。

「ごめんなさい」

「集会所の裏で待ってて。舟を揚げたら誰にも見つからないように行くから」

 澪筋を立ち去らせてから水潮は舟に戻った。舟を波間に出し直し、舟揚げ場に回る。舟を浜の奥まで引き入れるための深く掘られた溝に舟を入れ、波の力を借りつつ一番奥の杭まで引きずっていく。杭に舟を結びつけていると、先に作業を終えた若者たちが集まってきた。

「本当に澪筋だったんだな」

 その声は心底驚いていた。何しろどう頑張っても判別がつかないと思っていた距離である。よくぞ見分けたと感心する反面、どうして見分けられたのか訝しくもあるのだろう。が、それも少しの間のこと、すぐに澪筋と水潮の関係に関心が向く。

「水潮に何の用があったのか?」

「いつの間に仲良くなったんだ?」

「隅に置けねぇな」

 その一言に全員がぴたりと口をつぐんだ。それから一拍置いて爆笑が湧き起こる。

「馬鹿かおまえ。水潮は女だっつーの」

 馬鹿を言った若者は周囲の者たちに小突かれる。水潮は顎に親指を引っ掛けて格好付けた。

「あたしってそんなにかっこいい?」

 水潮のふざけた様子にまた爆笑が起こる。

 舟揚げが終わり、大広場まで一緒に戻った若者たちと別れると、水潮は路地に入って人目を避けながら集会所の裏に回った。しゃがんで身をちぢこませていた澪筋にこっちと短く声をかけると、水潮は早足で歩き出す。澪筋は急いで立ち上がり小走りで追いかけた。

 大広場の裏側を歩き村を出る。林の中に入って適当な一本を選んで傍らに立った。浜にはもう誰もいない。岬の両端に見張りが立っているだけで、他に人影は見あたらない。

「あたしとなら遠目に逢引に見えるでしょ。誰か来ても無粋に近寄ってきたりはしないと思うわ」

 愉快そうに水潮は言うが、それは楽しい話なんだろうか。澪筋が反応に困っていると、水潮は腰に手を当てて口の端を少し上げる。

「それで話っていうのは朝ご飯を一緒にできないってこと?」

 澪筋はびくっと体を震わせる。

「あ、あの、その……」

 気まずさに口ごもり、澪筋は水潮と視線を合わせられない。水潮はため息まじりに言った。

「あたしは女の人たちに嫌われてるからね。あたしと仲良くすれば、澪筋も嫌な思いをするかもってわかってたんだ」

 澪筋は言い当てられてどきっとし、思わず顔を上げる。水潮は少し笑みを浮かべて肩をすくめた。

「あたし女なのに女の仕事してないじゃない? 男の仕事をしてるとはいえ本当にすべき仕事を放っぽってれば、そりゃあいい気はしないよね。でもあたしは今やってることをやめるわけにはいかない。理解されなくて嫌われるのは仕方ないことだとわかってるんだ。けど、それに澪筋を巻き込むわけにはいかないからね」

「ごめんなさい……」

 涙が落ちて砂地に染みをつくった。

「あやまらなくっていいって」

「だって、私から言ったのに……」

「あのね、澪筋。澪筋があたしを避けることに決めても、それは悪いことじゃあないのよ。だって、あたしが女の人たちに嫌われるのは自業自得だし、いつも一緒にいなきゃいけない人たちに嫌われるのは辛いでしょ?」

「でも」

「でも?」

「でもでも!」

 言葉にできなくて助けを求める目を向けると、水潮はまっすぐ視線を返して言った。

「ゆっくりでいいから、うまく言葉にできなくてもいいから、ちゃんと澪筋の口から聞かせて」

 さっきは察してくれたのに急に突き放されて、澪筋は心細さに瞳を揺らした。そんな澪筋の頬に、水潮は手のひらをそっと添える。

「澪筋はずっと我慢してきたのね。思ってることを口にできなくてためこんで、ためこみすぎて言葉にできなくなってしまったんじゃない? 何でもいいから話して。話してるうちに楽になるから。楽になったら言いたいことが思うように話せるようになるわ」

 涙があふれた。巫女になってはじめて、話をしてと、聞くからと言われた。言われて、どんなにそれを望んでいたかを思い知った。

 我慢してきた。八年前先代の巫女閼伽が死んで巫女の役目が回ってきて、それから今まで巫女の役目を我慢してつとめてきた。島の皆の、特に年配の女性の目は厳しかった。巫女らしく丁寧な言葉遣いを、巫女らしく誰よりも慎ましくあるようにと、若い娘と一緒になってはしゃいではいけません、巫女とは島の女のお手本になるべき存在なのです。

 特別扱いが、それまで仲のよかった子たちを遠ざけた。同じ年頃の女の子たちが、炊き出しなどの仕事を覚え、年頃になって恋の話に夢中になるのを、年配の女性に囲まれながら遠く見ていた。

 女の子たちの輪に入りたかった。でもそれを言って年配の女性たちに眉をひそめられるのが怖かった。澪筋が巫女にふさわしくない言動をするたびに、眉をひそめられ、巫女にはあってはならぬことだと無言で責めたてられた。

 友達はすでに遠く、その上年配の女性たちにも見放されたら本当に一人になってしまう。

 それが怖くて何でも言うことをきいた。そして何も言えなくなった。したいことも、思っていることも、何もかも。

 泣きながら、たどたどしく澪筋は話した。水潮は耳をかたむけじっと聞いていた。

「こ、こわかったの。誰にも相手にされなくなったら、どう、なっちゃうんだろうって。今でもこんなに心細いのに、巫女でなくなったらどうしようって。年配の女の人は私が巫女だからかまってくれるのに、巫女でなくなったら絶対離れてく。わ、私、巫女といっても力そんなに強くないから、いつ巫女でなくなってもおかしくないわ。私より血の濃い子だったら──」

 澪筋は言葉尻を飲み込んだ。水潮を凝視する。──怖れていた日はもうとっくにきているのではないのか?

「澪筋!? みお!」

 頬をはたかれ我に返った。腕をきつく握られ、体を支えられている。一瞬気を失ったようだった。水潮は未だうつろげな澪筋をゆすって叱咤した。

「しっかりして! 巫女かそうでないかなんてどうでもいいことなの! 巫女である前に澪筋は澪筋であって、澪筋以外の何者でもないのよ!」

「私、以外の何者でも、ない?」

 澪筋が途切れ途切れに返事を返すと、水潮はほっとして手の力をゆるめた。

「そうよ。澪筋が澪筋でありさえすれば怖いことなんて何もない」

 また涙がこみ上げてきて、澪筋はくしゃり顔をゆがめた。

「私であるってどういうこと? 人の顔色をうかがってばかりで人の言うとおりのことしかしなかった私の、どこに私があるっていうの?」

 手に顔を伏せ背中を丸めた澪筋から水潮は手を離した。支えてくれていたぬくもりがなくなって、澪筋は心細くなりよけい背をまるめて震えた。

「澪筋。あなたが今泣いてるのは、あなたが泣きたいと思ったからじゃないの? 誰が強要したわけじゃない。あなたがしたくてしたことよ? ほら、ここにあるじゃないの、あなたが」

「こんな自分があったって……」

 澪筋の目に再び涙があふれてくる。水潮はそれを親指で拭ってやりながらやさしく笑いかけた。

「澪は泣く自分が嫌なのね? じゃあ泣かなきゃならない自分を変えていかなきゃ」

「自分を、変える?」

「澪筋がこんなに苦しんでいることに周りの人が気付いてくれないのなら、澪筋自身が変わっていくしかないわ。そのためにどうしたらいいか考えてみて。澪筋はどんな自分になりたいの?」

 ゆっくりでいいからと言われ、澪筋はやさしさにつまされ、新たな涙を流した。


 翌朝女たちは目をむいた。澪筋が水潮と仲良く連れ立って泉の広場に現れたからだった。

「じゃ、また後でね」

「ええまた後で」

 水潮は大広場へと下っていく。女たちは昨日と同じようにちらちら見ながらひそひそと話をはじめるが、澪筋はむしろ軽やかな足取りで席に向かい、楽しそうに糸を紡ぎはじめた。

 三人組の女の中から一人が立ち上がった。昨日澪筋に忠告した女だった。

時津ときつ

 左右の友人にとがめる声で名を呼ばれても、それを振り切って澪筋の隣に立つ。澪筋の手元に影が落ちた。

「あなた、昨日私が言ったこと聞いてなかったの?」

 澪筋は杼を膝に降ろして上を向いた。

「聞いていました」

「水潮と仲良くするのはやめたほうがいいって、私ちゃんと口にしたわよね? あなたが水潮と仲良くしていると他の人たちに示しがつかなくなる。巫女の友人にふさわしくないわ」

「私は水潮が友達にふさわしくないとは思いません」

 気弱な澪筋が口ごたえするなどと思わなかった女たちは、その様子を唖然と見つめた。澪筋はかすかに震えながらも時津から目をそらすまいと必死に顔を上げ続ける。時津は動揺して喉を詰まらせた。たじろぐ時津に、澪筋はゆっくりとした口調で言葉を重ねた。

「水潮は私の大切な友達です。ふさわしくないと言われても友達でいることをやめようとは思いません」

 時津は我に返り、顔に血を昇らせまくし立てた。

「巫女は島の女のお手本であるべきなのよ!? そのあなたが掟を破る者を許せば、他の者が仕事をさぼっても許さなくてはならなくなるわ。そうしたら真面目に仕事している人が馬鹿を見ることになるじゃない。それに男の格好してはしたない、あんな恥知らず」

 澪筋は立ち上がってまっすぐ時津を見据えた。

「水潮は自分のことを男だと思ってほしいと言っていました。自分がやらなくてはならないことは男でないとできないことだからと。ただ、男と名乗って皆を騙し続けたくないから女であることを明かしたんです。私は水潮を恥知らずだとは思いません。男の人と同じ服を着て男の人と同じ仕事をしているのは、島を守ろうとしてくれているからです。皆さんによくは思われてないことを水潮は知っています。それでもなお、守ることをやめず頑張ってくれている水潮に、私はむしろ感謝しています」

 ──澪筋は澪筋であることを誇りに思って堂々としてたらいいの。

 昨夜、水潮は澪筋が答えを出すのにつきあってくれた。高台から真っ暗な海と空、そこに散らばる無数の星を眺めながらこんこんと語った。澪筋は人に言われたからといって水潮を避けたりなんかしたくなかった。それを聞いた水潮は、女の人たちに冷たくされたりのけ者にされたりするかもしれないけど、覚悟の上でそうしたいと言ってくれるのなら嬉しいと言った。

 水潮の励ましに応えるために、澪筋はうつむかないよう頑張ろうと思った。

 声は次第に誰もがわかるくらいに震えていった。それでも最後まで言い切った。緊張に意識がなくなりそうになるのを懸命にこらえながら、席に座り直し糸を紡ぎはじめた。

 澪筋に冷たい視線を向ける者はもういなかった。隣同士ひそひそと話しながらちらちらと時津を見る。時津はくやしさにゆがむ顔をかくしながら自分の席へ戻った。


 水潮は空き地で二人演武を教えている合間にふと顔を上げた。坂の泉に並んで立つ二人の女の姿がある。一人が座るともう一人は移動する。泉の広場の方から吹いてくる風が、水潮の前髪を後ろになびかせる。その風を味わうかのように水潮は瞳を閉じ、口元に笑みを浮かべた。

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