2、
水潮がかつて暮らしていた家は村の中にない。島の北西にある、島の外側を見渡せる高台に続く道から少しそれたところにある。閼伽をめぐって島長と反目した際に水潮の父、浪煙が勝手に作った。中は村の家と同じ造りになっているが、慣れない手で掘られているため天井も壁もゆがんでごつごつしている。
八年間誰も訪れなかっただろう家は、入り口も明り取りの窓も布が外れ、陸風が運んでくる砂で、室内あるものすべてが覆い隠されていた。
「あーあ。掃除大変」
うんざりとため息をつくと、水潮は手で砂の盛り上がっている場所を手当たり次第に掘った。布を見つけると引っ張り出し、ところどころ擦り切れてぼろになっているそれを外でばさばさと振るい、日の当る岩にかける。
「桶も箒もない」
ひとりごち、外を見た。入り口から見える場所に人の姿は見えない。外に出て見回すと、逆浪は水潮が手を離した場所にそのまま立っていた。目尻を下げ、弱り果てた表情で水潮を見返す。水潮は首をすくめ顎を引いた。
「迷惑だった?」
「え……?」
「逆浪はもう二十一だもんね。意中の人がいるのかな? ──それとももう一緒になった人がいる?」
憂い顔で視線を落とす水潮に、逆浪は目を丸くして慌てて首を横に振った。水潮はそれを見て顔をほころばせる。
「ホント? よかった!」
恥じらいを含んだ幸せそうな笑顔から、逆浪はすぐさま目をそらした。ゆるみそうになる口を手で覆う。
水潮はちらっと舌を見せて言った。
「でもさっきのはやりすぎだったね、ごめんなさい。でね、掃除道具がみつからないから貸して欲しいんだけど」
「え?」
反応の鈍い逆浪に焦れた水潮は、いたずらっぽい顔をしてしなだれかかった。
「逆浪の家に泊めてくれてもいいんだけど?」
逆浪はぎょっとして水潮を押しやり後退った。
「も、持ってくる!」
一目散に坂を駆け降りていく。水潮は慌てぶりにくすくす笑っていたが、そのうちちぇ、とつぶやくと入り口近くにもたれかかりずるずるとしゃがみこんだ。手のひらで目元を覆い、膝の間に顔をうずめる。
「逆浪……」
名を呟くと、水潮は堪え切れず嗚咽を上げはじめた。
水潮の父、浪煙は大陸からやってきた人間だ。
舟を駆って阻止する者たちを振り切り、悠々と上陸した。そして閼伽と出会い、一目でとは言わないが短い間に恋仲になった。掟に従い島人に加えはしたが、だからといって巫女であり一人娘でもある閼伽をくれてやることまでは、島長──当時は頭であった海淵も許しはしなかった。浪煙が島の掟に馴染めないこともあって余計反対した。しかし閼伽は浪煙以外と絶対一緒にならないと我を張る。仕方なく条件を出した。浪煙が現在頭領である自分も下し頭領になることができたら閼伽とのことを許そうと。閼伽には浪煙が頭領になれなかった時は島の男を選ぶよう説き伏せた。島に入って間もない者が頭領の座に就けるとは思わなかった。島にはこんな言葉がある──勝負は海ではなく陸で決する──頭領は海走りの儀式によって決められる。舟に乗れる男が全員で操舵の腕を競うものだ。しかし全員が頭領になろうとするわけではなく、頭領にしたい者の援護をしたり、逆にしたくない者の邪魔をしたりするため、より味方を得られた者が頭領になれるという意味だった。浪煙は島に入ってたった二年という歳月で多くの仲間を集め、見事頭領の座に就いた。苦々しく思いながらも二人の結婚を認めた。しかし時が経つにつれ、浪煙の人となりを冷静に見極められるようになる。人を惹きつけ力強く率いていく力があり、操舵だけでなく武術にも優れ、何より閼伽を心から愛し慈しむ姿勢に、海淵はいつしか頑なな態度を変え、浪煙を受け入れるようになっていた。
しかしその信頼は八年前に裏切られた。
夜の闇を赤々と燃える松明に突然照らし出された。賊は子どもを盾に島人たちを手際よく大広場に集めた。そして銅鏡と巫女を要求した。巫女は銅鏡に刻まれた記憶を引き出すことができる。大方銅鏡には財宝のありかが記されていると勘違いした者たちなのだろう。間違いを正そうとしたが奴らは聞く耳を持たなかった。女の首に刃を当て、巫女が名乗りを挙げなければ一人ずつ殺していくと脅す。恐怖に女子どもが喉をひきつらせ、男たちが悔しさに歯ぎしりしているところに閼伽は表れた。姿が見えないから逃げおおせたかと安堵していたのに、みすみす姿を表した娘にほぞを噛んだ。閼伽は水潮と共に浜へと連れていかれた。それから間もなくのことだった。怒号が響いたのは。それは惨劇の始まりだった。賊たちは島人に切りかかり、刃から女子どもを守るため武器を取り上げられていた男たちは素手で立ち向かって刃に倒れていった。
全滅を覚悟した時、浜から甲高い笛の音が響いた。その音を聞くと、賊たちは一斉に退却をはじめた。それを追って浜に出た。入り江には二隻の貨物船が浮かび、賊たちは一目散に船に乗り込もうとしていた。浜には点々と骸が並んでいた。その、黒ずくめの骸が続く先に一つ、横たえられた白い人影を見つけたのだった。
賊たちが沖に退いた後、姿を現さない頭領に代わって、前頭領である海淵が負傷者の手当てや死者の弔いなど指示を出した。この段階でも海淵は、浪煙は負傷して動けなくなっているとか、あるいは死したかと考えていた。それが間違いだと気付いたのは、島が朝焼けに染まり、骸をすべて浜に並べた後のことだった。その中にも負傷者にも、浪煙の姿はなかった。閼伽と共に浜に連れて行かれたはずの水潮もみつからなかった。保管してあったはずの銅鏡は消え、浪煙の舟もなかった。残されたのは背を大きく切り裂かれた閼伽の骸だけ。それらの事実が頭の中で一つになった時、海淵は浪煙の裏切りに気付いたのだった。
状況から察するに、浪煙は賊を手引きして島を混乱に陥れ、その隙に乗じて閼伽を殺し、銅鏡を持ち去り、水潮を連れ去った。すぐにでも追って、この手で八つ裂きにしたかった。しかし戦いで右腕と左足に深手を負い、島人たちは惨劇に未だ怯え頭領という指導者を失いほとんどの者が打ちのめされていた。舟に乗ることはできず、乗れたとしても島人たちを放っていけはしなかった。悔しさに身を焦がしていた折、代わりに追いかけると申し出た者がいた。その者に追撃を任せ、浪煙への復讐心を堪え、島の建て直しに尽力したのだった。
そして八年という歳月が流れた。その間に見失ったという報せを受けた。怪我がもとで舟に乗れなくなり、年寄り組に入って島長に選ばれていた海淵は、未だ襲撃の傷跡深い島を無責任に放り出すことはできなかった。広大な大陸で一度見失ったものを見つけることなど決してできまいと自分に言い聞かせ、島の建て直しに腐心することで悔しさを忘れようとした。島人たちの近しい者を亡くした悲しみが癒され、仕事の手が勢いを取り戻し、かつての生活が戻ってくると、海淵はようやく悔しさから解放されるようになった。
なのに何故、今頃になって。
現れたのは亡霊だ。浪煙と、閼伽の。冷静に話す閼伽の中から激昂するたびに浪煙が飛び出す。愛しい娘とその娘を裏切り殺した男、その二人が同居する二人の子水潮。いや、水潮と簡単に判じてはならない。島長という島人を代表する立場にある者として、簡単に受け入れるわけにはいかなかった。
水潮の帰島で大騒ぎになった島は、翌日にはいつもと変わらぬ日常を取り戻していた。
空が白む頃起き出し、全員で夜のうちに村に積もった砂を掃き清める。それが済んだら朝飯をとり、それぞれの仕事に就く。男は舟で沖に出る者と、大広場で武術の鍛錬をする者と、村を上がったところで岩を削り新しい家を造る者たちとに分かれる。女は糸を紡ぎ機を織る。材料となるのは島人が単に海草と呼ぶ、入り江の底に生える丈の長い海藻だ。海草を真水にさらして塩を抜き、茹でてから揉みしだいて茎を取り出し、それを石の器に入れて木の棒ですり、綿毛のような繊維になるまでほぐしてから糸に紡いで布を織る。海草を採ってくるのは男たち、塩抜きの様子を見て回るのは子どもたち、茹でてもみしだくのは女、繊維にするのは年寄り組や武術の鍛錬に割り振られた男たち、と手分けして布作りに励む。この布は大陸では瑠璃布とよばれ、光沢ある青緑と柔らかさから人気があり、村の特産品になっていた。家を削って出た石くずは、大陸では上質な金物の材料になるという。そういった特産品を大陸で売り、得た金で麦や壷、編みかごなどの必需品を手に入れて、島の生活は成り立っていた。
家の建ち並ぶ場所を島人たちは村と呼ぶ。家々は岩でできた山の斜面に沿って掘り出されているため、家々は階段のように高さを違え、村の縦の道はほとんどが階段になっていた。階段や横の道はすれ違うだけの幅しかないが、村の中央を縦に走る道は大人十人が並べるほどの幅がとってあり、なだらかな斜面と階段を組み合わせた通りになっていた。その途中には水を溜める小さな泉がある。二、三日に一度降る雨は山の天辺からゆっくりと伝い落ち、坂道に掘られた溝に集って泉に流れ込むのだった。水は金属臭がして飲めたものではないが、手や顔を洗ったりするには便利だった。糸を紡ぐ時、汗ばむ手をこまめに洗いたいので、女たちは泉に集る。泉の周りは広い平面になっていて、四角い岩の腰掛けが幾つか並んでいた。仲のいい者同士、腰掛けや近くの階段に座って、おしゃべりを楽しみながら糸を紡いでいる。
その一角からふっと会話が切れた。隣、隣へと突付いていって、波が引くように全員が口を閉ざしてしまう。小さい子どもの母親は近くで遊んでいた子どもを呼び寄せてしーっと口元に人差し指を当てた。
通りかかったのは水潮だった。
皆目線を合わせないように、けれども姿をわずかに視界に入れるようにして注目している。水潮は声をかけようとしたが、露骨に目を合わせようとしない様子に諦めてそのまま坂を下っていった。
通り過ぎた後、若い娘たちが興味津々に語り出す。一人がこっそり見に行こうと言い出し、娘たちは連れ立って水潮の後をつけることにした。年配の女がはしたないと言って咎めたが、口にしただけで本当に止めようとはしなかった。単調で退屈な島の生活に若い者が変化を求めるのは当然のことだ。年配の者たちにもその気持ちはわかる。
娘たちは大広場を通らない細い裏道からこっそりと林に入った。浜の東側の舟揚げ場に男たちが集まっている。一本の木に二、三人ずつ隠れて様子をうかがった。
「どこ?」
「あれ。あれ。一番奥の」
「あ、あの小さいの」
水潮は舟揚げ場の一番浜から遠いところで帆を広げて風に乾かし、舟底についた藻を取り除いている。
「遠目に見ると男と変わんないよね」
「惜しいわ。本当に男だったらなー」
「何? 男だったら結婚したかったって?」
小声で、きゃー、と騒ぎ立てる。
「真剣な話、並み居る男たちをかいくぐって上陸しちゃうっていうのはかっこいいわよね」
舟揚げ場にいる男たちは、沖に出るための準備をしているところだった。帆を張りなおし、舟を出すのに支障がないか点検する。勝手にやってきた水潮が勝手に舟を出そうとしているのではなくただ舟の手入れにきたのだとわかって、男たちは幾分かほっとしていた。
何人かが木の陰に隠れる娘たちに目を止めた。
「何だ? あれ」
隣の男が耳打ちする。
「あれだろ」
顎でしゃくった先に水潮がいる。耳打ちされた男はああと呟いて面白くなさそうに顔をしかめた。
水潮はそんな周囲のざわめきに気付いているのかいないのか、黙々と作業を続ける。
舟出の合図がされ、男たちは順々に舟を出して入り江から出て行った。娘たちも満足したのか林から姿を消した。水潮は一人きりになったところで屈み続けて疲れた腰を伸ばし空を仰いだ。手のひらで鼻筋をこすり上げる仕草は、流れた汗をぬぐったようにも泣いている様子にも見えた。




